第9話
和美は息苦しさに喘いだ自分の声で目が覚めた。ベッドから上体だけを起こし、壁掛け時計を見ると午前四時三十分を過ぎたところだった。ずっとうなされていたのだろうか、背中にびっしょりと汗をかいていた。
右手を額にあてる。起きる直前まで夢を見ていた。
そこはあたり一面が水で、ボートが三隻浮いていた。遠くには二隻、それぞれに創平と蒼空が乗り、同じ方向に進んでいた。仲良く談笑をしているのだろう。にこやかな表情の二人が見えた。その離れたところに、和美の乗るボートがあてもなく浮いていた。和美は遠くの二人を見つめるが、眩しさに目を細めた。そして、ハッと気がつく。自分の船底には穴が空いていた。直径二十センチほどの穴から、水がどんどんと入ってくる。和美はまずいと思うが、なす術が無い。
創平の方に思わず手を伸ばした。「助けて!」と声を発しようとした瞬間に止まった。膝立ちの状態で半分口を開けたまま、時間が止まったように創平と蒼空の談笑している姿を見つめた。
三秒ほど経ってから、和美は手を下ろし唇を噛んだ。水はもう太ももにまで達していた。
いつの間にか、和美の少し離れたところにもう一隻のボートがあった。
それには一が乗っていたが、和美よりも船に空いている穴が大きいのだろう。沈む寸前だった。
一と目があった。その表情は作りものではない本当の笑みに見えた。
直後、一とボートが沈んだ。
すると、和美のボートも沈み始める。胸まで水につかり何かにすがろうと手を伸ばすが、視線の先には太陽があるだけだった。
酷い夢だ。と、和美は奥歯を噛みしめた。工場に乗り込んだ夜から一週間が経ち、平穏な生活が戻り始めたところでこんな夢にうなされる自分に和美は憤った。
あの夜の脳が痺れるような緊張が終わると、達成感とは程遠い何かが欠落したような思いが、屍のように累々と和美の心の中に横たわっていた。
事件後に分かったことがあった。あの夜、廃工場に和美の上司がいた理由だ。つまるところ、和美の上司は第二のストーカーだったのだ。和美の身辺を調査している際に、一は不審な行動をしている和美の上司を目撃し連絡先を入手。事件の夜は一に脅されてあの場にいたと、本人が警察の調べに供述したという。つまり、職場に送られてきた嫌がらせのFAXは彼こそが犯人だったのだ。一と喫茶店に行った和美が許せなくて、その鬱積が募った結果だった。
今になって和美は思うところがあった。一は言った。「愛という病に蝕まれている」と。その通りだと思う。
一も、上司も和美もそれぞれのきっかけがあり胸に想いが芽生えた。理由はどうあれ、相手を愛していると本人に伝える事ができなかった。相手に伝わらない方法で表現する事しかできなかった。我が身に降りかかったことから、和美は強くそう感じた。知らない人間からすれば、一方的な愛の押し付けは災害のようなものだ。
一はどうだろう。彼は自分とよく似ていると和美は考えていた。一にとっては蒼空が、和美にとっては創平が、自分の存在を、自分という個の価値を証明する唯一の拠り所であった。
だからこそ、危惧した。
自分の拠り所か失われる空しさ、愛する人から必要とされなくなる恐怖。
一も自分も、世間体だけ見れば周囲が羨む立場にあった。しかし、その実はいつか来るであろう、愛する人が自分から離れていく日に怯えながら、成功から成功へ。失敗から失敗へと追い立てられていったのだ。
何ということだと、和美は心中で嘆く。こんなにも、脆くて弱い自分だったとは。創平のためにだけある、万能の英雄とまではいかないまでも、自分が努力で練り上げてきた技術や社会的な評判にはそれなりに自信があった。しかし、その世間でいう「立派な姉」の鎧をとってしまうと、そこには丸裸にされた臆病な自分の姿がある。
何かが致命的に欠けているから、過剰な何かでその穴を埋めようとした。一と自分の共通点はそこにある。結果だけが異なったのだ。
和美は緩慢な動作で立ち上がると、一階に降りてシャワーを浴びた。汗と一緒に陰鬱としたこの気持ちも洗い流したい気持ちで一杯だった。




