第33話 六つの勇者刻印
慰霊広場の冷たい石畳の上で、六人の歴代勇者たちが一斉に苦悶の声を上げて倒れ伏していた。
彼らの鎖骨に刻まれた勇者刻印が、皮膚を焼き焦がすような赤黒い光を放ち、激しく脈動している。大祭を待たずして、教会が王都の地下にある聖灯炉を遠隔操作し、六人の生命力を強制的に吸い上げ始めたのだ。
私は、広場の群衆を聖炎から守るために魔力を使い果たし、自力で立ち上がることすらできない状態だった。肺は浅く痙攣し、指先は石畳の冷たさを感じるのすら鈍い。
それでも、私は霞む意識を無理やり繋ぎ止め、目を大きく見開いた。私の持つ『契約視』の魔力で、彼らの刻印から聖灯炉へと伸びる死の契約糸を掴み、その流れを私自身へと一時的に『迂回』させるためだ。
「ネレイア……無理だ、やめろ!」
クラウスが、私の背中を抱え起こしながら叫んだ。その動きで腹帯に血が滲み、息が詰まる。それでも彼は私から手を引き剥がして決断を代行することはしなかった。彼には見えない契約の糸を断ち切る手段はなく、身体を支えることしかできないのだ。
「……っ!」
私は血を吐くような思いで、空間に浮かび上がる複層の契約糸へ魔力を伸ばした。
しかし、極端な魔力低下と疲労が、私の知覚を致命的に狂わせていた。幾重にも絡み合う太い魔力線の束の中から、私は最も太く輝いている一本を掴み、強引にその経路をねじ曲げた。
だが、手応えが軽い。
間違えた。私が本線だと思って掴んだのは、外部からの干渉を逸らすために教会が仕組んでいた『太い囮回線』だった。
「あァァァッ!」
処置が遅れたことで、第一代勇者エルナと第二代のバルトが、喉を掻きむしりながら絶叫した。生命力が一気に炉へ引き抜かれ、彼らの顔から急速に血の気が失せていく。
「ネレイア様……もう、いい……!」
第三代のシルヴィアが、薄れゆく意識の中で首を横に振った。彼らは皆、自分たちの六人分の生命の吸い上げを私が肩代わりすれば、間違いなく私が壊れると分かっているのだ。だからこそ、痛みに耐えながらも、私からの救済をそれぞれ不器用な形で拒絶しようとしていた。
「わたしが、やる!」
フィアが自らの刻印を両手で押さえ、私へ身を乗り出した。
「わたしのほうへ、つないで!」
「だめだ、フィア!」
クラウスが片手で娘の細い腕をきつく掴み、その無謀な自己犠牲を物理的に制止する。私もまた、掠れた声で彼女を止めた。
「やめなさい……フィア。あなたが引き受ければ、一瞬で死にます」
私の視界が、不気味なノイズで乱れ始めていた。囮回線を掴んだことによる魔力の逆流。見極めようとすればするほど、契約の糸は視界の中で幾重にもブレて、どれが本線なのか全く分からなくなる。
「ネレイア様、太さを信じないでください!」
倒れていたヨアヒムが、苦痛に顔を歪めながら叫んだ。
「配給番号は年代順です。古い六人の接続は、新しい枝の下を通っているはずです!」
「祈祷句が変わる前後で、刻印の明滅を見て!」とリーゼが続けた。「本線なら『光への回帰』の第三節に応じます!」
フィアは六人の胸元を順に見た。
「エルナさん、バルトさん、シルヴィアさん……今、同じ順番でもう一度光った。鐘の間に二回」
配給番号の年代、祈祷句の節、肉眼で数えた明滅の順番。
渡された情報を重ねると、太い囮の下に隠れた六本だけが、同じ拍で震えていた。
「……引き受けます」
私は彼らの生命のすべてを私が肩代わりするような、無謀な真似はしなかった。ただ、聖灯炉へと一直線に向かっていた彼らの生命力を、私の魔力回路という巨大な岩で堰き止め、数分間だけ遠回りさせる『迂回』の経路を構築したのだ。
――バチィッ!
私の中で、何かが決定的に焼き切れる音がした。
「ぁ……、が……ッ!」
六人分の生命の奔流をねじ曲げた凄まじい反動が、私の両目を直接打ち据えた。
視界が真っ白に明滅し、次いで、両目から生温かい血がとめどなく流れ落ちた。
痛覚を超えた熱が眼球を焼き、やがて、私の視界の大部分が『黒い斑点』によって覆い尽くされた。今まで空間に満ちるように見えていた無数の契約の糸が、黒い闇に飲み込まれ、二度と見えない深淵へと沈んでいく。
一時的な魔力枯渇ではない。緊急判断として自らの許容量を超えた代償を迂回させた結果、私の『契約視』は不可逆な損傷を受けたのだ。この先、どれほど強力な治癒魔術をかけようとも、私がこの世界を契約の糸として精緻に読み解く力は、二度と元には戻らないだろう。
「ネレイア! 目が……!」
クラウスが私の顔を覗き込み、流れる血を見て顔面を蒼白にした。
「……大丈夫、です。線は、外しました」
私は彼の腕の中で、黒い斑点だらけの視界のまま、短く事実だけを告げた。
六人の歴代勇者たちの苦悶のうめき声が止まり、彼らの胸元で荒れ狂っていた刻印の明滅が、わずかに弱まる。しかし、これは数分間の時間稼ぎに過ぎない。迂回させた流れがいずれ聖灯炉へと戻れば、彼らは再び吸い上げられ、今度こそ私は完全に砕け散る。
広場に隣接する大鐘楼から、時を測る鐘の音がごぉんと鳴り響いた。
「いーち、にーい、さーん……」
フィアが、私の傍らにしゃがみ込み、小さな声で秒数を数え始めた。彼女は泣き叫ぶ代わりに、私が稼いだこの『数分間』という命の時間を、正確に測り続ける役割を自ら担ったのだ。
彼女が六十を数え終えようとした、その時だった。
遠く、王宮へと続く大通りの向こうから、蹄の音とともに何かが猛烈な速度で近づいてきた。
黒い斑点の隙間から、私の目に鮮やかな色彩が飛び込んでくる。
それは、教会の白と金の紋章ではない。白陽王国の威信を示す、深紅と黄金の『王国旗』だった。
「道を空けなさい!!」
群衆を割って広場に飛び込んできたのは、武装した近衛騎士団を従えた、第一王女イレーネだった。彼女は実務的な乗馬服に身を包み、その手には王家の正式な封蝋が押された分厚い羊皮紙の『勅書』が握られている。
彼女の到着は、決して偶然の奇跡などではない。
私たちが集めてきた証拠、アベルとデリクが残した証言記録、そして先ほどこの広場で歴代勇者六人が生身で否定した戦死記録。その積み重ねが、慎重な彼女に軍と王家を動かす根拠を与えたのだ。
イレーネは馬から飛び降りると、教会の神官たちを鋭い声で一喝し、広場の中央で勅書を高く掲げた。
「王位継承順位第一位、イレーネ・白陽の名において、摂政代行の緊急権限を行使する!」
彼女の凛とした声が、混乱する広場を完全に制圧した。
「これより、王国と聖光教会との間に結ばれた『勇者選定および刻印運用に関する代理契約』を、暫定的に停止する! 教会は直ちにすべての刻印の強制起動を解除し、地下の候補者移送を中止せよ! これに反する者は、王国に対する反逆とみなす!」
王家が持つ国内防衛と契約管理の権限。
教会という別の権力機構に対し、王家が法的な根拠を持って正面から介入し、制度の運用に強制的なブレーキをかけた瞬間だった。
イレーネの宣言が響き渡ると同時、私の中で堰き止めていた六人の生命力の流れが、フッと軽くなった。
聖灯炉からの強制指示が、代理権限という根拠を一時的に失い、緩んだのだ。
六人の勇者たちは、重い後遺症による荒い息を吐きながらも、完全に生命を奪われることなく石畳の上で生き延びた。
クラウスが、大きく安堵の息を吐き出し、私を支える腕に力を込めた。
「……終わったのか」
「いいえ」
私は血に濡れた目元を拭いもせず、黒く欠けた視界でイレーネの掲げる勅書を見つめた。
「あくまで『暫定停止』です。正式な代理契約の無効化と、刻印の魔力源である聖灯炉の破壊。……そして、灰獣に対する正規の代替防御を実働させない限り、彼らの刻印は消えません」
私は契約視の大部分を失った。完全な勝利にはまだ遠い。だが、大人が引き取り、法と証拠で戦い抜いたこの日の数分間は、五十年の絶望の歴史に、確かな楔を打ち込んだのだ。




