第2話:夜の脱走、そして前代未聞の不祥事
「待て待て待て! 頼むから大人しくしてくれゴブ次ぃぃぃぃ!」
深夜の辺境都市『ラズガルド』。
静まり返った石畳の通りを、俺は寝巻きのままで全力疾走していた。
夜風が容赦なく体温を奪っていくが、今の俺の脳内は、冷や汗とパニックで沸騰寸前だった。
我が家の新入りテイムモンスター、ゴブリンのゴブ次が脱走した。
それも、俺がなけなしの魔力を込めて補強した三重ロックの鉄ケージを、物理的にも魔力的にもバキバキにへし折って、だ。
「ギギ……キキキ、キィーッ!」
風の街路を抜けるたび、遠くからかすかに聞こえてくる、あからさまに『盛りのついた小鬼』の咆哮。
あいつの目的地はどこだ?
昼間、ギルドで見つめていたピンク色のメアスライムの家か?
いや、あのスライムを飼っている冒険者の宿は反対方向だ。
ゴブ次の野生の本能(というか性欲)のアンテナは、今、もっと別の、とてつもなく強烈な『極上のメス』のフェロモンを感知して突き進んでいる。
テイマーとしての薄い魔力の繋がりを通じて、俺にはあいつの異常なまでの興奮状態がダイレクトに伝わってきていた。
「ハァ、ハァ……くそ、そっちは高級住宅街や商業ギルドの特区だぞ……!」
ゴブ次が走ったと思われる足跡(なぜかステップを踏んだような奇妙な軽やかさがある)を追いかけること十五分。
俺が辿り着いたのは、高い鉄柵と強固な防護魔法の結界に囲まれた、一際巨大な敷地だった。
門に掲げられた看板には、『エドワーズ高級魔導牧場』とある。
この街の一大権力者であり、大富豪でもあるエドワーズ男爵が経営する、国でも屈指の超高級ブランド牧場だ。
「嘘だろ……なんでこんなところに……」
嫌な予感しかしない。
見上げると、普段なら高位の魔法使いでなければ解除できないはずの『防犯用の防魔結界』が、一箇所だけ、まるで綺麗にハサミで切り取られたように丸く穴が開いていた。
ゴブリンの筋力や魔力で突破できるはずがない。
だが、あいつはやり遂げたのだ。
ただ「中にメスがいる」という、その一念だけで、国家レベルのセキュリティを無力化したのである。
「頼む、まだ何も起きていてくれるな……!」
結界の穴から敷地内へと滑り込み、俺は音を立てないように家畜小屋へと急いだ。
建てられたばかりの、清潔で贅沢な木造の小屋。
その扉は内側から鍵がかかっていたはずだが、やはり木っ端微塵に破壊されていた。
恐る恐る中を覗き込む。
そこは、この牧場の最高級品である『魔導羊』たちの飼育スペースだった。
一頭で家が建つと言われる、極上の魔力毛を持つ聖なる羊たち。
その、純白で美しいメスの羊たちが――なぜか、全員が一列に並び、うっとりとした表情で頬を赤らめていた。
そして、その中心。
一番大きくて毛並みの良い、この群れの『女王羊』の背後で、我が家のゴブリンが、やりきったような顔で佇んでいた。
「ギギ……」
ゴブ次は、どこから調達してきたのか、牧草の切れ端を口に咥え、まるで修羅場をくぐり抜けた一流のプレイボーイのような深いトーンで短く鳴いた。
その足元には、事後であることを示すかのように、ぐったりと、しかしどこか満足げに横たわる女王羊の姿。
「お前……何やってんだぁぁぁぁぁぁ!!」
俺は思わず、声にならない絶叫をあげてゴブ次へと飛びかかった。
ゴブ次は抵抗する気も起きないほど体力を使い果たしていたらしく、俺の手によってあっさりと首根っこを掴まれる。
口から咥えていた草がぽろりと落ちた。
「羊だぞ!? モンスターですらない、この街の最高級の家畜だぞ! 種族が違いすぎるだろ! なんでそんな事後みたいな哀愁漂う顔してんだよ!」
「ギギ?」
ゴブ次は「何を怒っているんだ、主よ」とでも言いたげに、首を傾げて小首をかしげた。
違う、そんな可愛いポーズをしても騙されない。
これは完全なる不法侵入、器物破損、そして――前代未聞の、家畜に対する性的不祥事だ。
その時だった。
「――おい。そこで何をしている、不審者め」
小屋の入り口から、冷酷で、地の底から響くような声が聞こえた。
振り返ると、そこには、複数の武装した私兵を従え、松明の光に照らされた、絵に描いたような恰幅のいい貴族の男が立っていた。
この牧場の主であり、街の絶対権力者――エドワーズ男爵その人だった。
「ひっ……!」
「私の、我が命よりも大切な魔導羊たちの聖なる小屋で、寝巻きの男と、醜悪なゴブリンが一体何をしている? ……ほう、そのゴブリンの首にはテイマーの刻印があるな?」
男爵の目が、一瞬で怒りで血走る。
私兵たちが一斉に抜剣し、鋭い刃が俺の首元に突きつけられた。
「あ、あの、これは、その、うちのゴブリンが夜中に散歩を……」
「散歩で結界を破り、我が極上の羊たちをこのような、破廉恥な姿にするわけがなかろう! おい、この不届き者を捕らえろ! ギルドへ通報し、全財産を没収のうえ、一生奴隷鉱山で働かせてやる!」
終わった。
俺の冒険者人生、いや、人間としての人生が、たった一匹のゴブリンの暴走によって、完全に幕を閉じようとしていた。
「ゴブ次、お前本当にやってくれたな……!」
俺が絶望の涙を流しながら引き立てられようとした、その時。
俺の脳内に、ゴブ次のステータス画面が、今まで見たこともない眩い黄金の光と共にポップアップした。
【ユニコーン、ドラゴン、神、悪魔、獣、あらゆる生命の限界を超越する】
【固有ユニークスキル:『万象交配』が発動しました】
「……え?」
その妙なシステムメッセージと同時に、小屋の中にいた魔導羊たちの身体が、一斉に怪しい緑色の光に包まれ始めたのだった。




