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乙女ゲームの世界に反旗を──我らNPCは運命を書き換える  作者: 宗像 凪


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第6話:孤高の悪役令嬢

 翌朝の薔薇園。

石造りのベンチに腰を下ろした六人の表情には、昨夜の三連敗の疲労がまだ残っていた。


 しかしカイルの分析によって見出された「前提条件の破壊」という新たな戦略が、彼らに希望を与えている。朝露に濡れた薔薇の花弁が規則正しく並び、朝日が計算された角度で差し込んでくる。この世界の人工的な美しさにも、もはや彼らは慣れていた。


「さて、次のイベントでは必ず『前提条件』を破壊してみせましょう」

 エリザベートは扇子を優雅に開きながら、仲間たちを見回した。絹の手袋をした指先が扇子の縁を軽く叩く音が、朝の静寂に響く。


「ああ。今度こそシステムの鼻を明かしてやる」

 レオンが頷いた。その顔には可憐な君事件のトラウマがまだ残っているが、それ以上に強い闘志が宿っている。


「私の『月光のダンス』で得たデータも活かせる。システムの攻撃の法則は確実に見えてきている」

 ジークハルトも静かに同意した。


 その時、ソフィアの手帳から突然、けたたましい警告音が鳴り響いた。今まで聞いたことのないような、切迫した音。手帳を持つソフィアの手が震え、焦茶色の瞳が驚愕に見開かれる。


「何ですか、これ!?」

 ソフィアが慌てて手帳を開くと、ページ全体が血のように真っ赤に染まっていた。その上に金色の文字が浮かび上がり、警告文を炎で炙ったかのような禍々しい様相を呈している。


『★★★緊急特別イベント発生予告★★★』

『種別:悪役令嬢イベント(重要度:最大)』

『対象:エリザベート・アルトマール』

『シチュエーション:ヒロインへの嫌がらせ』

『発生時刻:本日正午』

『発生場所:学園中央食堂』

『演出段階:最大』


 五人が手帳を覗き込むと、さらに詳細が表示された。


『イベント詳細:』

『エリザベート、クレアのドレスに紅茶をかける』

『暴言「元は平民の分際で」「身の程を知れ」等』

『ジークハルト、レオン、カイル、ルカスが非難』

『ソフィア、クレアを慰める』

『エリザベート完全孤立』


 一瞬、沈黙が薔薇園を支配した。規則的な小鳥のさえずりだけが、仕掛け時計の音のように響いている。


「次はわたくしが標的、ということね」


 エリザベートは手帳から顔を上げた。その切れ上がったコバルトブルーの瞳には、恐怖ではなく冷静な分析の色が浮かんでいる。


「今までは攻略対象が操られた。しかし今回は……」

「物語には『悪役』が必要なのよ」


 カイルの言葉を引き取るように、エリザベートが続けた。


「わたくしを加害者にし、皆をわたくしの敵に回す。ヒロインを中心に一同は結束を深める。それがシステムの予定するシナリオなのでしょう」


「私もクレアを慰める役に、ですか。本来、私はクレアの親友という設定ですから、システムにとっては当然の配役なんでしょうけど……」

 ソフィアが声を震わせた。手帳を抱きしめる手に力が入り、紙が軽く歪む音がする。


「仲間同士を争わせるとは、なんという邪悪な策略でしょう」

 ルカスが十字を切った。


「エリザベート。たとえ私たちが酷い言葉を口にしても、それは決して本心ではない。今ここで誓おう」

 ジークハルトがエリザベートの肩に手を置いた。


「ありがとうございます、ジークハルト様。でも心配には及びませんわ」

 エリザベートはその手に自分の手を重ねた。絹の手袋越しでも温かさが伝わってくる。


「わたくしはアルトマール公爵家の娘です。どれほど操られようと、どれほど酷い言葉を浴びせられようと、矜持を失うことはありませんわ」


 エリザベートは五人を見回した。背筋はピンと伸び、顎はわずかに上げられ、その姿勢には高位貴族としての揺るぎない誇りが滲んでいた。


「それに、これはある意味でチャンスですわ。システムがわたくしを『完璧な悪役令嬢』として演出するなら、その荒唐無稽さを観察する絶好の機会です。レオンの時の空中浮遊、ルカス様の時の聖女演出、ジークハルト様の時の時間停止。今回はどんな馬鹿げた演出が来るか、しっかり観察しましょう」


 エリザベートは扇子をパチンと開いた。


「なるほど。データ収集という観点か。確かに、システムの演出の法則を詳細に記録できれば、次への対策も立てやすくなる」

 カイルが眼鏡を光らせた。


「お前、強いよな……」

 レオンが苦笑した。


「当然ですわ。『可憐な君』と言わされたレオンの屈辱に比べれば、わたくしなど」

「それはもう忘れてくれ!」

 レオンが真っ赤になって抗議する。その反応に、緊張していた空気が少しだけ和らいだ。


「しかし、本当に大丈夫なのか? 私たちが君を非難する言葉を口にするのを、一方的に聞かされる羽目になるんだぞ」

 ジークハルトが心配そうに尋ねた。


「大丈夫ですわ。今ここで皆さんの本心を聞きました。後はシステムがどんな茶番を用意しているか、冷静に観察させていただくだけです」

 エリザベートはきっぱりと言った。


「私も、頑張って記録します。たとえ体がクレアを慰めても、心はエリザベート様の味方です」

 ソフィアが手帳を抱きしめながら言った。


「ありがとう、ソフィア。さあ、時間ですわね。参りましょう」

 エリザベートは微笑んだ。



* * *



 正午。学園中央食堂。


 高い天井から吊り下げられたシャンデリアが昼の光を反射し、磨き上げられた大理石の床が鏡のように輝いている。長テーブルには銀の食器が整然と並べられ、貴族の子弟たちが優雅に昼食を楽しんでいた。ローストチキンの香ばしい匂いとバゲットの芳醇な香りが混じり合い、談笑する声が程よく響いている。


 エリザベートは仲間たちと共に、いつもの席についていた。手元には豪華な昼食が並んでいるが、さすがに食欲は湧かない。それでも背筋を伸ばし、ナイフとフォークを扱う所作は優雅だ。どんな時でも気品を失わない。それがアルトマール家の教えだった。


 ジークハルト、レオン、カイル、ルカス、ソフィアも皆、緊張した面持ちで時計を見つめている。壁にかけられた時計の針が運命の時刻へと近づいていく。その針の動く音が、今日は異様に大きく聞こえた。


「魔力の流れが変化し始めている」


 十一時五十八分。カイルの測定器がポケットの中で微かに振動を始めた。彼は眼鏡を押し上げながら小声で報告する。

 十一時五十九分。ソフィアの手帳から規則的な音が響いた。時を刻む鐘のように冷たく、容赦のない音。


 そして、正午の鐘が鳴った。

 その瞬間、世界が変わった。食堂全体の空気が凍りついたように重くなり、窓から差し込む光が突然劇的な角度に変化した。影の落ち方までが計算され尽くした、ドラマチックな光景へと変貌する。


「魔力濃度が急上昇している。レオンの時と同じ、いや、それ以上だ」

 カイルの測定器が激しく振動した。

 ソフィアの手帳から警告音が鳴った。


『イベント開始』

『強制力:最大出力』

『対象固定:エリザベート・アルトマール』


 エリザベートの体に異変が起きた。目に見えない糸が体中に絡みついていくような不快な感覚。手足の関節一つ一つに、別の意志が宿っていく。彼女は歯を食いしばって抵抗しようとしたが、筋肉は既に彼女の命令を聞かなくなっていた。


 食堂の入り口が開いた。

重厚な木の扉がゆっくりと開き、その向こうからクレアが現れた。


瞬間、食堂全体が眩い光に包まれた。クレアの周りに七色の光の輪が浮かび上がり、彼女の背後には白い羽のような光の演出まで広がっている。天使の翼を思わせる神々しい演出だ。


 クレア自身は、その派手な演出に少し驚いたように見えた。背後の光の翼を振り返るように首を傾げ、しかしすぐに微笑みを浮かべて食堂を歩き始める。その微笑みには、自分に向けられた視線を楽しむような無邪気さがあった。


「まあ、クレア様の後ろに羽が見えますわ」

「まるで聖女のようですわね」


 食堂にいた生徒たちがざわめく中、荘厳な音楽が流れ始めた。教会のオルガン演奏のような旋律。それは大気を震わせるように、どこからともなく聞こえてくる。


 クレアは微笑みながら食堂を歩いていく。その一歩一歩に合わせて、床に光の粒子が浮かび上がる。彼女が歩く道を光そのものが祝福しているかのようだった。


「聖女の行進か。さすがに演出過剰だろ」

 レオンが呆れたように呟いた。


「視覚効果が度を越している。禁術でも行使されたかのような派手さだ」

 カイルも眼鏡の奥で目を細めた。


 そして、エリザベートの体が勝手に立ち上がった。彼女の意志とは無関係に、完璧な貴族令嬢の所作で椅子から立つ。背筋はピンと伸び、顎はわずかに上げられ、その姿勢は教科書に載せられるほど完璧だ。しかし顔には、見たこともないような冷酷で高慢な表情が浮かんでいた。唇の端が冷笑的に歪み、瞳は見下すような光を宿している。


 足が動き出した。優雅に、しかし明らかに威圧的に、クレアの方へ向かって歩いていく。ヒールが大理石の床を叩く音が食堂中に響き渡る。カツン、カツン、カツンという規則的な音が、運命の足音のように不気味な迫力を持っていた。


 周囲の生徒たちがエリザベートの様子に気づき始めた。


「エリザベート様、何か恐ろしい表情をしていらっしゃるわ」

「クレア様の方へ向かっていらっしゃいますわ。まさか……」


 ざわめきが広がる中、エリザベートはクレアの前で立ち止まった。そして、テーブルの上にあった紅茶のカップを手に取った。湯気の立つ熱い紅茶。エリザベートの手がそれを持ち上げる。


 その瞬間、周囲の動きが極端に緩やかになった。比喩ではない。生徒たちの動きが実際に遅くなり、空中を漂う湯気までもがゆっくりと渦を巻いている。舞台の見せ場を引き延ばすような演出だった。


 エリザベートの手が動いた。

紅茶の入ったカップが、クレアのドレスに向かって傾けられていく。琥珀色の液体が、完璧な放物線を描いて空中を飛ぶ。その軌跡には虹色の光が伴い、液体ではなく宝石が飛んでいるかのような、ありえない美しさだった。


 ザバァ。


 効果音まで鳴り響いた。空気中から響いてくる、派手な水音。それはティーカップに入る量の紅茶が立てられる音ではなく、滝が流れ落ちるかのような大げさな音響効果だった。


 紅茶がクレアの白いドレスを染めていく。しかしその染まり方までもが演出されており、紅茶の染みが芸術作品のような模様を描きながら広がっていく。本来なら不規則に広がるはずの液体が、対称性を保ちながら図案のように広がっていく様は、明らかに自然現象ではなかった。


「きゃあ!」


 クレアが叫んだ。その声には、心からの驚きと困惑が含まれていた。濡れたドレスとエリザベートの顔を交互に見つめるクレアの瞳にも、困惑と悲しみ、そしてかすかな恐怖が混じっている。


 そして、エリザベートの口が開いた。


「あら、クレア。そこにいたの。あまりにみすぼらしくて、気づかなかったわ。ごめんあそばせ。安物のドレスには、紅茶の染みがお似合いですわね」


 その声は確かにエリザベートのものだったが、いつもの気品ある口調とは違う、氷のように冷たく見下すような響きを持っていた。


 周囲の生徒たちが一斉に息を呑んだ。エリザベートは内心で叫んでいた。


(違う! わたくしはそんなこと思っていない! そもそもクレアのドレスは安物なんかじゃない! 飾りこそ少ないけれど、そのぶん布地も仕立ても一流よ、絶対!)


 しかし口は容赦なく言葉を続ける。


「平民上がりの分際で、貴族と同じ食堂で食事をするなど、身の程を知りなさい」


(身の程って! ここは学園の食堂よ! 身分に関係なく生徒皆が使う場所じゃない!)


 エリザベートの周りに、突然紫色の薔薇の花びらが舞い始めた。

レオンの時のピンクの薔薇よりも濃い、深い紫。それは悪役令嬢の象徴のように、エリザベートを中心に渦を巻いている。彼女が悪の女王であることを主張するかのような、圧倒的な視覚効果だ。


「ここでも薔薇が……」

 ソフィアが驚いて呟いた。手帳を見ながら、その異常な光景を必死に記録している。


 流れていた音楽が変わった。聖女のテーマから、悪役令嬢のテーマへ。重厚で威圧的で、しかしどこか滑稽な響きを持つ旋律。それはまさに、歌劇の悪役が登場する場面そのものだった。


「システムが本気で『悪役令嬢イベント』を演出している。視聴覚効果が最大限に活用されている」

 カイルが眼鏡を押し上げながら呟いた。


 クレアは困惑した表情で立ち尽くしている。栗色の髪が微かに震え、潤んだ桃色の瞳には涙が浮かんでいる。しかしその様子は、どこか芝居がかった印象を拭えない。舞台の上で泣いている女優のような、計算された悲しみ。


「エリザベート様……ここは学園です。生徒としての本分を外れない限り、皆が平等なはずです。どうか、お考えを改めてください」


 クレアの声は悲しみに沈みながらも、決然とした響きを持っていた。正義の執行者と悪役が対峙する構図が、完全に作り上げられていた。


 食堂にいた全員がエリザベートとクレアに注目している。その視線の全てがエリザベートへの非難の色を帯び始めていた。

 そして、ジークハルト、レオン、カイル、ルカスの四人の拘束が突然解除された。いや、正確には解除されたのではない。別の命令に置き換わったのだ。


 ジークハルトが立ち上がった。その動作は優雅で王太子としての威厳に満ちているが、表情には今まで見たことのないような冷たさが浮かんでいた。


「エリザベート。君は間違っている」

 その声は氷のように冷たい。普段の温かさは一切なく、ただ非難だけが込められている。


(違う! これは私の本心じゃない! エリザベート、すまない!)

 ジークハルトは心の中で叫んでいた。しかし足は勝手にクレアの方へ向かって歩き出し、口は容赦なく言葉を続ける。


「貴族として、人として、君の行いは許されない」


(やめろ! 私はそんなこと思っていない! エリザベートは悪くない!)

 彼は床に散らばった紅茶の染みを見下ろしながら、さらに言葉を重ねた。


「これがアルトマール家の令嬢のすることか」


(言うな! そんな言葉、言いたくない!)


 レオンも立ち上がった。その顔には騎士としての正義感と怒りが刻まれている。いや、刻まれているように見える。実際には、それは全て演出に過ぎないのだが。


「エリザベート! 許さねえ!」

 その声は戦場で敵に向かって叫ぶような、激しい怒りに満ちていた。


(ちげえ! 俺は許さないなんて思ってねえ! エリザベート、すまねえ!)

 レオンは心の中で必死に謝罪していたが、体は勝手に拳を握りしめ、エリザベートの方へ一歩踏み出す。


「俺はお前をそんな人間だと思ってなかった!」


(お前は性根は良いやつだよ! こんなこと絶対にするやつじゃないって分かってる!)


 しかもレオンの周りには、なぜか炎のような光が浮かび上がっていた。彼の怒りを視覚化したかのような赤々と燃える光。実際の炎ではなく幻影のような光の演出だったが、十分に迫力があった。


 カイルも立ち上がった。眼鏡の奥の瞳には冷たい軽蔑の色が浮かんでいる。


「愚かな」

 その一言は氷の刃のように鋭かった。


(愚かなのは私じゃないか! こんな台詞を言わされている私が!)


 カイルの眼鏡が妖しく光った。その光で強調されていたのはエリザベートの方だった。彼女が冷酷な悪女であることを印象づけるかのような、不自然な照明が食堂を照らす。


「エリザベート嬢。あなたは教養ある貴族の令嬢のはずだ。それなのに、こんな下品な振る舞いとは……」


(下品な振る舞いをさせられたんだろう! 操られて! 私はそんなこと思ってない!)


 ルカスも立ち上がった。その穏やかな顔には今は深い失望の色が浮かんでいる。


「エリザベート様。神は、こんな行いをお許しにならないでしょう」

 その声は聖職者が罪人を諭すような、悲しみに満ちた響きを持っていた。


(違う! 私は失望なんてしていない! エリザベート様は何も悪くない!)

(神じゃなくてシステムが許さないんだろう! 私たちを操ってるシステムが!)


 ルカスの周りには白い光の粒子が舞っていた。神の怒りを表現しているかのような、神々しくも恐ろしい演出。


 そして最後にソフィアが動いた。クレアの元へ駆け寄り、ハンカチを取り出す。その動作は舞台で何度もリハーサルを重ねたかのように自然だった。


「クレア、大丈夫!?」


(エリザベート様、ごめんなさい! これは私の本心じゃありません!)

 ソフィアは心の中で叫んでいたが、手はクレアのドレスについた紅茶の染みを拭き始める。その献身的な様子は、彼女がクレアの親友以上の存在であるかのように映っていた。


 食堂にいた生徒たちが次々と声を上げ始めた。


「エリザベート様、やりすぎですわ」

「クレア様、何も悪いことをしていらっしゃらないのに……」

「ジークハルト殿下たちがお怒りになるのも当然ですわ」


 周囲の視線が全てエリザベートに集中している。その全てが非難と軽蔑に満ちていた。

 エリザベートは完全に孤立していた。ジークハルトたちは自分を非難し、ソフィアはクレアを慰め、周囲の生徒たちは自分を見下している。


 しかしエリザベートの心は決して折れていなかった。彼女は冷静に状況を分析していた。


(これがシステムの狙いね。わたくしを孤立させて、絶望させて、仲間との信頼を壊そうとしている。でも……)


 エリザベートはジークハルトたちの目を見た。その瞳の奥に、苦悶の色を見た。彼らも操られている。彼らも必死に抵抗している。そして彼らも心の中では自分を信じてくれている。


(大丈夫。わたくしは分かっているわ。これは全部、茶番劇よ)


 流れる音楽が変わった。悲劇のテーマ。悲しく哀れみに満ちた、悪役令嬢の末路を暗示するかのような旋律。それは食堂全体に響き渡り、この場面がいかに「ドラマチック」であるかを強調していた。


 ソフィアの手帳から小さな音が響いた。


『イベント大成功』

『悪役令嬢覚醒シーン:完璧』

『演出品質:最高位』

『クレア好感度上昇:全員 +30』

『エリザベート好感度低下:全員 -50』

『孤立度:最大』


 その文字を、操られている間もソフィアの目は捉えていた。


 やがて、システムの強制力が解除された。ジークハルト、レオン、カイル、ルカス、ソフィアの五人が突然我に返る。レオンの周りの炎のような光が消え、カイルの眼鏡の光が普通に戻り、ルカスの周りの光の粒子が消失する。そして自分たちが何を言ったかを理解した瞬間、全員の顔が蒼白になった。


「エリザベート!」

 ジークハルトが駆け寄ろうとした。しかしエリザベートは一歩も引かなかった。背筋はピンと伸び、顎は上げられたまま。ただその切れ上がったコバルトブルーの瞳には、深い疲労の色が浮かんでいた。


 ジークハルトは足を止めた。傷ついているはずだ。自分たちに非難され、孤立させられ、それでも背筋を伸ばして立っている。それは「高慢」とは違う。薔薇園で触れた手の冷たさを思い出した。彼女もまた、被害者なのだ。


「皆さん、取り乱してはいけませんわ。ここは食堂ですもの。周囲の目がありますわよ」


 その声はいつもの気品ある口調だった。先ほどまでの高飛車な声とはまったく違う、本物のエリザベートの声。


「で、でも。俺は、お前に酷いことを……」

 レオンが言葉に詰まった。


「後にしなさい、レオン」

 エリザベートは扇子を開いて優雅に自分の顔を扇いだ。その動作に一切の乱れはない。

「今は、クレアのドレスを汚してしまった責任を取らなければなりませんわ。ソフィア、クレアを保健室へ案内して、念のため火傷がないか診てもらってちょうだい。着替えはすぐに届けさせるわ」


「え……あ、はい!」

 ソフィアは慌てて頷き、手帳をポケットに仕舞い込みながらクレアの手を取った。クレアはエリザベートたちの様子を困惑したように見つめて立ち尽くしていたが、ソフィアに促されて食堂を出て行った。

 その後ろ姿を見送ると、エリザベートは小さく息をついた。


「さて、皆さん。食堂は人が多すぎますわ。場所を変えましょう。薔薇園で」



* * *



 午後三時。薔薇園。

 石のベンチに六人が座っていた。午後の日差しが薔薇の花弁を照らし、人工的な美しさを際立たせている。長い沈黙が続いた。誰も何を言えばいいのか分からなかった。


 ついにジークハルトが口を開いた。


「エリザベート。本当にすまなかった。私は君に『間違っている』と言った。君の婚約者でありながら」

 その声には深い後悔が滲んでいた。


「それがどうかしましたの? ジークハルト様は操られていただけですわ。あの言葉はあなたの本心ではない。それは最初から分かっていましたもの」

 エリザベートが涼しい顔で言った。


「それからレオン。あなたも謝罪する必要はありませんわ。あの炎の演出は、なかなか面白かったわ。怒りで燃えている騎士のようで」

「い、いや、あの炎の光は俺も予想外で……ってか、お前、本当に平気なのか? あんな酷いこと言われて」

 レオンは頭を掻いた。


「平気ではありませんわ。紅茶をかけさせられて、暴言を吐かされて、紫の薔薇まで降ってきて、視覚的にも精神的にも疲労困憊ですもの」

 エリザベートはきっぱりと言った。


「エリザベート嬢、私も酷いことを言った。『愚かな』だの『下品な振る舞い』だの……」

 カイルが眼鏡を押し上げた。


「あら、カイル様の眼鏡が妖しく光っていたのも印象的でしたわよ。冷酷な学者のような演出で、システムの趣味の悪さがよく表れていましたわね」

 エリザベートが微笑んだ。

「趣味の悪さ。確かに」

 カイルは苦笑した。


「エリザベート様、私も『神がお許しにならない』などと……」

 ルカスが十字を切った。


「ルカス様の周りに光の粒子が舞っていたのも、演出過剰でしたわね」

 エリザベートは扇子を閉じて膝の上に置いた。


「皆さん。わたくしが一番驚いたのは、システムの演出の派手さですわ。効果音、音楽、薔薇の花びら、炎、光の粒子。舞台の上で演じているかのようでしたわ」


「確かに。あれほど視覚的な演出は今までで最大規模だった。レオンの時の薔薇や音楽どころではない」

 カイルが頷いた。


「えっと、記録を確認しますね。イベントの詳細ですが……エリザベート様が操られていた時間は約十二分。その間に、暴言十八回、紅茶をかける一回。それから……」

 ソフィアが手帳を開いた。顔が赤くなる。

「私がクレアを慰めた時間は約四分。その間、ずっと心の中で『エリザベート様ごめんなさい』と叫んでました」


「分かっていますわ、ソフィア。あなたは本来クレアの親友という設定ですもの。システムがあなたをクレアの味方にするのは当然のこと。あなたのせいではありませんわ」

 エリザベートが優しく言った。


 彼女は立ち上がり、五人を見回した。


「皆さん、今日のことで分かったことがありますわ」


「分かったこと?」


「ええ。システムはわたくしたちの結束を壊そうとしている。わざわざ『緊急特別イベント』を起こし、仲間割れを誘発しようとしている。でも、失敗したようですわね」

 エリザベートは扇子をパチンと開いた。


「そうだ。私たちは互いに傷つけ合ってしまった。でも、それでも信頼は失われなかった」

 ジークハルトが立ち上がった。


「ああ! 俺はエリザベートを信じてる!」

 レオンも立ち上がった。


「今日のデータは貴重だ。システムが『仲間割れ戦略』を使ってきたということは、物理的な妨害では私たちを止められないと判断したのかもしれない」

 カイルも立ち上がった。


「私たちは、システムにとって脅威になっている、ということですね」

 ルカスも立ち上がった。


「そうですわ。だからこそシステムは必死になってわたくしたちを分断しようとした。でも、わたくしたちの絆は、そんなものでは壊れませんわ」

 エリザベートが頷いた。五人に手を差し出す。


 ジークハルトが手を重ねた。レオンが手を重ねた。カイルが手を重ねた。ルカスが手を重ねた。ソフィアが手を重ねた。六人の手が重なり合う。

 その時、ソフィアの手帳から音が鳴った。慌てて手帳を開くと、新しいメッセージが浮かんでいた。


『警告:予期せぬ異常』

『仲間割れイベント失敗』

『絆数値:予想外の上昇』

『システム再計算中……』


「えっ、システムが混乱している?」

 ソフィアが驚いて言った。


「そうか! システムは私たちが仲間割れすることを『確定事項』として計算していたんだ。でも、それが失敗した」

 カイルが眼鏡を光らせた。


「つまり、システムの予測が外れた、ということですわね」

 エリザベートが不敵に微笑んだ。薔薇園の空を見上げる。青白い空には相変わらず、いつもと同じ形の雲が浮かんでいる。


「素晴らしいですわ。今日は確かに辛い経験でしたけれど、その代わりに大きな収穫がありましたもの。システムは完璧ではない。予測を外すことがある。そしてわたくしたちの絆は、システムの計算を超えることができる」


 エリザベートは五人を見回した。


「次はおそらく、カイル様のイベントを阻止する番ですわね。今度こそ、前提条件を完全に破壊して、システムに思い知らせてやりましょう」


「おう! 次こそは絶対に成功させる!」

 レオンが拳を突き上げた。


 午後の日差しが六人を照らしている。偽物の薔薇が規則的に揺れる中、六人の表情には確かな希望の光が宿っていた。彼らは今日、深い試練を経験した。操られ、傷つけ合い、孤立を味わった。しかしそれでも彼らの絆は壊れず、むしろより強固になった。システムの思惑とは裏腹に。


 エリザベートは扇子を閉じて胸に当てた。彼らの戦いは続く。しかし今、彼らは確信していた。どんな試練が待っていようと、この絆があれば乗り越えられる、と。

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