第34話:スキップ不可の絶望
世界が白く染まり始めた。
視界が真っ白な光に呑まれていく。耳を劈くような高音が鳴り響き、エリザベートは思わず両手で耳を塞いだ。レースの手袋越しに伝わる自分の頭蓋骨の振動が、別の誰かのもののように感じられる。
ジークハルトが彼女の腕を掴んだ。半透明の手。けれどその温もりだけが、白濁する世界の中で唯一確かなものだった。
「エリザベート!」
「見えていますわ!」
会場の壁が次々と白く溶けていく。波打っていた大理石の床も、逆さまに浮いていたシャンデリアも、崩壊しかけた世界のすべてがさらに上書きされるように、白い光に呑み込まれようとしていた。
空中に、赤い文字が浮かび上がった。
『緊急スキップ開始:結末まで十秒』
「スキップだと?」
カイルの声が鋭くなった。眼鏡の奥の紫の瞳が、空中の文字列を凝視している。
「プレイヤーは強制的に結末まで飛ばすつもりか」
エリザベートは歯を食いしばった。
(クレアが自我を取り戻したことすら、なかったことにするつもりですのね)
白い光が四方から迫ってくる。レオンが剣を構えたが、光は物理的な実体を持たず、刃は空を切るだけだった。
ルカスも両手を突き出して銀色の防御を展開しようとしたが、白い光の前ではそれは蝋燭の炎のように頼りなく揺れるだけだった。
「このスキップ、おかしいです!」
白い微光を放つページに浮かぶ時刻表示を見て、ソフィアは息を呑んだ。
「時刻が前に進んでは後ろに戻っています。往復しているんです」
その時、白い光が一瞬だけ明滅した。
心臓の鼓動のように。一秒進んでは、一秒戻る。世界が前進と後退を繰り返し始めた。
ジークハルトの体が前に一歩踏み出し、次の瞬間には元の位置に引き戻されていた。レオンが剣を振り上げ、そして振り上げる前の姿勢に戻る。クレアの口が開き、閉じ、また開き、また閉じる。
「おはよう──ございま──おはよう──ございま──おはよう──ございま──」
クレアの声が、壊れた蓄音機のように同じ言葉を繰り返し始めた。
つい先ほど、初めて自分の意志で「ありがとう」と言ったクレアが。初めて自分の足で歩き、初めて一分の沈黙を味わったクレアが、今また、システムの操り人形に戻されている。
いや、操り人形よりもなお残酷だった。壊れた操り人形だ。同じ動作を無限に繰り返すだけの。
その顔には困惑が浮かんでいた。桃色の瞳が助けを求めるように揺れている。けれど口は勝手に動き続け、首が一秒ごとに左右へ振れては元に戻る。
彼女の頬は不規則に引きつっていた。笑おうとしているのか、泣こうとしているのか、その判別すらつかない歪んだ表情が、繰り返しの中で凍りついている。彼女の周囲だけを照らしていた淡い光も、点滅を繰り返して不安定に明滅していた。
「カイル!」
エリザベートが叫んだ。
「これ、あなたの仕業ですの!?」
「ああ!」
カイルが叫び返した。その顔は既に蒼白で、額からは大量の汗が流れ落ちている。
「世界の演算回路に、同じ処理を永遠に繰り返す術式を刻み込んでおいた」
彼は眼鏡を押し上げようとして、震える指先では押し上げられなかった。
「プレイヤーが時間を飛ばそうとするたびに、システムは同じ一秒を何度も処理し直すことになる。スキップは実行不能だ」
(事前に仕込んでいたということは、カイルはこの事態を予測していたのね)
エリザベートはそう分析しながらも、カイルの状態に目を凝らした。
カイルの指先から青白い光が漏れ出し、その光は血管を逆流して腕へ、肩へと這い上がっている。魔力を世界の根幹に直接干渉させるという行為が、彼自身の生命力を燃料として消費しているのだ。
ついにカイルの体が崩れた。吐き出される息は荒く、全身から魔力が蒸発するように失われていく。
「カイル!」
レオンが駆け寄り、床に打ちつける前にカイルの体を支えた。
ルカスもすぐに横に跪き、両手を広げた。銀色の光がカイルを包み込む。しかしルカスの顔にも苦痛の色が浮かんでいた。神への接続が切れた状態で加護を維持し続けることは、自らの魂を削る行為に等しい。
「持ちこたえてください。今、あなたの魂が燃え尽きないように加護をかけます」
ルカスの額にも汗が滲み、唇は血の気を失っていた。それでも光を止めなかった。
「ソフィア!」
エリザベートが振り返った。
「今の状態を記録して。この仕掛けには、どこかに綻びがあるはずですわ!」
「はい!」
ソフィアは手帳を広げた。
彼女の視界には、常人には見えないシステムの情報が流れている。しかしその情報自体が、壊れた映像のように同じ内容を何度も何度も繰り返していた。
スキップ命令が届く。システムが処理しようとする。術式に阻まれて異常が起きる。またスキップ命令が届く。永遠に同じ処理の繰り返しだった。
ソフィアは震える手で記録を取ろうとしたが、手帳のページは既に同じ文章で埋め尽くされていた。書いても書いても、同じ情報が溢れ出してくる。
* * *
会場では、奇妙な現象が起き始めていた。
天井のシャンデリアが一秒ごとに明滅している。点灯し、消灯し、点灯し、消灯し。その光に照らされて、七人の影が床に伸び、消え、伸び、消える。
床の亀裂も一秒ごとに広がっては元に戻っていた。大理石が砕け、破片が飛び散り、次の瞬間には亀裂は消え、破片も元の位置に戻り、再び亀裂が走る。
壊れることも修復されることもなく、永遠に破壊と再生の狭間で震え続ける床。
壁から流れ落ちていた赤い絵の具も、落下しては壁に戻り、また落下しては壁に戻る。永遠に「落ちる瞬間」だけを繰り返し、決して床に到達することがない。
「おはよう──ございま──おはよう──ございま──おはよう──ございま──」
クレアの声が途切れることなく響き続けていた。
ジークハルトがクレアに近づこうとしたが、一歩進むと元の位置に引き戻される。また一歩進み、また引き戻される。彼は同じ一歩を延々と踏み続けることになった。
「前に進めない」
レオンも同じだった。剣を振り上げても、次の瞬間には元の姿勢に戻っている。
空中に、プレイヤーの苛立ちが文字となって浮かび始めた。
『なんで進まないの?』
『飛ばそうとしてるのに!』
『不具合? もういい、強制終了させる!』
世界全体が激しく揺れた。強制終了の命令が届いたのだ。
しかしその命令もまた、時間の繰り返しに巻き込まれた。
終了の命令が届く。実行される前に時間が巻き戻る。また届く。また巻き戻る。終了することも続くこともできず、世界は同じ一秒を永遠に繰り返し続けた。
「効いていますわ」
エリザベートが呟いた。冷静な声で、けれど拳は握りしめたまま。
「プレイヤーが何をしても、同じ一秒から抜け出せない」
(だけど、手詰まりなのはこちらも同じね)
「ですが、このままだとカイル様が」
ソフィアの声が震えていた。手帳から顔を上げた彼女の目には、恐怖が滲んでいる。
カイルの顔は既に死人のように青ざめていた。
全身を覆う青白い光は、彼自身の生命力そのものだった。魂を燃やし続けることで、この無限の繰り返しを維持している。ルカスの加護の光も弱まり始めていた。二人とも、限界が近い。
「おはよう──ございま──おはよう──ございま──おはよう──ございま──」
クレアの声が、呪詛のように会場に木霊する。
その時、空中に新たな文字が現れた。
『処理中:応答不能』
『完了をお待ちください』
システムの処理能力の限界に達したのだろう。プレイヤーの命令が遮断されたことを示す表示だった。
「来ましたわ」
エリザベートは息を吐いた。
「プレイヤーの命令が完全に止まった」
しかし、安堵している場合ではなかった。
カイルの体が激しく痙攣し始めていた。指先から這い上がっていた青白い光は、今や全身を覆い尽くしている。彼は自分の生命力そのものを燃料にして、この繰り返しを回し続けているのだ。
「カイル!」
エリザベートが駆け寄った。
「もう十分ですわ。術式を解除してちょうだい」
「だめだ」
カイルの声は掠れ、息も荒い。しかし眼鏡の奥の瞳には、まだ冷徹な知性の光が残っていた。
「今、解除すれば、プレイヤーがまたスキップを行う」
「でも、あなたが持たないわ」
「構わない」
カイルは微かに笑った。震える唇で、それでも笑った。
「これが、私の選んだ戦い方だ。知性で世界を止める。それ以外に、私にできることがあるか?」
(ああ、この人は)
エリザベートは唇を噛んだ。いつだってそうだ。カイルは自分の知性に殉じようとする。それが彼の矜持であり、同時に最大の弱点でもある。
ジークハルトがカイルの肩を掴んだ。半透明の手で、けれど力を込めて。
「馬鹿を言うな。お前が消えたら、誰がこの世界の理を解析するんだ」
「あなたとエリザベートが、やれ、殿下」
カイルの掠れた声が答えた。
「あなたたちは聡明で、魔導の才もある。私の研究ノートは全部、ソフィアの手帳に」
「カイル様!」
ソフィアが叫んだ。手帳を胸に抱きしめるようにして。
「あなたの記録は全部書き写しました。でもだからって、あなた自身が消えていいはずがありません! 記録は、人の代わりにはなれないんです!」
ルカスが立ち上がった。
彼の体も激しく震えていた。カイルに加護を送り続けたことで、自身の魔力も底を尽きかけている。それでも彼は両手を天に掲げた。
「神よ」
ルカスは首を横に振った。
「もう神に祈ることはしません。この世界に祈りの届く神などいないことを、私は知ってしまった」
一拍、間を置いて。
「ならば私が祈るのは、目の前にいるこの人たちです」
ルカスの体から、かつてないほど強い銀色の光が放たれた。その光はカイルを包み込み、震えを僅かに和らげる。ルカスは自分に残されたすべてを、友人に注ぎ込んでいた。
「ルカス」
「口出しは無用です」
ルカスは穏やかに微笑んだ。死人のように青ざめた顔で、それでも穏やかに。
「あなたは私の大切な友人ですよ、カイル。友人を失うくらいなら、私は喜んでこの身を削りましょう」
「やめろ、ルカス!」
レオンが叫んだ。剣を握る手が、行き場のない怒りに震えている。斬れる敵がいない。守るために剣を振るうことすらできない。彼にとって、それは何よりも苛烈な拷問だった。
「おはよう──ございま──おはよう──ございま──おはよう──ございま──」
クレアの声が、時計の振り子のように規則正しく会場に響き続けている。
シャンデリアは明滅を繰り返し、床の亀裂は広がっては戻り、絵の具は落ちては戻る。世界は同じ一秒を繰り返し、プレイヤーの画面には『完了をお待ちください』の表示が点滅し続けていた。
* * *
エリザベートは、その光景を静かに見つめていた。
(これが、わたくしたちが「自由」を求めた代償なのかしら)
自由を求めた結果、永遠に同じ一秒を生き続けることになる。カイルは魂を燃やし、ルカスは身を削り、レオンは剣を振るえず、クレアは壊れた人形に逆戻り。
それは、シナリオ通りに生きるのとは別の意味での地獄だった。
(けれど)
ジークハルトの手が、彼女の手を握った。
半透明の手。温もりがあるのかないのか、もう分からない。けれどそこに「在る」ということだけは確かだった。
「エリザベート」
ジークハルトが言った。低く、静かな声で。
「どんなに時間が狂おうと、君と共にいるこの一秒は、私にとって確かなものだ」
エリザベートは彼を見た。
半透明の体。消えかけた輪郭。けれどその翠の瞳には、もう迷いはなかった。
「ええ」
彼女は微笑んだ。悪役令嬢らしい、不敵な微笑みで。
「わたくしも、同じですわ。たとえ永遠に同じ一秒の中に閉じ込められても、悪役令嬢は悪役令嬢らしく、最後まで優雅に抗って差し上げますわよ」
* * *
その時、空中の文字が激しく明滅し始めた。
『システム過負荷:メモリ容量99.8%』
同じ一秒を無限に処理し続けた結果、ついにシステムの処理能力の限界に達した。世界を動かす力が飽和し、システムそのものが瓦解寸前に追い込まれている。
「今です!」
ソフィアが手帳を掲げた。
「システムが過負荷で動けなくなっています!」
カイルが、残された力を振り絞って腕を持ち上げた。
「術式を、解除する」
震える手が、空中に刻まれた見えない魔法陣を掴む。
そして、引き裂いた。
瞬間、時間が動き出した。
シャンデリアの明滅が止まった。床の亀裂が完全に広がった。壁の絵の具が床に落ちた。
クレアの声も、ようやく完全な一文を喋り終えた。
「──おはようございます」
その言葉が終わった瞬間、クレアの膝が折れた。
何百回、何千回と繰り返された同じ挨拶から、やっと解放されたのだ。彼女は自分の膝を両手で抱え込み、体を丸めて小さく震えていた。ずっと笑顔を貼りつけられていた頬が、ようやく力を抜いて歪んでいる。
彼女の周囲を照らしていたあの淡い光が、ちかちかと明滅した後、ふっと消えた。
代償は、大きかった。
カイルがその場に崩れ落ちた。全身の力が抜け、もう指一本動かせない。青白い光は完全に消え、彼の体はただの人間、いや、人間以下に消耗しきった肉体として、冷たい大理石の上に横たわっていた。
ルカスも同じだった。銀色の光が消え、彼も膝から崩れ落ちた。白い法衣が汚れるのも構わず、床に倒れ伏している。
「カイル! ルカス!」
エリザベートとレオンが駆け寄った。
二人はまだ息をしていた。意識もある。しかし体はぴくりとも動かなかった。
「大丈夫だ。二人とも生きている」
ジークハルトが二人の脈を確認して言った。半透明の指で、慎重に。
「だが、魔力を使い果たしている。しばらくは動けないだろう」
カイルが虚ろな目で天井を見上げていた。眼鏡がずれているが、直す力すら残っていない。ルカスは目を閉じ、荒い息を繰り返している。
レオンがカイルの眼鏡を直してやった。乱暴な手つきで、けれど丁寧に。
「無茶しやがって、この眼鏡野郎」
「褒め言葉として受け取っておく」
カイルの唇が僅かに動いた。声にならない声だったが、レオンには聞こえたようだった。
ソフィアが手帳を開き直した。ページには、カイルとルカスが何をしたのか。無限の繰り返しの構造、ルカスの加護の仕組み、そのすべてが詳細に記録されていた。
「二人とも、ここにいます」
ソフィアは静かに言った。手帳を胸に抱いて。
「この記録の中にも、ずっと」
エリザベートは立ち上がった。
崩壊した会場を見渡す。亀裂の入った床。色の流れ落ちた壁。静止したシャンデリア。倒れた二人の仲間。繰り返しから解放されて膝を抱えているクレア。
そして、空中に浮かぶ最後の文字列。
『致命的エラー──プレイヤー操作不能』
神の手が、ついに止まった。




