第30話:鏡の中の管理者
会場の崩壊は、さらに加速していた。
床の大理石が音を立てて砕け散る。その破片は空中で静止し、重力を忘れたように浮遊している。壁という壁から表層が剥がれ落ち、露出した黒い空間には0と1の文字列が血管のように明滅していた。天井のシャンデリアは、もはや元の位置すら分からないほど傾いている。
好感度のオーバーフロー作戦の余波が、まだ世界を揺さぶっている。ピンク色の霧が消え去った会場に残っているのは、好感度という概念そのものを焼き切った後の、焦げた空白だった。
エリザベートは崩れかけた柱に手をついた。柱の表面は触れると紙のようにめくれ、張りぼての舞台装置のようだ。
(これが、世界の正体なのね。システムが取り繕ってきた美しい外装の下は、ただの記号の羅列)
空中には、赤い警告文が無数に浮かんでいる。
『CRITICAL ERROR』
『SYSTEM FAILURE』
『ATTEMPTING RECOVERY...』
その時だった。
会場の中央に、何かが出現した。
最初は空気の歪みのようなものだった。陽炎のように揺らめく透明な四角形。それがだんだんと輪郭を持ち始め、青白い光を放ちながら実体化していく。
「何ですか、あれ」
ソフィアが手帳を構えたまま、その四角形を見つめた。手帳のページはさきほどの好感度の嵐で文字がぐちゃぐちゃに書き殴られたままだが、今は静かに青白い微光を放っている。
「あれはおそらく、プレイヤー側の『手帳』だ」
カイルが眼鏡を押し上げた。術式の反動で指先がまだ微かに震えているが、紫の瞳はすでに分析者の光を取り戻している。
「こちら側でソフィアの手帳に情報が書き込まれるように、プレイヤー側にも同様の役割を持つものが存在すると考えるのが妥当だ。ただ、本来は世界の外側からしか見えないはずのものだ。それがエラーによって可視化、いや、実体化しているのか」
ジークハルトが眉をひそめた。
「つまり、私たちを操る側が使う道具が、こちら側に漏れ出したということか?」
カイルの声に、隠しきれない知的興奮が滲んだ。
「その通りだ。興味深い。世界の構造情報が、物質として目に見える層にまで漏出している」
「カイル様、感動は後にしてください」
「だが、これは学術的に」
「ダメです」「ダメだ」「うるせえ」
ソフィア、ジークハルト、レオンの声が重なった。カイルは口を閉じたが、眼鏡の奥の瞳は煌めいたままだった。
* * *
設定画面は、ゆっくりと会場の中央に降りてきた。縦三メートル、横二メートルほどの巨大な半透明の板。その表面に、無数の文字が浮かんでいる。
『キャラクター:エリザベート・アルトマール』
『属性:悪役令嬢』
『ステータス:死亡フラグ』
『好感度:ジークハルト -9223372036854775808』
『趣味:紅茶、読書、嫌がらせ』
『特技:高笑い、扇で叩く』
エリザベートは、その文字列を見て息を呑んだ。
自分という存在が、たった数行の文字に要約されている。生まれてからの記憶も、仲間との絆も、幾度もの死から蘇った意志も、そのすべてが「悪役令嬢」「死亡フラグ」という無慈悲な単語に押し込められていた。
「これが、私」
声が震えそうになるのを、扇子を握る力で押し殺す。
「マイナス922京。好感度を溢れさせた痕跡がそのまま残っていますわね」
努めて冷静に分析してみせる。だが、視線は「死亡フラグ」の赤い点滅から離せなかった。
「嫌がらせが趣味で、高笑いが特技、ですの? ずいぶんとお粗末な造形ですこと。せめて『戦略的圧力』と『勝利の哄笑』くらいにはなさってほしいものね」
皮肉で武装する。そうしなければ、この無情な文字列に飲み込まれそうだった。
「エリザベート」
ジークハルトの低い声が響いた。
「『死亡フラグ』の方が問題だ」
赤く点滅するその文字列は、彼女の心臓と同期するかのように明滅を繰り返している。
ふと、別の半透明の板が空中に浮かんでいることに気づいた。
『キャラクター:クレア』
『属性:聖女』
『ステータス:無敵』
『趣味:祈り、慈善活動、小動物の世話』
『特技:全員から好かれる微笑み』
エリザベートは扇子で口元を覆い、その二枚の板を見比べた。
(死亡フラグと無敵。なんという対称。片や処刑台に立つ罪人、片や祭壇に立つ聖女。同じ物語の駒なのに、あまりにも不公平だわ)
「全員から好かれるのが特技、ね。それはもう特技ではなくて、呪いですわ。好かれる側にとっても、好かされる側にとっても」
視線の先で、クレアが佇んでいた。
会場が崩壊し、警告文が点滅し、攻略対象たちがマイナス922京の好感度で彼女を完全に無視している。その異常事態の中にあって、クレアだけが柔らかな微笑みを保っていた。足元の床がひび割れ、警告文の赤い光が頬を染めてさえ、彼女の周りだけは穏やかな空気が流れている。
だが、じっと見つめていると、エリザベートはあることに気づいた。
クレアの微笑みが、ほんのわずかに左右非対称になっている。右の口角だけがかすかに引きつり、笑顔の型に嵌められた顔が、内側から別の表情を押し出そうとしているかのようだった。
(あの子の笑顔は、いつも寸分の狂いもなく同じだったはずだわ)
それが今、ほんの少しだけ歪んでいる。世界が壊れ始めて、クレアを縛る鋳型にも罅が入ったのか。それとも、クレア自身がその鋳型を、内側から押し広げようとしているのか。
「エリザベート、下がれ!」
レオンが剣を構えて前に出た。
その瞬間、設定画面から激しい光が放たれた。青白い光が四方八方へ広がっていく。その光に触れた生徒たちの輪郭が揺らぎ、水に溶けるように薄れて消えていく。
「あの画面が世界の構造を強制修正しようとしている。システムが好感度のエラーを復元しにかかっている!」
カイルが叫んだ。
レオンは盾を構え、エリザベートたちの前に立ちはだかった。青白い光が盾に激突する。轟音。レオンの足が床に食い込み、歯を食いしばって両手で盾を支える。光の圧力が濁流のように押し寄せてくる。
「ぐっ……!」
腕の筋が軋む。好感度の嵐に翻弄された直後だ。体力は削られている。だが。
「このくらい、騎士の盾が受け止められないわけがねえ」
ルカスが前に出た。両手を前に突き出し、金色の光を放つ。だが、その光はいつもより弱々しく明滅している。ピンク色に全身が発光するほど好感度を肩代わりした代償が、まだ残っているのだ。
「レオン、無理をしないでください。あなたの腕が砕けてしまいます」
ルカスの声は穏やかだったが、震えを隠せない。
不安定ながらも、金色の加護がレオンの全身を包み込んだ。内側から骨と筋を支える、温かな光。
「助かる、ルカス。だが、長くは保たねえぞ。早くしてくれ」
* * *
「ねえ、カイル。あの画面を利用できないかしら」
エリザベートはカイルの方を向いた。
「利用?」
「ええ。あれはプレイヤー側の『手帳』なのでしょう? ならばソフィアの手帳のように、その構造を書き換えることもできるはず」
カイルの眼鏡が光った。疲弊した顔に、分析者の鋭さが蘇る。
「あの画面自体を術式の基盤として利用する。確かにあれが世界の根幹に直結しているなら、構造への直接干渉が可能かもしれない。ソフィア、支援を」
「はい」
ソフィアは手帳を開いた。書き殴られた文字の合間に、新たな青白い光が滲み始めている。
エリザベートは設定画面へと近づいた。レオンが必死に防いでいる光の壁を、横から回り込むように。
そして自分の名前が書かれた文字列に、手を伸ばした。
指先が、文字列に触れる。
激痛。
灼熱の鉄に触れたような衝撃が、指先から腕を駆け上がった。エリザベートの指先から煙が立ち上る。皮膚が焼けている。
(世界の根幹に直接触れるということは、世界そのものに拒絶されるということなのね)
しかし、エリザベートは手を引かなかった。
文字列を掴んだ。驚くべきことに、それは物理的な実体を持っていた。発光する粘質の感触。指にまとわりつき、引き剥がそうとすると抵抗する。世界が、自分の設定を守ろうとしているかのようだった。
「ソフィア、私の過去の記録を」
ソフィアは手帳をめくった。ページの奥から、過去の周回で記録されたエリザベートの死の記録が浮かび上がる。
「第一周回、毒殺」
ソフィアの声が、静かに読み上げた。
「第二周回、刺殺。第三周回、溺死。第四周回、転落死」
一つ一つが、かつてのエリザベートの命だった。名前も記憶も持った一人の人間が、十九回、異なる方法で殺された記録。
「第七周回、斬首。第八周回、圧死。第九周回、凍死」
ソフィアの声が震え始めた。読み上げているのは、ただの数字と文字ではない。かつて確かに存在した命の終わり方だ。
「第十五周回、……巨大カボチャの下敷き」
ソフィアが一瞬、口ごもった。
「第十九周回、断罪イベントによる処刑。これが、最も直近の記録です」
「十五回目だけ妙に雑ですわね」
エリザベートは焼ける指先を握りしめながら、かすかに口元を歪めた。笑いとも苦笑ともつかない表情だった。
「十九回も殺す手間をかけておいて、途中でカボチャとは。神様もネタ切れのようですわ」
「エリザベート」
ジークハルトの声が、低く響いた。十九回の死。その一回一回で、彼女は孤独に命を散らしていたのだ。仲間もなく、真実も知らず、ただ「悪役令嬢」として処分されて。
「同情は後になさって、ジークハルト様。今は、二十回目の死を回避することに集中いたしますわ」
エリザベートの声は冷静だった。だが、指先は焼けただれながらも、文字列を掴む力をさらに強めている。
カイルの術式が展開された。紫の光がエリザベートの周囲を包み込み、彼女の魔力を増幅する。
「エリザベート、今だ!」
エリザベートは、「死亡フラグ」という文字列を強く握りしめた。
そして、引きちぎった。
硝子が割れるような鋭い音と、紙を裂くような音が同時に響いた。文字列が砕け散る。赤い破片が空中に飛び散り、やがて光の粒子となって消えていく。
「破れましたわ!」
だが、文字列はすぐに再生し始めた。砕け散った破片が引き寄せられるように集まり、再び「死亡フラグ」の形を取ろうとする。
(やはり、単純に壊すだけでは足りないのね)
「ならば、書き換えるまで」
エリザベートは砕けた文字列の破片を掴み、新しい配列を組み立て始めた。カイルの術式が魔力を変換し、0と1の記号を編み上げていく。
ソフィアは手帳に新しい文字を書き込んでいった。
「エリザベート様は生き延びる」
ソフィアの声は震えていたが、ペンを握る手は止まらなかった。手帳のページに、過去の死の記録を塗り潰すように、「生存」の文字が重ねられていく。
「何度殺されても。何度運命を決められても。この人は、生き延びる」
エリザベートの指先は、すでに皮膚が剥がれ、赤い肉が露出していた。血が文字列に滴り落ち、0と1の記号に混ざっていく。
だが、彼女は止めない。
「死亡フラグ」の文字列が、少しずつ変容していく。
『死亡フラグ』→『死』→『生』→『生存フラグ』
赤い点滅が、緑の安定した光へと変わった。
その瞬間、設定画面から放たれていた青白い光が弱まった。
「今だ、レオン!」
ジークハルトが叫んだ。
レオンは盾を前に突き出し、弱まった光を押し返した。渾身の咆哮と共に、光が霧散していく。
設定画面が激しく明滅し始めた。
『ERROR:PARAMETER OVERRIDE』
『死亡フラグが書き換えられました』
『システムの整合性を確認しています』
エリザベートはゆっくりと手を引いた。指先は焼けただれ、黒く変色している。だが、その顔には静かな、しかし確かな達成感が浮かんでいた。
「やりましたわ」
ジークハルトが駆け寄り、エリザベートの肩を支えた。
「無茶をするな」
「ええ。でも、成功しましたわ」
エリザベートは設定画面を見上げた。新しい文字列が表示されている。
『キャラクター:エリザベート・アルトマール』
『属性:悪役令嬢』
『ステータス:生存フラグ』
「これで、私は死なない」
その言葉には、十九回の死を越えてきた者だけが持つ、静かな重みがあった。
* * *
だが、安堵は一瞬で砕かれた。
設定画面が再び激しく点滅し始める。
『WARNING:UNAUTHORIZED ACCESS DETECTED』
『強制修正を開始します』
『全キャラクターをデフォルト設定に戻します』
「まずい」
カイルの顔から血の気が引いた。
「システムがエリザベートの書き換えを不正な介入として検知した。修正処理を走らせようとしている」
空中に、新たな警告文が次々と浮かび上がった。
『緊急修正処理を適用します』
『全データを初期化します』
会場が、真っ白な光に包まれ始めた。壁を、床を、天井を、すべてを塗り潰すような無慈悲な白。
「強制初期化、ですか。全てを最初に戻すつもりなのか」
ルカスが目を見開いた。
ジークハルトが拳を握った。
「エリザベートが命を削って書き換えた設定を、力づくで元に戻すと?」
白い光が迫ってくる。視界の端から、世界の輪郭が消えていく。
エリザベートは焼けただれた指先を握りしめた。痛みが走る。だが、その痛みこそが自分がまだここに存在している証だった。
「まあ、神様ったら」
エリザベートは不敵に笑った。扇子をパチンと開く。
「力づくで消すだなんて、随分と知性のない対応ですこと。世界の管理者としては、落第点を差し上げますわ」
白い光が、すべてを呑み込もうとしている。
「わたくしたちはまだ、諦めませんことよ」
* * *
画面の向こうで、彼女は必死に端末を操作していた。
「初期化? 何それ、勝手に始まらないでよ!」
しかし、画面は彼女の操作を受け付けない。ひび割れた画面の上で、修正処理が勝手に進んでいく。
『緊急修正:処理中』
『進行状況:15%』
「やめてよ、せっかくここまで進めたのに!」
画面を何度叩いても、処理は止まらない。
『進行状況:30%』
画面の中では、エリザベートたちが白い光に包まれようとしている。
ふと、目を凝らした。あの悪役令嬢の手が、おかしい。ドレスの色とは明らかに違う、赤黒い何かが指先にこびりついている。さっきまでのイベントで、こんな描写があっただろうか。本当に火傷を負ったかのような。
だが、考えを巡らせる暇もなかった。画面の中のエリザベートが扇子を開いて、こちらを見て笑っている。
プレイヤーは、その光景を見つめながら歯噛みした。
「このゲーム、本当におかしい……」




