表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
乙女ゲームの世界に反旗を──我らNPCは運命を書き換える  作者: 宗像 凪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/41

第29話:逆流する愛

 画面の向こうで、彼女は苛立っていた。


 あの後、電源が落ちたスマートフォンは、一晩放置したら何事もなかったかのように起動した。念のため強制再起動させると、彼女は再びゲームを操作し始めた。


「もう無理。この不具合、何とかしないと」


 画面には無数の警告文と崩壊した描画が表示されていた。キャラクターたちは命令を無視して勝手に動き、ヒロインのクレアは画面の端で立ち尽くしているだけだ。


「レビュー見たら、やっぱりみんな同じ報告してる」


 アプリストアのレビューをスクロールする。星一つの書き込みが並び、運営からの返答は「現在調査中です」の一点張りだった。


「調査中って、いつまで待たせるのよ」


 舌打ちして、画面をショップに切り替えた。きらびやかな課金アイテムが並んでいる。


「不具合だらけでも、課金アイテムだけは動くはず」


 視線が、一つのアイテムに止まった。


『永遠の魅了』

『効果:全攻略対象の好感度を最大値に固定』

『価格:9,800円』


「これ使えば、一発でしょ」


 迷わず購入ボタンをタップした。決済完了の通知が届き、画面が一瞬ピンク色に染まる。


「よし。これでバッチリ」


 彼女は勝利を確信して微笑んだ。



* * *



 会場に、異変が起きた。


 エリザベートは崩れかけた壁に手をついていた。表層は半分以上剥がれ落ち、その下に黒い空間が広がっている。0と1の文字列が血管のように明滅し、床の大理石には罅が走り、天井のシャンデリアは重力を無視して斜めに浮遊している。赤い警告文『WARNING: CRITICAL ERROR』が、空中で点滅を続けたままだった。


「次は何をお見舞いしてくださるのかしら?」


 エリザベートが扇子の陰から黒い空間を見つめていた、その時だった。


 会場の床から、ピンク色の霧が湧き上がり始めた。足元から膝、腰、胸へと、じわじわと上昇していく。会場全体がピンク色の水に沈んでいくような光景だった。


(……この色合い、嫌な予感しかしませんわね)


 空気が重い。息を吸おうとしても、肺に水を通すような抵抗がある。頭を優しく、だが確実に締め付けられるような圧迫感。


「エリザベート!」


 カイルの声が聞こえた。眼鏡を押さえながら空中を見上げている。

 エリザベートもその視線を追った。

 クレアの頭上に、巨大なピンク色の数字が浮かんでいた。王冠のように。


『999』


「あれは……好感度の数値か」

 カイルの声が低く震えている。数字は上昇を続けていた。


『1000』『1001』『1002』『1003』


「プレイヤーが課金アイテムを使ったんだ。好感度を強制的に最大化する類の」


 ソフィアが小さく悲鳴を上げた。

「手帳が!」


 彼女の手帳が紅い光を放っている。ソフィアは慌てて手帳を取り落とした。ページが勝手にめくれ始め、ソフィアの意思とは無関係に、文字が焼き印のように刻まれていく。


『永遠の魅了:発動』

『対象:全攻略対象』

『好感度:強制最大化』


「ちょっと待ってください、私、ペンを持ってないんですけど!」


 ソフィアが手帳を拾い上げて振ったが、文字は増え続ける。解説役としての役割が、強制的に情報を書き込んでいるのだ。


 ジークハルトの身体が、ふらりと揺れた。

「……なんだ、これは」


 緑の瞳から焦点が失われていく。そしてゆっくりと、抗いようもなく視線がクレアの方へ吸い寄せられた。


「クレア……」

 甘く、蕩けるような声が、ジークハルトの口から漏れた。


 パシンッ。

 エリザベートの扇子が、ジークハルトの頬を打った。


「はっ!」


 ジークハルトは我に返った。頬を押さえ、目を瞬かせる。


「すまない。今、私は何か」

「ええ。クレアにうっとり見惚れて、甘い声を出していましたわ。王太子殿下が、人前で」

「……それは忘れてくれ」


 ジークハルトは苦い顔をした。だがすぐにまた視線がクレアへ引き寄せられそうになり、彼は歯を食いしばって目を閉じた。


「くそ、頭の中に甘い霧がかかったようだ。思考が鈍い」


 レオンの足が、意志に反して一歩前へ出た。

「おい、待て!」


 レオンは自分の右足を両手で掴んだ。だが足はさらに前へ進もうとする。腕の筋が浮き上がるほどの力で押さえ込んでいるのに、足は容赦なく引きずられていく。


「くそ、言うこと聞けよ!」


 レオンは床に座り込み、両腕で膝を抱えた。自分の身体と腕相撲をしているような、見ていて苦しくなる光景だった。


 カイルは空中の数字を凝視していた。


『1523』『1524』『1525』


 数字は加速度的に上昇を続けている。カイルは冷静に分析を続けようとしていた。だが、その足が一歩前に出た。

 彼は気づいていない。意識は空中の数字に集中している。


「際限なく上昇している。このままでは」


 また一歩。無意識に、クレアへ近づいていく。


「カイル様、近づいてます」

「何?」


 ソフィアの指摘に、カイルは自分の足元を見た。いつの間にかクレアとの距離が三歩もない。


「……私は冷静に観察していたはずだが。なぜ足が」


 後ずさりしようとした。足はさらに前へ進もうとする。


「理性では抵抗できても、身体が先に反応している。これは厄介だ」


 カイルは額に手を当てた。冷静な分析者が、自らの身体の裏切りを冷静に分析しているさまは、滑稽であると同時に切迫していた。


 ルカスは会場の端で、必死に祈っていた。金色の光が周囲から溢れ出している。だが。


「聖なる光よ、この場を守りたまえ。クレア様を」


 ルカスの目が見開かれた。自分の口から出た言葉に、自分が一番驚いている。

 彼は祈りの姿勢を崩し、両手で口を塞いだ。


「……祈りの言葉に、好感度が混入してきます」

 くぐもった声で、ルカスは説明した。

「口を開くと、クレアへの賛辞が出てしまう。祈りを続けたいのですが」


「口を塞いだままじゃ祈れないんじゃないでしょうか」

 ソフィアが指摘した。


「ええ、ですから困っているのです」

 穏やかな声に、微かな悲壮感が混じっている。


 エリザベートは扇子を開いたまま、苦しむ仲間たちを見渡した。

 全員が、好感度の奔流に飲み込まれようとしている。それが課金アイテムの力。改めて感じる、理不尽さと憤り、そして呆れ。


(全貨一枚もしない対価で、人の心を丸ごと塗り潰す。なんて安い値段で、なんて高い代償なの)


 その時、カイルの瞳に光が戻った。眼鏡の奥で、分析者の目が鋭く煌めく。


「──そうか! 我々がすべきなのは、逆だ!」


「逆?」

「好感度を拒絶するのではなく、受け入れる」


 カイルは震える手で空中の数字を指差した。


『2891』『2892』『2893』


「このアイテムは好感度を際限なく上昇させるもののようだ。ならば、その性質を利用する」


「性質を利用って……アイテムを、私たちが使うことができるのですか?」

 手帳に増え続ける文字とカイルの顔を見比べながら、ソフィアが尋ねた。


「アイテムではなく、システム側の問題だ。システムは二進数で動いている。加えて、システムは決して万能ではない。つまり、扱うことのできる数値には限りがあるはずだ」


 カイルの声に、苦痛の底から滲む知的興奮が混じった。


「詳細な解説は割愛するが、私の計算では、この世界を表現するには六十四桁の二進数が必要だと思われる。そのうち一桁は正の数か負の数かを表すのに使われている。つまり、残り六十三桁で表せる最大の数が、好感度の天井ということだ……あくまでも推測ではあるが」


 ソフィアが手帳に走り書きしながら確認した。


「それは、具体的にどのくらいの数ですか?」

「922京3,372兆368億5,477万5,807。途方もない数だが、有限であることに意味がある」


 カイルは眼鏡を押し上げた。


「そして、器に収まりきらない数を注ぎ込むとどうなるか。水瓶に水を注ぎ続ければ溢れる。だが数の器は溢れるのではない。符号が反転するんだ。正の最大値を一つ超えた瞬間、負の最小値に裏返る。ちょうど、振り子が頂点に達すると次は反対側に振れるように」


「つまり……」

エリザベートは扇子でポンと掌を打った。


「好感度を器の限界以上に押し上げれば、愛が一気に負に反転する、と」

「その通りだ」


「理屈は分かりましたわ。けれどどうやって? 922京って、国家予算の何万年分かしら」

「術式で上限を取り払う。プレイヤーの課金アイテムが好感度を注ぎ続けている今こそ、蛇口を全開にして一気に溢れさせる」


 カイルは両手を前に突き出した。指先から、淡い紫の光が溢れ出す。


「ルカス、援護を頼む。好感度の圧力を一時的に肩代わりしてほしい。私が術式を完成させるまでの時間を稼いでくれ」


 ルカスは口を塞いだまま頷いた。片手で口を覆い、もう片方の手だけで加護を展開する。金色の光が不安定に明滅しながらも、カイルを包み込んだ。


(片手で口を塞ぎながら片手で祈る神官。不格好にも程がありますわ。けれど)


 エリザベートはその光景を見つめた。


(不格好でも、確かに光っている)


 カイルは術式を組み上げ始めた。周囲に無数の数字が浮かび上がる。0と1、世界を構成する根源的な記号。好感度という数値の上限を取り払い、際限なく上昇させる術式を編み上げていく。


「始める」


 カイルが低く宣言した。


 変化は即座に起きた。空中の数字が加速する。


『5000』『8000』『10000』


 一万を超えた。

 ジークハルトの顔が苦痛に歪んだ。目を閉じたまま、拳を握りしめている。


「頭の中が……甘い。甘すぎて吐き気がする」

「耐えてくださいませ、ジークハルト様。もう少しですわ」


 エリザベートの声は冷静だったが、扇子を握る手に力がこもっている。


『100000』『1000000』。——百万。


 レオンが床に額をつけた。


「好きすぎて、気持ち悪い……早くしてくれ……!」


『10000000』『100000000』。——億。


 ルカスの全身が、桃色に発光し始めた。好感度の圧力を加護で肩代わりしている代償だった。最初は淡い光だったが、数値の上昇に比例して強くなっていく。


「ルカス様、光ってますよ。ピンク色に」

「……わかっています」


 ルカスは口元を覆ったまま、自分の手を見た。確かに淡いピンク色に発光している。


「せめて金色のままでいたかったのですが」

「好感度を肩代わりしているせいだ。ルカスの身体が好感度で飽和している」


 カイルが術式を維持しながら説明した。

 エリザベートはピンク色に光るルカスを見て、扇子で口元を覆った。


(聖なる神官が、全身ピンク色に光っている。これを教会の方々が見たら卒倒なさるわね)


『1000000000』。——十億。


『100000000000』。——千億。


 クレアが、首を傾げていた。


 攻略対象たちが苦しみ、ルカスが発光し、会場が崩壊している。その只中で、クレアはいつものように小首を傾げ、微笑んでいた。困惑しているのか、ただ次の指示を待っているのか。彼女の周りだけが安定していて、ピンク色の霧すら彼女を避けるように流れている。


 だが、その指先はかすかに震えている。ドレスの裾を掴もうとして、何度か空を掴んでいる。それが台本にある仕草なのか、本当の不安の表れなのか、エリザベートには判断がつかなかった。


(もしかしたら、あの子自身も舞台の上で、出口を探しているのかしら)


『100000000000000』。——百兆。


『922000000000000000』。


「もうすぐだ!」カイルの声が高まる。「922京を超える!」


 会場全体が桃色の光で飽和した。ルカスの全身が発光体と化し、金色と桃色が入り混じった不安定な光を放っている。


「限界の直前だ!」


 空中の数字が、激しく点滅し始めた。


『9223372036854775805』

『9223372036854775806』

『9223372036854775807』


 そして。


『-9223372036854775808』


 負に、反転した。


 その瞬間、会場を満たしていたピンク色の霧が一息に消え去った。窓という窓を開け放ったような清涼感が会場を吹き抜ける。頭を締め付けていた圧迫が消え、空気が軽くなる。


 エリザベートは深く息を吸い込んだ。

 会場が、静まり返った。


 ジークハルトが、ゆっくりと顔を上げた。さっきまでの蕩けるような熱は瞳から消え、いつもの冷静な緑色が戻っている。


「……すまない。私は今、何をしていた?」

「好感度の嵐に翻弄されていましたわ」

「夢を見ていたような気分だ。甘ったるくて吐き気のする夢を」


 ジークハルトはクレアの方を見た。

 そして、何の感慨もなく、視線を戻した。


「……別に」


 道端の石ころを一瞥するような、徹底した無関心だった。

 クレアの微笑みが、ほんの一瞬だけ揺らいだ。あの揺るぎなかった輝きの中に、ごくわずかな罅が走ったように見えた。


「ジークハルト様……?」

 クレアの澄んだ、よく通る声。だがジークハルトは振り返りもしなかった。

「ああ、そこにいたのか。気づかなかった」


 レオンが立ち上がった。自分の足を見下ろし、恐る恐る床に下ろす。もう勝手に動く気配はない。


「……あれ。足、おとなしくなってんな」

 レオンはクレアをちらりと見て、首を傾げた。

「えーと、誰だっけ。どっかで見た気はするけど」

「レオン様!?」


 クレアの声に、初めて動揺の色が滲んだ。桃色の瞳が不安げに揺れ、唇がわずかに開いたまま閉じることを忘れている。だがその戸惑いすら、どこか「戸惑うヒロイン」という物語の一場面のように整っていて、生身の感情なのか、システムが出力した反応なのか、判然としなかった。


「成功だ」


 カイルが眼鏡を直した。疲労で青白い顔に、抑えきれない知的興奮が浮かんでいる。


「好感度が見事に反転した。仮説通り、数値は器の上限を超えれば負の最小値に裏返る」


 ルカスのピンク色の発光が、ゆっくりと収まっていった。元の銀色の髪が戻り、彼は安堵の息をついた。


「終わりましたね。ピンク色に光る神官という、教会史上類を見ない不名誉から解放されました」

「ルカス様、むしろ記録に残すべきでは」ソフィアが手帳をめくりながら言った。「『好感度の殉教者』として」

「やめてください」


 穏やかな声に、珍しく切実な響きがあった。


 クレアが、もう一歩前に出た。


「あの、皆様……?」


 微笑みを保とうとしている。だがその瞳が揺れていた。攻略対象たちが自分を認識しない。それは彼女にとって、台本のどこにも書かれていない、前例のない事態のはずだった。


 ジークハルトはクレアを一瞥して、エリザベートの方を向いた。


「それより、次の手を考えるべきだろう。システムがこのまま黙っているとは思えない」


 クレアの存在を、視界の外に押しやっている。それは意図的な無視ですらなく、純粋な無関心だった。


 空中に赤い文字が浮かび上がった。


『ERROR: VALUE OUT OF RANGE』

『好感度が異常値です』

『修復を試行しています……』


「神様、計算が甘いですわよ」


 エリザベートは空を見上げ、扇子をパチンと開いた。


「システムの器に限りがあることくらい、ご確認なさればよろしかったのに。随分と杜撰な仕掛けですわ」

「エリザベート、神に算術の講義をしても始まらないだろう」


 ジークハルトが苦笑した。


「あら。講義ではなくて、批評ですわ」


 崩れかけた壁がさらに大きく揺れた。床に新たなひびが走り、天井から黒い染みが粉雪のように降り注ぐ。世界の綻びが深刻化している。


「次、来ます!」


 ソフィアが手帳を構えた。さっきまでシステムに書き殴られていた文字は消え、ページは白に戻っている。


 エリザベートは仲間たちを見渡した。


 全員、消耗している。カイルは術式の反動で指先が震え、ルカスは立っているのがやっとだ。レオンもジークハルトも、好感度の嵐の残滓で頭痛が残っているのだろう、眉間に皺を寄せている。

 満身創痍。だが、誰一人、退く気配はなかった。


「さあ、神様」


 エリザベートは扇子を閉じた。コバルトブルーの瞳に、崩壊する天井の赤い光が映っている。


「あなたの自慢のアイテムは、たった今壊れましたわ。次は何をお試しになるのかしら。もう少し頭を使ったものを期待しておりますのよ」



* * *



 画面の向こうで、彼女は呆然としていた。


「なにこれ……」


 スマートフォンの画面に、信じられない数字が表示されている。全攻略対象の好感度が負の値になっていた。


『ジークハルト:-9223372036854775808』

『レオン:-9223372036854775808』

『カイル:-9223372036854775808』

『ルカス:-9223372036854775808』


「いくらなんでも、なんなのこの数字?」


 9,800円の課金アイテムを使ったのに。好感度は最大に固定されるはずだったのに。


 彼女は震える手で画面をタップした。キャラクターたちは命令を無視している。ジークハルトはクレアを見ようともせず、エリザベートと何か話し合っている。レオンは剣に手をかけたまま、クレアに背を向けている。


 そして。


 画面の中で、エリザベートがこちらを向いた。

 扇子を半開きにしたまま、コバルトブルーの瞳が画面のこちら側を射抜いている。あの悪役令嬢の瞳に宿っていたのは、恐怖でも従順でもなかった。冷ややかで、不敵で、挑むような光。


 「あなたの手札はその程度かしら?」と問いかけているかのようだった。


 彼女は息を呑んだ。

 スマートフォンを持つ手がじわりと汗ばむ。


「……嘘でしょ」


 画面の中の悪役令嬢は、扇子の陰で、笑っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ