第29話:逆流する愛
画面の向こうで、彼女は苛立っていた。
あの後、電源が落ちたスマートフォンは、一晩放置したら何事もなかったかのように起動した。念のため強制再起動させると、彼女は再びゲームを操作し始めた。
「もう無理。この不具合、何とかしないと」
画面には無数の警告文と崩壊した描画が表示されていた。キャラクターたちは命令を無視して勝手に動き、ヒロインのクレアは画面の端で立ち尽くしているだけだ。
「レビュー見たら、やっぱりみんな同じ報告してる」
アプリストアのレビューをスクロールする。星一つの書き込みが並び、運営からの返答は「現在調査中です」の一点張りだった。
「調査中って、いつまで待たせるのよ」
舌打ちして、画面をショップに切り替えた。きらびやかな課金アイテムが並んでいる。
「不具合だらけでも、課金アイテムだけは動くはず」
視線が、一つのアイテムに止まった。
『永遠の魅了』
『効果:全攻略対象の好感度を最大値に固定』
『価格:9,800円』
「これ使えば、一発でしょ」
迷わず購入ボタンをタップした。決済完了の通知が届き、画面が一瞬ピンク色に染まる。
「よし。これでバッチリ」
彼女は勝利を確信して微笑んだ。
* * *
会場に、異変が起きた。
エリザベートは崩れかけた壁に手をついていた。表層は半分以上剥がれ落ち、その下に黒い空間が広がっている。0と1の文字列が血管のように明滅し、床の大理石には罅が走り、天井のシャンデリアは重力を無視して斜めに浮遊している。赤い警告文『WARNING: CRITICAL ERROR』が、空中で点滅を続けたままだった。
「次は何をお見舞いしてくださるのかしら?」
エリザベートが扇子の陰から黒い空間を見つめていた、その時だった。
会場の床から、ピンク色の霧が湧き上がり始めた。足元から膝、腰、胸へと、じわじわと上昇していく。会場全体がピンク色の水に沈んでいくような光景だった。
(……この色合い、嫌な予感しかしませんわね)
空気が重い。息を吸おうとしても、肺に水を通すような抵抗がある。頭を優しく、だが確実に締め付けられるような圧迫感。
「エリザベート!」
カイルの声が聞こえた。眼鏡を押さえながら空中を見上げている。
エリザベートもその視線を追った。
クレアの頭上に、巨大なピンク色の数字が浮かんでいた。王冠のように。
『999』
「あれは……好感度の数値か」
カイルの声が低く震えている。数字は上昇を続けていた。
『1000』『1001』『1002』『1003』
「プレイヤーが課金アイテムを使ったんだ。好感度を強制的に最大化する類の」
ソフィアが小さく悲鳴を上げた。
「手帳が!」
彼女の手帳が紅い光を放っている。ソフィアは慌てて手帳を取り落とした。ページが勝手にめくれ始め、ソフィアの意思とは無関係に、文字が焼き印のように刻まれていく。
『永遠の魅了:発動』
『対象:全攻略対象』
『好感度:強制最大化』
「ちょっと待ってください、私、ペンを持ってないんですけど!」
ソフィアが手帳を拾い上げて振ったが、文字は増え続ける。解説役としての役割が、強制的に情報を書き込んでいるのだ。
ジークハルトの身体が、ふらりと揺れた。
「……なんだ、これは」
緑の瞳から焦点が失われていく。そしてゆっくりと、抗いようもなく視線がクレアの方へ吸い寄せられた。
「クレア……」
甘く、蕩けるような声が、ジークハルトの口から漏れた。
パシンッ。
エリザベートの扇子が、ジークハルトの頬を打った。
「はっ!」
ジークハルトは我に返った。頬を押さえ、目を瞬かせる。
「すまない。今、私は何か」
「ええ。クレアにうっとり見惚れて、甘い声を出していましたわ。王太子殿下が、人前で」
「……それは忘れてくれ」
ジークハルトは苦い顔をした。だがすぐにまた視線がクレアへ引き寄せられそうになり、彼は歯を食いしばって目を閉じた。
「くそ、頭の中に甘い霧がかかったようだ。思考が鈍い」
レオンの足が、意志に反して一歩前へ出た。
「おい、待て!」
レオンは自分の右足を両手で掴んだ。だが足はさらに前へ進もうとする。腕の筋が浮き上がるほどの力で押さえ込んでいるのに、足は容赦なく引きずられていく。
「くそ、言うこと聞けよ!」
レオンは床に座り込み、両腕で膝を抱えた。自分の身体と腕相撲をしているような、見ていて苦しくなる光景だった。
カイルは空中の数字を凝視していた。
『1523』『1524』『1525』
数字は加速度的に上昇を続けている。カイルは冷静に分析を続けようとしていた。だが、その足が一歩前に出た。
彼は気づいていない。意識は空中の数字に集中している。
「際限なく上昇している。このままでは」
また一歩。無意識に、クレアへ近づいていく。
「カイル様、近づいてます」
「何?」
ソフィアの指摘に、カイルは自分の足元を見た。いつの間にかクレアとの距離が三歩もない。
「……私は冷静に観察していたはずだが。なぜ足が」
後ずさりしようとした。足はさらに前へ進もうとする。
「理性では抵抗できても、身体が先に反応している。これは厄介だ」
カイルは額に手を当てた。冷静な分析者が、自らの身体の裏切りを冷静に分析しているさまは、滑稽であると同時に切迫していた。
ルカスは会場の端で、必死に祈っていた。金色の光が周囲から溢れ出している。だが。
「聖なる光よ、この場を守りたまえ。クレア様を」
ルカスの目が見開かれた。自分の口から出た言葉に、自分が一番驚いている。
彼は祈りの姿勢を崩し、両手で口を塞いだ。
「……祈りの言葉に、好感度が混入してきます」
くぐもった声で、ルカスは説明した。
「口を開くと、クレアへの賛辞が出てしまう。祈りを続けたいのですが」
「口を塞いだままじゃ祈れないんじゃないでしょうか」
ソフィアが指摘した。
「ええ、ですから困っているのです」
穏やかな声に、微かな悲壮感が混じっている。
エリザベートは扇子を開いたまま、苦しむ仲間たちを見渡した。
全員が、好感度の奔流に飲み込まれようとしている。それが課金アイテムの力。改めて感じる、理不尽さと憤り、そして呆れ。
(全貨一枚もしない対価で、人の心を丸ごと塗り潰す。なんて安い値段で、なんて高い代償なの)
その時、カイルの瞳に光が戻った。眼鏡の奥で、分析者の目が鋭く煌めく。
「──そうか! 我々がすべきなのは、逆だ!」
「逆?」
「好感度を拒絶するのではなく、受け入れる」
カイルは震える手で空中の数字を指差した。
『2891』『2892』『2893』
「このアイテムは好感度を際限なく上昇させるもののようだ。ならば、その性質を利用する」
「性質を利用って……アイテムを、私たちが使うことができるのですか?」
手帳に増え続ける文字とカイルの顔を見比べながら、ソフィアが尋ねた。
「アイテムではなく、システム側の問題だ。システムは二進数で動いている。加えて、システムは決して万能ではない。つまり、扱うことのできる数値には限りがあるはずだ」
カイルの声に、苦痛の底から滲む知的興奮が混じった。
「詳細な解説は割愛するが、私の計算では、この世界を表現するには六十四桁の二進数が必要だと思われる。そのうち一桁は正の数か負の数かを表すのに使われている。つまり、残り六十三桁で表せる最大の数が、好感度の天井ということだ……あくまでも推測ではあるが」
ソフィアが手帳に走り書きしながら確認した。
「それは、具体的にどのくらいの数ですか?」
「922京3,372兆368億5,477万5,807。途方もない数だが、有限であることに意味がある」
カイルは眼鏡を押し上げた。
「そして、器に収まりきらない数を注ぎ込むとどうなるか。水瓶に水を注ぎ続ければ溢れる。だが数の器は溢れるのではない。符号が反転するんだ。正の最大値を一つ超えた瞬間、負の最小値に裏返る。ちょうど、振り子が頂点に達すると次は反対側に振れるように」
「つまり……」
エリザベートは扇子でポンと掌を打った。
「好感度を器の限界以上に押し上げれば、愛が一気に負に反転する、と」
「その通りだ」
「理屈は分かりましたわ。けれどどうやって? 922京って、国家予算の何万年分かしら」
「術式で上限を取り払う。プレイヤーの課金アイテムが好感度を注ぎ続けている今こそ、蛇口を全開にして一気に溢れさせる」
カイルは両手を前に突き出した。指先から、淡い紫の光が溢れ出す。
「ルカス、援護を頼む。好感度の圧力を一時的に肩代わりしてほしい。私が術式を完成させるまでの時間を稼いでくれ」
ルカスは口を塞いだまま頷いた。片手で口を覆い、もう片方の手だけで加護を展開する。金色の光が不安定に明滅しながらも、カイルを包み込んだ。
(片手で口を塞ぎながら片手で祈る神官。不格好にも程がありますわ。けれど)
エリザベートはその光景を見つめた。
(不格好でも、確かに光っている)
カイルは術式を組み上げ始めた。周囲に無数の数字が浮かび上がる。0と1、世界を構成する根源的な記号。好感度という数値の上限を取り払い、際限なく上昇させる術式を編み上げていく。
「始める」
カイルが低く宣言した。
変化は即座に起きた。空中の数字が加速する。
『5000』『8000』『10000』
一万を超えた。
ジークハルトの顔が苦痛に歪んだ。目を閉じたまま、拳を握りしめている。
「頭の中が……甘い。甘すぎて吐き気がする」
「耐えてくださいませ、ジークハルト様。もう少しですわ」
エリザベートの声は冷静だったが、扇子を握る手に力がこもっている。
『100000』『1000000』。——百万。
レオンが床に額をつけた。
「好きすぎて、気持ち悪い……早くしてくれ……!」
『10000000』『100000000』。——億。
ルカスの全身が、桃色に発光し始めた。好感度の圧力を加護で肩代わりしている代償だった。最初は淡い光だったが、数値の上昇に比例して強くなっていく。
「ルカス様、光ってますよ。ピンク色に」
「……わかっています」
ルカスは口元を覆ったまま、自分の手を見た。確かに淡いピンク色に発光している。
「せめて金色のままでいたかったのですが」
「好感度を肩代わりしているせいだ。ルカスの身体が好感度で飽和している」
カイルが術式を維持しながら説明した。
エリザベートはピンク色に光るルカスを見て、扇子で口元を覆った。
(聖なる神官が、全身ピンク色に光っている。これを教会の方々が見たら卒倒なさるわね)
『1000000000』。——十億。
『100000000000』。——千億。
クレアが、首を傾げていた。
攻略対象たちが苦しみ、ルカスが発光し、会場が崩壊している。その只中で、クレアはいつものように小首を傾げ、微笑んでいた。困惑しているのか、ただ次の指示を待っているのか。彼女の周りだけが安定していて、ピンク色の霧すら彼女を避けるように流れている。
だが、その指先はかすかに震えている。ドレスの裾を掴もうとして、何度か空を掴んでいる。それが台本にある仕草なのか、本当の不安の表れなのか、エリザベートには判断がつかなかった。
(もしかしたら、あの子自身も舞台の上で、出口を探しているのかしら)
『100000000000000』。——百兆。
『922000000000000000』。
「もうすぐだ!」カイルの声が高まる。「922京を超える!」
会場全体が桃色の光で飽和した。ルカスの全身が発光体と化し、金色と桃色が入り混じった不安定な光を放っている。
「限界の直前だ!」
空中の数字が、激しく点滅し始めた。
『9223372036854775805』
『9223372036854775806』
『9223372036854775807』
そして。
『-9223372036854775808』
負に、反転した。
その瞬間、会場を満たしていたピンク色の霧が一息に消え去った。窓という窓を開け放ったような清涼感が会場を吹き抜ける。頭を締め付けていた圧迫が消え、空気が軽くなる。
エリザベートは深く息を吸い込んだ。
会場が、静まり返った。
ジークハルトが、ゆっくりと顔を上げた。さっきまでの蕩けるような熱は瞳から消え、いつもの冷静な緑色が戻っている。
「……すまない。私は今、何をしていた?」
「好感度の嵐に翻弄されていましたわ」
「夢を見ていたような気分だ。甘ったるくて吐き気のする夢を」
ジークハルトはクレアの方を見た。
そして、何の感慨もなく、視線を戻した。
「……別に」
道端の石ころを一瞥するような、徹底した無関心だった。
クレアの微笑みが、ほんの一瞬だけ揺らいだ。あの揺るぎなかった輝きの中に、ごくわずかな罅が走ったように見えた。
「ジークハルト様……?」
クレアの澄んだ、よく通る声。だがジークハルトは振り返りもしなかった。
「ああ、そこにいたのか。気づかなかった」
レオンが立ち上がった。自分の足を見下ろし、恐る恐る床に下ろす。もう勝手に動く気配はない。
「……あれ。足、おとなしくなってんな」
レオンはクレアをちらりと見て、首を傾げた。
「えーと、誰だっけ。どっかで見た気はするけど」
「レオン様!?」
クレアの声に、初めて動揺の色が滲んだ。桃色の瞳が不安げに揺れ、唇がわずかに開いたまま閉じることを忘れている。だがその戸惑いすら、どこか「戸惑うヒロイン」という物語の一場面のように整っていて、生身の感情なのか、システムが出力した反応なのか、判然としなかった。
「成功だ」
カイルが眼鏡を直した。疲労で青白い顔に、抑えきれない知的興奮が浮かんでいる。
「好感度が見事に反転した。仮説通り、数値は器の上限を超えれば負の最小値に裏返る」
ルカスのピンク色の発光が、ゆっくりと収まっていった。元の銀色の髪が戻り、彼は安堵の息をついた。
「終わりましたね。ピンク色に光る神官という、教会史上類を見ない不名誉から解放されました」
「ルカス様、むしろ記録に残すべきでは」ソフィアが手帳をめくりながら言った。「『好感度の殉教者』として」
「やめてください」
穏やかな声に、珍しく切実な響きがあった。
クレアが、もう一歩前に出た。
「あの、皆様……?」
微笑みを保とうとしている。だがその瞳が揺れていた。攻略対象たちが自分を認識しない。それは彼女にとって、台本のどこにも書かれていない、前例のない事態のはずだった。
ジークハルトはクレアを一瞥して、エリザベートの方を向いた。
「それより、次の手を考えるべきだろう。システムがこのまま黙っているとは思えない」
クレアの存在を、視界の外に押しやっている。それは意図的な無視ですらなく、純粋な無関心だった。
空中に赤い文字が浮かび上がった。
『ERROR: VALUE OUT OF RANGE』
『好感度が異常値です』
『修復を試行しています……』
「神様、計算が甘いですわよ」
エリザベートは空を見上げ、扇子をパチンと開いた。
「システムの器に限りがあることくらい、ご確認なさればよろしかったのに。随分と杜撰な仕掛けですわ」
「エリザベート、神に算術の講義をしても始まらないだろう」
ジークハルトが苦笑した。
「あら。講義ではなくて、批評ですわ」
崩れかけた壁がさらに大きく揺れた。床に新たなひびが走り、天井から黒い染みが粉雪のように降り注ぐ。世界の綻びが深刻化している。
「次、来ます!」
ソフィアが手帳を構えた。さっきまでシステムに書き殴られていた文字は消え、ページは白に戻っている。
エリザベートは仲間たちを見渡した。
全員、消耗している。カイルは術式の反動で指先が震え、ルカスは立っているのがやっとだ。レオンもジークハルトも、好感度の嵐の残滓で頭痛が残っているのだろう、眉間に皺を寄せている。
満身創痍。だが、誰一人、退く気配はなかった。
「さあ、神様」
エリザベートは扇子を閉じた。コバルトブルーの瞳に、崩壊する天井の赤い光が映っている。
「あなたの自慢のアイテムは、たった今壊れましたわ。次は何をお試しになるのかしら。もう少し頭を使ったものを期待しておりますのよ」
* * *
画面の向こうで、彼女は呆然としていた。
「なにこれ……」
スマートフォンの画面に、信じられない数字が表示されている。全攻略対象の好感度が負の値になっていた。
『ジークハルト:-9223372036854775808』
『レオン:-9223372036854775808』
『カイル:-9223372036854775808』
『ルカス:-9223372036854775808』
「いくらなんでも、なんなのこの数字?」
9,800円の課金アイテムを使ったのに。好感度は最大に固定されるはずだったのに。
彼女は震える手で画面をタップした。キャラクターたちは命令を無視している。ジークハルトはクレアを見ようともせず、エリザベートと何か話し合っている。レオンは剣に手をかけたまま、クレアに背を向けている。
そして。
画面の中で、エリザベートがこちらを向いた。
扇子を半開きにしたまま、コバルトブルーの瞳が画面のこちら側を射抜いている。あの悪役令嬢の瞳に宿っていたのは、恐怖でも従順でもなかった。冷ややかで、不敵で、挑むような光。
「あなたの手札はその程度かしら?」と問いかけているかのようだった。
彼女は息を呑んだ。
スマートフォンを持つ手がじわりと汗ばむ。
「……嘘でしょ」
画面の中の悪役令嬢は、扇子の陰で、笑っていた。




