最終話
しばらく言葉を発することが出来なかった。
初めて聞く詠唱によってもたらされたものは、それほどの衝撃を持って私たちの目に焼き付いた。
爆発的な魔力の奔流が収まった後、なおも吹き荒れるマナの嵐の中から姿を見せたのは、月光を浴びて煌く銀髪を靡かせる蒼い左目と紅い右目を持った青年。
「あれが、統也さん……なのかい?」
ようやく口にした言葉は、そんな気の抜けたものだった。
しかし、言葉を口に出せただけでも驚きだ。
今までに感じたことのない圧倒的な魔力のせいか、足が震えているのだから。
先に動いたのは酒吞童子だった。
両手で構えた槍を突進と共に突き出し、その場で反転しながら薙ぎ払う。
その顔が驚愕に歪んだ理由は単純。
渾身と力を込めたであろう薙ぎ払いは、左手一本で止められてしまったのだ。しかも統也さんはその場から全く動いていない。だだ、『左手を添えただけ』。
そこからは一方的だった。
刹那の間で懐に入り込んだ統也さんの掌底でなすすべもなく打ち上げられた酒吞童子を待っていたのは、上空で左の拳を振り被る統也さん。撃ち落とされた酒吞童子に追いすがり、墜落の寸前に蹴り飛ばす。
その先には妖魔の壁。数十の妖魔を巻き込みながら吹き飛ばされた酒吞童子に向け、統也さんは左手を突きだす。そこから迸った紅蓮の炎弾は、容赦なく酒吞童子に体を焼き、周辺に居た多数の妖魔を消し飛ばした。
「ここまで出鱈目だといっそ清々しいな」
その声の方に視線を向けると、台詞とは裏腹に不機嫌さを隠そうともしないブリュンヒルデさんが居た。
「茨木童子は、どうしたんだい?」
「ふん、あんな小物、とうの昔に消し飛ばしてやったわ」
「だっ、だったら、統也さんの援護にっ……」
どうでもいいことのように言うブリュンヒルデさんに、涼が言う。
しかし、ブリュンヒルデさんに睨みつけられ、最後まで言い切ることは出来なかった。
「あの中に割って入れだと?菊川涼、貴様は私に死ねと言うつもりか?」
その言葉に絶句したのは私も涼も同じだった。
よく見れば、僅かとはいえ、ブリュンヒルデさんの体が震えていた。
「悔しいことこの上ないが、今の統也の力は圧倒的だ。下手に近付けば死ぬのはこちらだ。私たちには、此処で黙って見ていることしか出来ん」
口惜しげに顔を歪めるブリュンヒルデさんは、酒吞童子と戦う統也さんの姿をほんの一瞬でも見逃すまいと凝視している。
その視線を辿って統也さんの姿を目にしたとき、大気のざわめきを感じた。
天に掲げられた左手の上、上空三メートルほどのところに莫大な魔力が集まっていく。
その魔力量は一人の上級魔法師の総魔力量に匹敵する。
「な、なんて魔力だ……」
「あれは……まさか、禁呪!?」
禁呪。それは、あまりの破壊力ゆえに禁忌の呪文と化したいくつかの魔法をさす。
その破壊力は上級魔法をも凌駕する。
その考えを否定したのはブリュンヒルデさんだった。
「いや、違うな。あれは魔法というのもおこがましい、そういう代物だ」
「どういうことだい?」
「本来魔法というものは、詠唱によって世界に呼び掛け、その力を借りて奇跡を成す。それに対して、あれは全く別物だ。自身の内面から現象を世界に呼び出し、無理矢理世界を上書きする。現実改変、とでも呼ぶか」
「現実、改変……」
その魔力量に危機感を覚えたのか、満身創痍の酒吞童子が駆け出す。
その剛腕が統也さんを捉える前に、直径一メートルほどの大きさになった、高密度の魔力を内包した球体が打ち出される。
瞬間、世界が変容した。
天を衝く巨大な光の柱が酒吞童子を中心に、半径十メートルほどの空間を消し去る。
その柱から、全周囲に広がった光輪に触れた妖魔が次々に消滅する。
後に残ったのは、いまだに空間を漂う燐光と、妖魔の大軍と乱戦を演じていた魔法師達のみ。
数百体の妖魔を一瞬のうちに無に帰した統也さんは、何の感慨も見せることなく『大樹』へと向かう。
術式は完成し、あとはその時を待つのみとなっていた『大樹』に手を触れ、何かを口ずさむ統也さんを見つめるのは、いまだに事情を呑み込めていない魔法師達。
『大樹』から手を放した統也さんは、見えない何かを振り払うように一閃する。
それと同時に、ガラスの割れるような音を伴って何かが砕け散った。
『大樹』の周辺に満ちていた光が徐々に収まっていくのと共に、そこに渦巻いていた魔力が大気中へと霧散していく。
「奇跡だ……」
誰かが呟いた。おそらくそれは、此処にいるすべての魔法師達の総意だろう。
「勝ったんだ、俺達は勝ったんだ……」
『うおおぉぉぉぉぉーーっ!』
囁きがざわめきとなり、最後には歓声に変わる。
それを聞きながら、私たちは示し合わせたように同時に走り出した。
『大樹』の袂に立ち、歓声を上げる人々を穏やかな微笑で見つめる銀髪の青年のもとへ。
「なんとかなったな」
視線の先で、抱き合い肩を叩き合う人々を眺めながら呟く。
「シール・アップ」
再度封印を施しながら、酒吞童子の最後の言葉を思い出す。
『くっくっく、我等を止めたか、流石あやつの子よ。だが、これで終わりと思うなよ。すべては、あの御方の御心にままに』
森で戦った時にも酒吞童子の話にも出た、あの御方という存在。そして、あやつの子という言葉。
あの御方とは誰なのか。なぜ異世界の鬼である酒吞童子が俺の親を知っているのか。
答えは出ない。
しかし、この襲撃の裏に何者かの意思が存在していること。その何者かは、酒吞童子よりも高位の存在だということ。
それだけは確かだ。
「統也!」
聞き慣れた声に視線を上げると、こちらに駆け寄ってくる三人の少年少女。
怒ったような表情のディアナ。安心した様子の氷雨。嬉しそうに笑う涼。
三人を苦笑で迎えると、氷雨と涼は足を止める。
しかし、速度を緩めることなく突っ込んできたディアナには体当たりされた。
「げぇ……」
予想外の行動にまともに食らったものの、何とか踏みとどまることが出来た。
「おいディアナ、何する……」
見下ろしたディアナの様子に、上げかけた抗議の声を呑み込んだ。
「ディアナ……?」
胸に埋めていた顔が上がると、その両目には大粒の涙。
「何故お前はそこまでするんだ。自分の身を削ってまで守る価値がこの世界にあるのか?どうして、お前は……」
それだけ言って、再び顔を胸に埋めるディアナの頭を撫でる。
「この世界にはお前たちがいる。理由なんて、それで充分だろ。……けど、一応謝っとく。約束、したもんな」
「謝るくらいなら最初からやるな」
「分かった、次からは気を付ける」
「本当だな?約束だぞ?」
「ああ、約束だ」
仕方ない許してやる、と一歩下がりながら言うディアナに笑いかけると、ディアナは顔を赤くして顔をそむけてしまった。
なんでだ?と視線で涼に説明を求めると、「こいつ信じられねぇ」とでも言いたそうな顔で睨まれた。視線を氷雨に移すと、こちらは顔を真っ赤にしてやっぱり睨んでいた。
氷雨さん、あなたに睨まれると、とても怖いです。
何ともおかしな空気になってしまったことに内心首をかしげながら、それでも何とかしなければ、と殊更明るい調子で切り出した。
「そう言えば、お前ら腹減ってないか?さっさと帰って年越し蕎麦でも食おうぜ」
「統也、お前の手作りだろうな?」
「ああ、勿論だ。麺から出汁まで、完全自家製だ」
「統也さんが作ったのかいっ」
「それは食べてみたいですね」
「なっ、貴様らも食う気かっ」
「「もちろん」」
「ふ、ふざけるなぁぁぁっ!」
「おいおい、落ち着けよディアナ。もともとそのつもりだったんだ。とても二人で食える量じゃない」
一転して騒がしくなった三人にほっと一息。
顔を真っ赤にして叫ぶディアナ。それをのらりくらりとかわす氷雨。そんな二人を苦笑いを浮かべて眺める涼。
こいつらがこんなに楽しそうなんだ。
「おーい、早く行くぞー。遅れた奴には食わせないぞー」
気になることはあるが、とりあえず今は新年を祝おう。
その言葉に、前を歩いていた俺を追い抜いて行く三人を眺めながらそう思う。
見上げた空には淡く輝く満月。その明かりは俺たちを見守っているように思えた。
だから俺は笑おう。出来る限りの笑顔で精一杯に生きよう。
視線を下げると、二十メートルほど先で立ち止まり俺を呼ぶディアナたちがいる。
俺は急いで追いつき、三人に笑いかけた。