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振動  作者: 宇井
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「ソコ」

 老人は、通路の端に座り込み、その周りを困惑した人々が囲んでいる。一人の男が何かわめいていて、老人は耳が遠いのか耳の後ろに手をあててもう一度と仕草で促した。男は自分の端末で音声を増幅させて、いらだって叫んでいた。


男は近づいてきた黄色い作業着のTを見付けると、怒気を含んだ声で、「はやく、どこかに追いやってくれ。ここに座り込んでいられては、通行の邪魔だし、へんなものを広げているから、気味悪がって、店に人が入らなくなる。」と、いまいましげに言った。


 広げていたのは、数枚の絵であった。その中の1枚は、古びた厚い白い紙に直径数センチのたくさんの赤い輪が画面いっぱいに描かれていた。紙という媒体を使った平面イメージを今ではほとんど見ることもない。並んでいる赤い輪は均一であるようで、そうでもなく、染色剤を使って手で描かれたものらしく、形も少しずつ違い、ゆがんだり、伸びたりしており、輪郭の線の濃淡もさまざまだった。


 その不均一さは、人々に何か不安を呼び起こした。計算されたグラデーションでも、乱数による不均一でもない、人の感情がそのまま不均性を生み出している。それを見た人々を、どうにも説明できない落ち着かない気分にさせた。


 Tには別の一枚の絵が気になった。画面の中央に大きく円が描かれ、黒く塗りつぶされている。その内側に、線描で一回り小さい円が描かれ、中心に点がある。線も中心点も深い青色で、塗りつぶされた黒の中に沈んでおり、黒い円をじっと眺めていると、その存在に突然、気づく。奇妙な驚きとともに、中心点に飲み込まれていくような気分になった。


 老人の緩慢な動き、真っ直ぐにのびない腰や膝、白くまばらになった髪、アンチエイジングの技術が進んだ今では、こうした姿を街でみることはない。自然に生きればこうなるのだという本来の人の姿を見せ付けられてたことにも、人々は困惑し、腹立たしさを募らせ、嫌悪を増幅させていた。


 Tは老人に近づき、静かに「さあ、一緒に行きましょう。」と話しかけた。老人は、鋭い目で周りを見回したあとに、Tに向かって、「その時がきたようですな。」うなずいた。「聞こえていたんだ。」と周囲がざわめき、わめいていた男は顔を怒りで真っ赤にして老人を睨んでいた。


 そんなことはお構いなしに、老人は染みの浮きでたしわくちゃの手で、のろのろと絵を集め、広げていた布で包んだ。そして膝をさすりながら立ち上がり、「それでは、行きましょうか。」と言って、Tの前をよたよたと歩き始めた。人々は得たいのしれないもの通るかのように、後ずさりして道を大きく開け、老人は王のようにTを従えて、ゆっくりとエスカレータプラットフォームに向かった。


 老人とTが去ったのちも、ある人は、あの絵の中に人のゆがんだ顔が見えたといったり、輪は何千本もの足を持つ細長い虫が這い回っていたものだったとか、ひそひそと話した。それぞれの不安が絵のイメージに重なり、増幅していく。


 「作業完了」と報告したTは、いつでもマユタワーへ戻ることもできたが、老人のあとから下りエレベータに乗り込んだ。老人は、後ろを振り返ることもなく、Tが付いてくることを確信している。二人は何段ものプラットフォームを行き過ぎて下降していった。すれ違う上昇側の人々は奇異の目をなげかけながら行き過ぎていく。


 しだいに、上下どちらの向きのエスカレータ上の人もまばらになり、照明もしだいに落とされて暗くなった。Tは思い切って老人にたずねた。「あの黒い円はなんなのですか。」


 Tが問うことを初めから知っていたかのように、老人は振り向きもせずに、「あれは、ソラ を描いたものです。」と答えた。その言葉を聞いて、確かにあれは、「ソラ」だと直感した。そうならば、今、自分が向かっているのは、「ソコ」であると、はっきりと感じてた。


「ソラ」の絵と対応する抽象的な「ソコ」のつもりで考えていたが、こんなに下っているのだから、地下世界の底であることも間違いない。すべてが均一化されているこの世界では、ソコは単なる一位置を示す言葉でしかないはずだ。謎のように考えていた問題は、難しいクイズではなく、「世界はシンプルなのだ。」とTは思い直した。しかし、そこにたどり着くには、この老人が必要であったし、「ソコ」は、そんなに単純な話ではなかった。




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