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結城悠真の条件  作者: 灯屋 いと


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1/3

#1 記憶障害

 ある日の昼休み──と言っても、悠真の所属する会社は代表である三影凪のほかに社員は悠真しかおらず、明確なルールさえもないのだが──に近くのパン屋で買ってきたパンとコンビニのコーヒーで昼食をとりながら、ネットニュースをチェックしていた悠真はふと気になった記事を読み、コーヒーで口の中のものを流し込むと、三枚のモニターの向こう側にいる凪に話しかけた。

「あのさー、凪さん。そもそもさ、記憶障害って治るもんなの。いま見てた記事、治る場合はあるっつってっけど、障害が発生後半年から一年くらいで戻るって言ってんだけどさ。俺の場合、もう六年? もっと? ってことは戻る見込みゼロみたいな話にならん?」

 たまたまSNSに流れてきた医学系ニュースの記事を読んだ悠真は自分のケースに当てはめて問いかける。

「んー? 悠真、あんた、そんなに自分の記憶に固執してたっけー?」

 モニターの壁の向こう側から凪は呑気な返事をしてきた。タイピング音は途絶えず、作業をしながら悠真の話を聞いているのはいつものことだ。

「あー……いや、固執はしてないんだけど、レアケース? みたいな話」

「確率の話ならそういう論文なんかは都合のいいとこばっか取り上げるんだから真に受けなくていいよ。自分の用意した結論に当て書きしてんだもん」

「身も蓋もねえなー」

 聞いた相手が悪かったかと、悠真は残ったコーヒーを啜った。だが、凪の言うことにも一理ある。すべてのケースが一般化されるわけではない。

 悠真は十九の時に交通事故にあい、それ以前の記憶を失くしている。同乗していた両親は死亡し、悠真自身も半年程度の入院生活が必要だった。ただ一人生存できたことと引き換えに記憶障害となったが、二十六になったいまもひとかけらの記憶すら戻っていない。だが、悠真自身凪に指摘された通り自分の記憶障害を特に気にしていなかった。退院後、自宅と言われた家に帰った時には他人の家のような気がして気味が悪かったし、両親の遺品と言われても実感も湧かずに結局、実家は遺品整理ついでに売却し、今住んでいるマンションはその売却費で悠真が自分で決めて購入した。両親とも医者だったらしいが、悠真の元には実家の売却費のほかに多額の保険金・事故の相手方からの慰謝料など生活には困らない金だけは勝手に入ってきた。

「ああ、じゃあさ。記憶の概念ってどうなんの。どっからが記憶になんの」

「あんたねー、そういうのちゃんとガッコーでやったでしょうよ。哲学科出てんだから」

 凪は呆れたような声を返してくる。けれど、タイピング音が止まった。どうやら悠真の言葉は凪の興味を引いたようだ。

「悠真の言ってんのって、二つに分けられるよ。記憶。脳みその表層的に覚えてるいわゆる〝記憶〟と脳みその奥の方で忘れちゃいけねってなってる本能的な〝記憶〟んで、あんたが気にしてんのって表層的な記憶の方だと思うけどさー……、アリストテレスの蠟の板で言ったら、表面の蝋だけ焼き溶かされた状態かもしんないし、そもそも元々乗っかってた蝋も全部消し飛ぶくらい乱暴に引っぺがされたかもしんない。どっちの可能性もあるけど、人間の脳みそなんて繊細過ぎて今の医学でも証明できない部分が多い。どう定義しようとあんた次第なのよ」

 アリストテレスの蝋の板と言われ、悠真は学生の頃に読んだ『霊魂論』を思い出した。古代哲学者のアプローチは確かに面白い点が多数ある。抽象的なのに、本質的だ。

「それで言ったら、本能的に覚えてる方の〝記憶〟って板の方になんの? 蝋は後天的で蓄積可能な経験や知識みたいなやつになるじゃん」

「そうじゃない? 私、哲学専門じゃないんだから正確じゃないよ」

「専門じゃない人からアリストテレスの霊魂論出されもなー。凪さんの守備範囲ってどこまでなの」

 苦笑しながら悠真は紙コップに残ったコーヒーを飲み干し、コップを握りつぶすとゴミ箱に捨てた。コンビニのコーヒー。マシンが定量的に作る均一な味。パン屋のパン。品質管理された均一的な商品。少し面白みに欠ける。

「悠真ー。立ったんならコーヒー淹れてー」

 モニターの壁の向こうから凪が言ってきた。タイピング音が再び鳴っている。

「凪さん、メシは?」

「いまの作業やっちゃってからー。キリいいとこまでやっつけたいのよ。悠真、コーヒー」

「了解っす」

 ──この人はいつもそうだ、と悠真は苦笑してキッチンに立った。

 どこに行くにも利便性のいい都内の分譲マンション、3LDK。大学と大学病院までもアクセスがいい。それが凪のオフィスだ。リビング部分が事務所区画。ほかの三部屋はそれぞれ資料室、サーバールーム、仮眠室になっている。資料室に入りきらない本は事務所に溢れ、キッチンにはやたらとコーヒーや茶葉の種類が多い。大量の資料本もコーヒーや茶葉も全て凪の趣味だが、いまだに悠真は凪がなにを本業としているのか知らない。知らないが、この雇用関係は悠真が学生の頃から続いている。

 電気ケトルではなくコンロで湯を沸かし、ドリッパーにフィルターをセットしコーヒーの粉を二杯分より気持ち多めに。凪の分と、ついでに自分の分のコーヒーを淹れる。コンビニのコーヒーよりはまだ自分で入れたコーヒーの方がいい。

 その感覚は、凪の言葉を借りるなら本能的な記憶に分類されるだろう。

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