おむすび屋、虎さん。 第9話 三色おむすびと、忘れた季節
空気にわずかな秋の香りが混ざりはじめたある日のこと。
屋台《おむすび屋、虎さん。》に、一人の老紳士が訪れた。
絹のように艶のある白髪。深く刻まれた皺。背筋は伸び、所作には品がある。
だが、どこか“何かを探している”ような眼をしていた。
> 「三色の……おむすびを、握っていただけませんか?」
「三色?」
> 「そう――春の桜、夏の青葉、秋の紅葉……そして、冬の白雪……季節を覚えていたくてな」
彼は静かに、そう言った。
> 「もうずいぶん長い間、季節の感覚がなくなってしまってね……。
目で見ても、風を感じても……心が動かないのです」
ルゥナが少し寂しげに目を伏せる。
> 「記憶、ですね」
老人はゆっくりうなずいた。
> 「大切な人と、季節を重ねていたはずなのに……“その人の名前”も、“季節そのもの”も……すっかり、抜け落ちてしまった」
俺は考えた。
春・夏・秋・冬。それぞれを表す具材。
幸い、今日は収納袋の機嫌がよかった。
――桜の塩漬け。青しそ。焼き栗。そして、ほんのり甘い白味噌。
春は桜ごはん。
夏は青しそごはん。
秋は焼き栗の炊き込み。
冬は白味噌おむすび。
だが四つは多い。三色、という言葉に込められた思いを感じた。
「“ひとつ、失った季節”があるんですね?」
老人は目を見開き、やがて、ほろりと微笑んだ。
> 「そうかもしれません。……だから、三つでいいのです」
俺は三つを丁寧に握った。
――春。桜の香りがほんのり優しく。
――夏。青しその清涼感。
――秋。栗の甘さと香ばしさ。
それを木の葉を添えた皿に並べ、老紳士へ差し出す。
> 「どうぞ、“三色の記憶”を」
老人は、震える指先でおむすびを持ち上げ、ひと口かじる。
> 「……ああ……」
言葉にならない感情が、静かに彼の目にあふれた。
> 「……彼女と、毎季節ごとに出かけていたんです……。
公園の桜、山の緑、庭で焼いた栗……そして……」
> 「……冬に、彼女は……逝ってしまった。だから、冬の味が……どうしても……思い出せなかったんだ……」
ルゥナがそっと横に座る。
> 「でも、こうして、三つの季節は帰ってきましたね」
老人はうなずき、ふと、懐から一枚の写真を取り出した。
それは、若かりし頃の彼と、笑顔の女性が並ぶ写真。
> 「名前を……ようやく、思い出せました。“ミナ”……。
このおむすびを、あの人にも届けたかったな……」
俺は空を見上げる。
「きっと届いてますよ、心の中の食卓で」
そして、老人は小さくうなずき、空に向かってひとこと呟いた。
> 「また、春が来るまで、忘れずにいるよ……」
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季節は巡っても、忘れたくない味がある。
その味は、記憶となって、時を越え――
もう一度、大切な人の名を呼ばせてくれる。