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【まえがき】
いつもより少し長めです。
ゆっくり整理しながら読んでみてください。
納得のいくまで生まれ直せればいいなと思ったことは、思案の外少ない。
どちらを選択するにしても、不自由は必ずあるし、選択しなかった方と優劣がついてしまうと思うからだ。結果論の通用しない修正無制限下であったとして、果たしてそれは、論じるに値するテーゼなのかと疑問視もできる。
仮に、宇宙的な確率で瞭然の優劣がつくとする。
それで宇宙の仕組みが変わるかどうかなど、明々白々、言を俟たない。
しかし、多少衒学的に語ったところで人間は人間たり得ている。狎れ、驕り、嘯く。それこそが、自己を自己たり得るものへと変貌させ、やがては“僕”や“私”、あるいは“わたし”であるとか、そういうものに膠着する。
誰しもがそれを、そういうものであると理解し、そういうものであると納得し、そういうものであると受容している。
だからこそ、人は笑うことができる。
そういう感情的な結論に辿り着く以上は、これはただの空事でしかない。自然主義のような学問と逆に、変に利己的でないから良いのかもしれないが。
――僕か、私か。
どちらかを選ばなければいけないとするなら、どちらを選ぶだろう。
重量挙げで世界一を目指したい、子供が欲しい、可愛らしくおめかししたいのように、目的が決まっているとすれば、話は早い。早いのだが、それは不可能だ。不可能どころか、それは人道的でない。
生まれつき目的が決まっているのなら、それは道具と同じなのだから。
掃除をさせられるために生まれただとか、子孫を繁栄させるためにだけ生まれただとか。そんなものは、僕だろうと私だろうと願い下げだ。
ともすれば、目的もわからないまま、取捨選択をしなければいけないということになる。
どちらかを捨てて、どちらかを取る。どちらかを笑顔にして、どちらかは泣かせてしまうということ。
得てして、一つの疑問が浮かぶ。
――果たして、選んでいいのだろうか。
話は最初に戻るが、結局のところ『論じるに値しない』が正解と言う事になる。そうして誰もが平等を手に入れるわけだから、なにという事はない。仮に、不当だと主張するのであればそれは、明らかに傲慢である。
そのことに気付けたとて、人間は論じる。
そういう生き物だ。
生きているから、死者を厭うということ。それもまた同じこと。議論の必要のないことを、わざわざ話にする。死者は満足したりしないから、結局は、生きている側の都合になる。でも、だからと言って、無下にもしない。
そうやって人は続いてきたわけだから、これからもそうあるべきなのだろうと思う。
それが正しいことであるとか、それ以前の話。有無を言わせず、そうした柵の中に人は生まれるのだから。だからこそ、平等であると言えるのだから。
それなのに、私は今日、“私”でいいと思った。
△▲△▲
「君は聡明だ」
「……くっ。ど、ど……してっ、こんなこと……っ!」
縄で後ろ手に腕を縛られて、足首も椅子の脚に、僕は座らされていた。
縛る順序がどうであったとか、どういう経緯でこういう状況に至ったかは思い出せない。まるで、そこの記憶だけ綺麗に抜き取られたように無い。そればかりか、体が火照っていて気怠い。眠くも無いのに瞼は重いし、あらゆる感覚が鈍磨しているようだ。
顔を上げる気力も無くて俯いているうえに、目が霞んで良く見えないけれど、誰かしらが見張っているらしいし、もはや、脱出は不可能だ。
少なくとも、外から誰かが助けに来てくれなければ。
「君は聡明だ。だから、覚えているだろう、僕のことを」
「僕……?」
感覚が鈍っているせいでわずかにしかわからなかったけれど、どうやら、頬を触られたらしい。若干の温かさが頬を撫でた後、僕の視界は唐突に開けた。
「え……っ」
そこにあったのは、他でもないレイル生徒会長の顔だった。この状況だというのにも関わらず、一瞬だったが、安堵した。慣れだろうか。
「レ、レイル……会長……?」
「違うよ」
安堵はすぐに、驚愕と焦燥に変わった。慣れから逸脱したのだから当然かもしれない。
レイル会長でないのならば、一体誰なのだろう。籠って聞こえる声も、ぼやける輪郭も、どことなく身に覚えがあるのだが。
でも、レイル会長は、人の体を不必要に触ったりはしないだろう。
「な、何、して……るん、です……っ」
「こうすれば思い出してくれるかな、と思ってね」
「や、やめてください……っ! ここは学校、だって……っ! ちょっと待、え?」
右肩の辺りにあった生温い触感は、そのまま腕を伝って下へ行くと、手首の手前で徐に進路変更を決めて背中へ回った。追うように、反対側も同じようになった。それに乗じて、レイル会長の体が僕に密着する。瞬間的に体温が下がった。
でもすぐに、体が熱くなった。
これは知っている。
エンディング、王子様がお姫様にするものだ。
「何を……」
「思い出さないかな。僕を」
耳元で囁かれるその言葉だけがやけに鮮明に聞こえ、続く外界の音は靄がかかっているように閉ざされた。体の調子が悪いせいだけではない気がした。
しかし、思い出せと言われて、従順にも思考を巡らせたが思い当たる節など無い。ことレイル会長に関しての記憶など、思い返すほど遠くにはないわけもあるし。
責任逃れをしようと沈黙していると、背中に新たな触覚があった。
服が擦れているような摩擦を感じる。温かくもあり、くすぐったくもある。摩られているということが如実にわかって、発熱に拍車がかかる。
「や、やめて、ください……レイル会長」
「でも、これは君が望んでいることだろう?」
ここは学校で、それも僕たちは生徒の模範であるべき生徒会の一員。それはレイル会長だって、当然知っているはずなのに。一体、何を言っているのだろう。
「何を言って――」
「じゃあ、どうして抵抗しないんだい?」
「縛られているから、できないんです……!」
「そっか。そうやって、また逃げるんだね、ルートさん」
「に、逃げてな、あ……?」
僕の腕を封じていた縄はいつの間にか、取り除かれて、地面で蜷局を巻いていた。
抱擁している最中にでも解いたのだろうか。そんな素振りなどありはしなかったし、ハグしながら解ける程緩くは無かった気がするが。
「違うよ。最初に頬に触った時にはもう、外してあったんだ」
「そんなはずは――」
「あるよ」
いやに断言してくる。相手が相手だけに、相当な信憑性があって怖い。
僕も、反駁の余地が無くなる。
ということは何か。
僕を縛っていたのは僕自身で、その僕は『逃亡』を望んでいたとでも言うのか。
どうして。
どうしてわかるのだ。
「ははは。君の考えていることは、すべてお見通しだからね」
「…………」
俄然、口を開くのが恐ろしくなってくる。口調や所作から読み取られると聞くし、僕の知り合いにも心を見透かしてくる人がいるから、わかる。
沈黙は金という金言を信じて罷り通そうと思ったが、やっぱり勝てない。
「わっ……」
背中を撫でられると、それどころではなくなる。落ち着いてはいけない状況で、落ち着きそうなことをされて、自分はどちらに身を振ればいいのかわからなくなってしまうのだ。
現に抱かれてしまっているから、身動きは取れないけれど。
このままこうしていたら、遂に飲み込まれてしまうような感じがして、無理やりにでも口を動かさなければ平常心でいられなかった。
「ああ、あのっ、レイル会長……いつまでこうして……」
「ルートさんが抵抗するまで、かな」
「そんなの、すぐ――」
「本当にそうかな」
そうだ。
僕が押し退けようとするのを妨げたりしなければ、そんなこと、すぐにできる。だから、できないでいるのは、意志を遮るレイル会長のせいなのだ。もしかすれば、さっきから大きく変動する体の調子も勘違いも全部、レイル会長の仕業なのかもしれない。
そうだ。そうに決まっている。
「ルートさん。これは僕の厚意だよ」
「…………」
「好意、でもある……かもね」
〈一体なぜ。なぜ、僕に厚意を〉なんて下らない事ばかりが、頭の中で渦を巻いた。そんなことを考えている暇があったら、さっさと突き飛ばせばいいのに。突き飛ばさなければいけないのに。
「いいよ。蹴ったって、殴ったって。絶対怒らないから。そんな様子見なんかしなくていいよ。それとも、望んでいるのかい?」
「そんな……。ど、どうして……」
断言できない。
無いと言ってしまえば、それはレイル会長の厚意を真っ向から否定することになるから。でも、だからと言って、無言は肯定だ。肯定すれば、僕の意志は消滅することになる。
レイル会長は、間違いなくそのことに気付いている。
気付いていて、積極的に危害を加えようとしないのはなぜ? そんなに僕を気に掛ける意味はなんだというのだろう。本当に、好意があるわけでもないだろうし。
僕はレイル会長の余裕につけこんで、少しだけ解釈の掘り下げを求める。
「どういう、こと……ですか」
どうして、僕がレイル会長に何か致されることを望んでいるという結論に至ったかという事。そして、どうして僕が選ばれたかという事。
曇る瞳に含めたつもりだが、語調ないしは息遣いにも寓されていたと思う。
レイル会長の答えは、あまりに的確だった。
「似ている、から……かな。僕と」
僕も僕で、その言葉に寓された何かしらの悲劇を感じることができていた。竹藪よりも暗くて深い闇に、四六時中尾行されているかのような感覚の共有――振り返ることへの恐怖めいた何かを。
「私が望めば、大抵のものは手に入った。けれど、手に入らない、叶わない願いが一つだけあったんだ」
その悲哀に満ち満ちた物言いに、恐ろしいほどの共感を抱いてしまう。
自然、その答えも“永遠”であると知っていた。
「それは奇しくも、『人の願いを叶えることができない』という不条理の上に成り立った、呆気ない逃亡だった。僕もそうだった。ずっと逃げていたんだ」
終わりがある事象ならば、継続意志は逃亡を示唆する。逃げたくない一心で次にとった行動は、いつの日も諦観だった。何度思い返しても、省みても、選択肢は見つからなかった。
その思いさえ、知っているのか。レイル会長は。
「君と同じ」
刹那、ゾッとした。
何かと思えば、背中の感触とは別に、今度は太腿の横辺りに着物が擦れる感覚があった。
「……っ」
「助け、求めたりしないのかい?」
もう、声も出ない。出せない。出すという選択肢が、排除されてしまった。結局、そういう選択肢を、選んでしまったのだ。選んでいいはずなどないのに。
同じだ。僕がずっとしてきた逃げることだって。
あれだって、一つの選択だ。
だから僕は、運命に立ち向かえる人たちに顔向けできないのだ。その人たちが輝いて見えるのではなくて、自分の醜悪さが浮き彫りになるから。
「…………」
「ふふっ。君は本当にずるいよ」
ああ。そうだ。本当にそうかもしれない。
だから、罰を受けなければならない。
「ねぇ、ルートさん。僕なら君を赦せるって言ったらどうする?」
レイル会長の言葉は、決して冗談や空事ではない気がした。
もし本当に赦されると言うのなら、僕は悦んで条件を呑むだろう。
「僕は知ってしまったから。ルートさんが、本当は王子様なんてやりたくないってことを」
そうだろう。それは、最悪の事態に備えて、僕がレイル会長に相談したことなのだから。
ならばこそ、レイル会長には僕を赦せる力があるはずだ。
「僕は君を赦すよ。コウイで」
その“含み”が急にわからなくなる。また少し、意識が薄れる。今度は、気絶しそうと言うよりも、なにか我を忘れそうなそんな感覚だった。
触れられている部分にのみ感じる温感が、血流でもって全身を巡って末端までをも火照らす。しかし最後には確りと心へと戻ってきて、それにまたもどかしさを催す。
「僕が、君をお姫様にしてあげるよ」
罰への覚悟なのかなんなのか、目頭も熱くなってきた。
でもきっと、処罰への申し立てはしない。
だから――
「だから、ルートさん」
――罪状を僕に。
「ルートさんのすべてを僕に……いや、私に頂戴」
あげられるようなものなど、僕にありはしないが、それでもいいのなら。喜んで差し出そう、私を。例え好意であっても、私はそれを厭わない。
そして、“僕”は頷くのだ。
「そして君は、私に負けるんだ」
それは違う。私はすでに負けたのだ。
「君が逃げさえしなければ、丸く収まったのに」
そうかもしれない。
過去のことは振り返れても変えることはできないから、結果としてそうなった。それに、もし変えられるとするならば、僕はきっと、選択を放棄する。そういう選択をする。
だから、願わくは教えて欲しい。敗北だろうと、雪辱だろうと構わないから。
僕のすべきことを。
そして、赦して。
「聡明な君ならわかるよね。僕が欲しいって言った『すべて』の意味」
もう子供ではないのだ。それくらい知っている。
けれど、もしかしたら子供のように泣いてしまうかもしれない。
それも含めて赦してくれるなら、私は頷ける。
「やっぱり嫌?」
嫌なはずなど無い。
他人の選択につべこべ言える立場に、人間はいないのだから。ましてや、決めかねているそれを、決めてもらえるのだから、大いに喜ばしいことなのだ。
僕は首を横に振る。
「そっか。何か気になることはある? 答えるから」
レイル会長が優しく投げかけると、急に喉の緊張が緩んだようになる。抑え込まれていたホースの口が開けられるような、そんな感覚に。
「レイル会長……」
僕の一言は、複雑怪奇に渡る感情が込められていて、溜息のように重かった。
でも、言いたいことは呼名ではなくて、ただ一つの問いかけだけ。
「好き、ですか……? わたしのこと……」
だって、僕は好きではないから。僕は僕を殺すために、努力しなければならない。
レイル会長の微笑みは、淡々と僕を蝕んでくれた。
「嫌いかな」
多分その笑顔は、レイル会長自身も傷つけている。
それを事実たらしめるように、レイル会長の影は仄暗く僕を覆っている。手は何かを求めて尾骶骨のあたりを彷徨い、肩は頬をアトランダムに撫でる。少しだけ体重がかかっていることもあって、木の椅子は僕を撥ね退けようと必死に努めている。
流石に、にこやかにしていることはできなかった。
笑顔でいる資格も意味も、僕には無いのだろうけど。
「そうですか」
「そうだね。君も、僕が嫌いかな?」
「いえ。わたしは好きですよ。レイル会長のこと」
「はははっ。やっぱりずるいね。ルートさん」
笑うレイル会長の感情は一切読めない。必死に合わせるこちらの声色からも、自然と情が失せる。それでも、来たるべき時に備えてなのか、脇の辺りがきゅっと締まる感覚を覚える。不思議と汗はかかない。
ふふふっ、と小気味よく微笑みを演じると、尾骶骨を摩っていた手がお腹へと場所を移して、また盛んだった。
「可愛い、って言ったら信じる?」
「信じます」
「嬉しいかい?」
「嬉しいです」
「可愛い君のこと、もっと見たい……って言ったら?」
「どう、すれば……いいですか?」
レイル会長は、またにこやかに微笑む。
そして怯えたわたしは、潔く目を瞑る。
僕と私の選択を、今、レイル会長が代行する。その意味では、レイル会長は本当の聖人――神様のようでもある。なればこそ、畏敬の念を持って粛々と。
精神が研ぎ澄まされたのかレイル会長の匙加減か、感覚はいつも以上に鋭敏になっているようだった。この部屋が静か過ぎるせいもあるだろうが、どうにも僕の心音は騒がしい。意識して細やかにした息遣いも、鮮明に聞こえるせいで余計に拍動を速める。襲い来る闇には滔々と、外界の光に透かされた血潮が浮かぶ。
僕の見ていた醜い世界は一度閉じて、もう認識もできない。
新しい世界はとても息苦しくて暗くて、風さえ沁みる。心はそれでも変わらずにいて、不思議と違和感は無い。ここに居て然るべきなのだと、そう感じられる。
「ふふふっ。おかしいね。ルートさん」
言いながらその人は、私の襟元に触れた。背中を辿って首元まで来たらしく、その軌跡が鈍行して弥立った。
「蝶ネクタイの結び方。間違ってるね。外しにくい」
「ごめんなさい……」
「いいよ。外れたから。でも意外だな。昔から天才肌なのに」
「そう、ですか……?」
僕の苦言は瞬く間に沈黙の中へと埋まっていった。そして部屋にはまた、しんという無音が響いて、わたしの心音と共鳴した。一段緩くなった気道は、かえって呼吸を乱れさせた。
浅めの呼吸をしていると今度は、襟から一番近いボタンに手がかかる。
「さすがにボタンは掛け違えてないね」
「は、はい」
ボタンが一つ外れる度に、僕の心臓は張り裂けそうなくらいに高鳴って悲鳴を上げている。体の中を一気に駆け巡る血流は、僕を内側から洗浄してくれているようでもある。三つ外れた時にはすでに息をするのを忘れていて、さすがにこの時ばかりはもっとボタンがあればなと思わなくもなかった。
私が僕を捧げたとて、レイル会長には何の利点も無いのだろうけれど、これが贖罪の禊なのだから仕方がない。非情なまでの椅子の硬さが、それを物語っている。
ボタンはまだ三つある。時間が長く感じられる。
ボタンがすべて外れた時、僕はもう僕たるものではなくなるのだろうけど、反対にわたしはわたしたるものになる。鑑みればボタンは、わたしにこびりついた穢れの暗喩になっているようでもあった。
レイル会長は掛け違えていないと言ったが、それは間違いだ。
僕は盛大に掛け違えたボタンを誤魔化すのに、生地を伸ばしたのだ。途中から、もうどこが始まりかも終わりかもわからなくなってきて。そうしているうちに未練は募って、汚れを払うのに時間を要するほどに長くなってしまったわけだ。
なるほど、こんなにも道理が立っているのは、僕史上初かもしれない。
さて、ボタンがすべて取り除かれたわけだけど。
そろそろワイシャツのフロントもはだけてきて、下に着ていた文化祭Tシャツが大部分露わになった。僕の嫌いな部分が曝け出されていくようで、途轍もなく惨めだ。
「Tシャツ、着てたんだ」
「着てました」
「……ま、いいよ。上はそのままでも大丈夫。下、汚したくないよね」
「汚したく、ないです……」
もう、汚れているのだろうけど。
「わかった」
でも、これでやっと僕の罪は晴れる。赦されるのだと思えば、惨めさも恐怖もさほど問題とは感じない。痛みも伴うのであろうが、それこそあって然るべきだ。この瞬間逃げさえしなければ、今までの長い逃避行が赦されるのだから。
「…………」
ああ、僕は愚かだな。心底そう思う。
僕は、レイル会長の言うような『聡明な人』ではない。そうであればきっと、逃げるよりも賢い選択をすることができるはずなのだ。逆に、この状況を受け入れる方が聡明であるというならば、それは成り立つのかもしれないが。
しかし、それは僕がちゃんと、『女の子』を演じきれていればの話。
でも、僕は僕だった。
レイル会長はそれを無理矢理に『お姫様』というフィルタを透過させて、僕を美化したのだ。その中で僕はわたしになって、わたしは初めて『お姫様』でいられた。
だとすれば、わたしはきっと正しい。間違っていない。閨秀だ。
「可愛いって、さっきの言葉。嘘じゃないよ」
「ありがとう、ございます……」
例え嘘でも構わないけれど。
「最初に僕に衝突してきた時から、そう思ってた」
「…………」
「良い匂いがする女の子だなって」
「…………」
「今も、あの時と同じ匂いがする」
「そう、ですか」
徐に、鎖骨の辺りにレイル会長の顔が飛び込んでくる。触れないギリギリのところまで近づいたせいで、レイル会長の呼吸が生暖かく感じられる。心臓によくない。
それでも頭には薬なのか、自然と過去のことが思い出された。“あの時”の記憶だ。
何か大きな試合の時の出来事だったと思う。わたしはその試合で初めて本気になったのだ。そして試合に勝利して、栄光も手にして、わたしはわたしでなくなった。
その時きっと、誰かしらは幸せになって、誰かしらは不幸せになった。
まるで、僕の書いた台本のように。キャスティングは至って正確で、要ったのは多少の時間と羞恥心だけだ。
そして今、主人公が降板する。
たったそれだけのことだ。
「キス、しようか」
胸から離れたレイル会長は、また微笑んだ。
そこにあの日の面影はなく、郷愁や回顧の念に明け暮れていたのは僕だけであると知らされる。部屋はひっそりと僕たちを静観しているけれど、その色調はどこか僕だけを追い出そうと脅迫しているように冷たく感じる。それでも僕は、僕を椅子に縛りつけて、そこへ固定した。
「わたしでよければ……」
そうして目を瞑ると、また、感覚が鈍磨したようになって、体も同じように重くなった。ただし、足の先であるとか指の先であるとか、末端だけは部屋の緊張を感じてピリピリと痛痒かった。
唇も例外ではなかった。
鼻息か吐息かもわからないが、しっかりとした厚みの風がわたしの唇に触れた。
もう、僕は終わる。いや、わたしは始まるのかもしれない。
「好きだよ」
さようなら、僕。
□■□■
「待つのじゃぁぁぁ!!」
□■□■
僕の知り合いと似たような声が聞こえたと思えば、いつの間にか僕は床に寝ていて、謎の金マントの人が僕の上に乗っかっていた。さっきまで僕の上にいた人は、跡形もなく消えて、どこかへ消えた。
まるで最初からこの状況であるかのように、ごくごく自然にそうなった。
「お、重い……」
「ふぅ。間に合ったわい」
胸の辺りに跨るようにして乗っていたので、マントの隙間から然るべきものが見えてしまった。
一五歳にしては少しばかり大胆過ぎるランジェリーとさっきの叫び声、それからマントという容貌から察するに、知り合いは知り合いで合っているらしかった。
「サクラ?」
「そうじゃ」
視界を遮っていた金マントがばさりと捌けると、そこに現れたのは小さな王冠を被った友人だった。付け髭は無いようだけど、元々童顔で円いので、普通に似合っていた。
「見えてるよ」
「見せとるんじゃ。えろいじゃろ。……じゃ、なくてじゃ」
「うん」
サクラの表情が急に真剣になる。
あまり見ない表情ということもあるし、サクラだからというのもある。何か大変な出来事の予感がする。
「お主は、自分のした選択を後悔しない自信があるかの?」
「え?」
「もし、間違っている選択をしていたとしても、それを肯定できるか、と聞きたいのじゃ」
世界をやり直してしまった僕には、反省や後悔をする権利はない。仮に反省する機会を与えられるなら、きっと後悔するだろうけれど。
だから、答えは。
「しない、じゃなくて、できない……かな」
「そうか。お主らしい答えじゃのう」
サクラの笑顔は、僕の心を酷く安心させた。夢と現実の狭間を彷徨っているさなかに、正しい方向へと導いて貰える感じか。
それでいて、すぐにどこかへ行ってしまいそうな儚さもあった。
「ねぇ、サクラ」
「なんじゃ」
でも、そんな時は、僕が手を離さないから。
「大丈夫だよ。記憶戻しても」
「……気付いておったのか」
「何となく、ね。体、重かったから」
「それは悪かったのう」
「あ。違うんだ。僕は、ほら、女だから……ね」
「あー……それは、もっと悪かったのじゃ。すぐ降りるのじゃ」
サクラが降りると、確かに軽くはなったが、胸のあたりの痞えというか、上腹部の圧迫感というか、そういうものだけはやはり体に残存した。
よっこらせと息を吐いて僕の隣に正座したサクラは、僕の首の後ろ辺りに手を突っ込んで、上体を起こしてくれた。自分でもちゃんと起きれはするが、そうしてもらえるのは嬉しかった。おまけに手まで握ってくれて。
「やっぱりサクラって優しいね」
「じゃろ。好きになりそうか?」
「うん。なるかも」
「かも、か……」
「うん。かも、だね」
冗談ではないからこそ、サクラが寂しそうにしている意味がわかるような気がした。
それでもサクラは気丈で、どこか昔の自分を見ているようでもあった。
「それじゃ、仕方ないのう」
「ごめん……」
「いいのじゃ。ちゃんすはいっぱいあるからのう」
「そっか……」
そう。『チャンスはある』。
僕にだって、わたしにだって。
「もう大丈夫かの」
「大丈夫だよ」
「やつは一応、椅子に縛っとるが、時間の問題じゃ」
「わかってる」
何がどうなっているかはわからないけれど、自分がした選択とその結果は知っている。
だから、怖くない。
「あやつもそろそろ来てくれるはずじゃ」
「うん。ありがとうサクラ」
誰が嫌いとか、誰のための犠牲とか、何かを演じきれないとか、そんなことは全くの問題じゃなくて。その結果が間違っているとか、はたまた正解だとか、そういうのでもなくて。そんなのよりも前に。
「手、繋いだままでいい?」
「よいぞ」
僕が誰かを好きだということ。
それは確かに心にあったのだということ。
「じゃ、戻すのじゃ」
僕はわたしを好きだし、お姫様も好き。わたしは僕を好きだし、王子様だって憧れる。それでも、わたしはわたしを好きだし、僕は僕を好きだ。
ずっとそう選んできたではないか。
それを後悔するかしないか? 愚問だと、僕は思う。わたしは思う。
僕は――わたしは、果たしてそれを後悔できようか。
問われればきっと、わたしは笑って答えられる。
□■□■
「レイル会長……」
さっきまで僕が縛られていた椅子には、今度はレイル会長が縛られていた。
その光景を目にするまで、全くの時間経過を感じなかった。やはり、最初からそうであるように、自然に世界は繋がった。
先ほどまでと違う点はまだある。
登場人物が一人増えていること、それからボタンがすべて閉じられていること、そしてこれからもう一人、増えるということだ。
「くっ……。君がしていることは、僕だけじゃなくて、ルートさんの邪魔もしているんだ。それがわからないかな」
「わからんのじゃ。わしは授業サボっとるからのう」
今は、サクラの適当ぶりがとてつもなく頼もしく感じる。
離すまいと手を握れば、蒸れて滑りそうになる。かえって離れてしまいそうになるけれど、それでも握ったままでいたかった。握られていたかった。
「レイル会長、一つ聞いていいですか?」
「なんだい?」
レイル会長は平常心を装って、僕に微笑みかける。気丈に振舞う姿は、僕のようでわたしらしかった。本当の意味で、わたしたちは似ているのだと思う。
だから、この後どうなるのか何となくわかった。
「最後の、本心ですか……?」
僕がリズにかけた言葉とたまたま同じだったから、聞いてみたくなった。
わたしは大概狡猾だ。
レイル会長の言うような聡明ではないにせよ、狡猾ではある。同じことを意味するのだとレイル会長は言いそうであるが、自称か他称かという大きな違いがあると反論したい。
であれば、にこやかに微笑むレイル会長もまた、狡猾なのだろうけれど。
「本心、だよ。良い匂いがするって言ったのも、可愛いって言ったのも、全部。だから、君のすべてが欲しくなった。君を負かすだけじゃ、足りなくなった」
「そう、ですか」
それが僕かわたしかはわからないけれど、嬉しいとは思えなかった。
レイル会長の笑顔はただの仮面だからだ。
僕にはわかる。
僕も、それと同じものを持っているから。
「色々相談に乗ってくれてありがとうございました。レイル会長」
「もういいよ。僕も、嬉しくないから。確かに、これは仮面なのかもしれないけど、みんなにはちゃんと笑顔に見られるから」
「投げ槍じゃのう」
「察しの通り僕は狡猾で、君も狡猾だ。そういうところは似ていると思う。……どうだい? これで自称と他称の境界が無くなったよ」
そこの境界が無くなったとしても、同じことだ。
現に、僕はサクラに手を握られているのだから。わたしはサクラのことを好きだし、サクラはわたしを特別に思ってくれている。この意味合いは、レイル会長の言葉と大きく食い違う。
要は、方向は必ずしも一つではないということ。僕からかもしれないし、サクラからかもしれないし、その真ん中から双方向に伸びているかもしれない。
「理解に苦しむよ」
「いいんです。わかってもらえなくても。どうせわたしたちは間違うんですから」
「天才の君がそれを言ったら、僕には、存在価値なんて無くなるね」
「それなら、わたしが赦します。だから、僕も赦してください」
「無理だよ。もう。僕にできるのはせいぜい、君を滅茶苦茶にすることぐらい――」
□■□■
「なんだからさ」
その瞬間、体がふわっと浮遊する感覚に囚われた。しかし、それもほんの一瞬で、後からやって来た強烈な重力のようなものがすぐに僕の膝を折った。
気が付けばまた椅子に座らされていて、レイル会長はごくごく普通に立ち歩いていた。
先ほどまでと違う点を挙げるのならば、椅子が一つ増えていること、その椅子にサクラが縛られていることだろうか。
あともう一つあった。
ボタンがすべて外されていることも、だ。
「往生際が悪いのう。わしのまんとは外されとらんし」
「外して欲しいかい?」
「興味無いならいいわい」
この環境の変化に順応できてしまうのだから、レイル会長もきっと何らかの力を持っているのだろう。
不用意に刺激しない方が良いとは思うが、サクラの余裕ぶりは、明らかにそれを超越している気がする。すべてが想定内だと言うような、そんな。
隣にいて心強くもあり、恐ろしくもある。手の届くところにいるのに、届きそうもない。
そうか。手が離れてしまったのか。
「手、繋ぎたいかい?」
「そう、ですね」
「彼女はそうは思ってないみたいだけど」
言われてサクラの方を見てみれば、さっと視線を逸らされてしまう。
弁明をするように言葉を紡いだサクラの輪郭は、どこか寂しそうに縁取っていた。
「わしよりも、そうすべき人がおるからのう」
「そうかい。まぁ、いいさ……。君がどうやって僕の精神干渉を防いでいるかはわからないけど、厄介だね。何をしでかすかもわからないし。それに――」
「るーとよ」
急にサクラの声にフォーカスが当てられたように感じた。レイル会長が何か話しているのは、わかったけれど、そちらのピントが外されたようになった。
視線が、交わっているからだろうか。
「もう大丈夫じゃろ」
「うん。わかってるよ」
「わしは悔しいんじゃがな」
「そうかな。サクラは特別だもん。わからないかもよ」
「そうかの。そう言うなら安心じゃな。ぬはは!」
「はははは!」と笑い返す僕をきっと、レイル会長は見ていないのだろうけど、それはまた僕も同じで。僕は僕が笑顔でいることを見ることはできない。見ることができないから実感に欠ける。
でも、相手も笑ってくれたのならそれで、笑い返せたならそれで、幸せの方向は二つになるではないか。
「――だから、君にはこの部屋から消えてもらいたいな。今すぐに」
「そう言われると、逆にここにいたくなるのう」
突如として戻って来たその声に対しても、サクラはサクラらしさを貫く。レイル会長の思う一方向の幸せを感じた僕も、僕らしさというものを探す。
今見つけられなくとも、せめて誰かを思う心を忘れないように。
「それなら追い出すまでだ」
「魔法を使えるこのわしを、無力のお主がか? ぬはっ。それは笑い話なんじゃろか。それとも、そんな無謀な『願い』を叶えるような魔法が使えるとでも言うのかのぅ?」
「使えるともさ」
□■□■
ガラッ、という小気味のいい音が聞こえたと思えば、誰かがわたしの元へと駆け寄って来たようだ。
わたしはと言えば、どこかの床に寝そべっているらしく、足音がやけに頭に響いた。山積みの書類と若干の埃臭さから、この場所が生徒会室であることがわかってきた。
首筋に誰かの手の感触があったかと思うと、次の瞬間、わたしの視界は大きく変わる。
「もうバカ! バカお姉ちゃん! 探したじゃん! 本当に帰ったかと思った!」
「えっと……ごめんね?」
「ごめんじゃないよっ! 全くもう! 心配、したんだから……!」
上体を起こされたのち視界一杯に広がったのは、紛れもなく“あの時”と同じ涙の彼女。
わたしのための涙を、わたしはわたしの手で拭う。リズの胸に抱かれて、わたしはそれくらいしか返せなかった。
「ごめんリズ……」
「いいよもうっ。怒んないっ。だから謝んないで、バカ……」
「バカは酷いなぁ。ははは……」
「バカだもんだって。私から逃げ出すなんて、ホントにひどいよ。私は、相手がお姉ちゃんだからやろうと思ったのに……」
「あ、えっと、うん。ありがとう……」
戸惑う間もなく彼女の涙は流れて、ぽたぽたとわたしの頬に滴った。そして、わたしの涙とでも知らしめるようにゆっくりと、わたしの顎のラインを伝うのだ。そのくすぐったさはきっと、久しい呼び名で呼ばれたことに対する気恥ずかしさも兼ねている。
「いいよ。でも、どうしてこんなとこで寝てたの? どこか痛いの?」
どう言い訳しようにも、意識が少し朦朧としていて覚えていないのだから、説明し難い。
「大丈夫」ではないことは確かだからこそ、「大丈夫」と言うしかなかった。
「大丈夫なはずないでしょっ! すぐ嘘つくんだからっ。怒んないから、ホントのこと言って。ねぇ……。もう、いなくなったりするのイヤなの……」
それは、わたしも嫌だ。
できることなら離れたところにいたくないし、ずっと隣で見守っていたい。ずっと隣にいて欲しいし、どこかへ行ってしまうのも嫌だ。
それが、本当のことだ。
「ずっと考えてたんだ。リズのこと」
罪の懺悔と後悔の意味を、一人でずっと。
そうして出た答えは、リズの思う幸せとわたしの思う幸せを知るということだった。
沈黙という否定を繰り返して、漸く見つけた、たった一つの肯定だ。
涙を拭う罪滅ぼしと、わたしの隙間の埋め合わせをするリズの涙はきっと対等で、他の誰も代わることができない。
そういう意味では、わたしの配役は正しかったのだろう。
「いいんだよ、私のことなんか考えなくて! もっと……、もっと自分のことっ、考えてよ……っ。だから、お願いっ。ねぇ、お姉ちゃん……」
「うん……。そうする……」
「ホントにぃ?」
「ホントだよ」
「じゃあ証拠」
やり方は知っている気がする。
まずは、こちらから幸福を要求するのだ。
「劇の練習、したい……かも……」
「し、仕方ないなぁもう。じゃあお姉ちゃんは……」
「お姫様……」
その言葉を待っていたかのように、リズの表情がパッと明るくなる。
心底、安堵する。
「じゃあ私もおんなじのー」
「へ、変じゃないかな……」
「いいじゃん変だって! 王子様が女の子だって、お姫様が二人だって、いいんだよ。お姫様がお姫様を好きになっちゃいけないなんて、そっちの方がもっと変」
そうか。そんなに単純な事だったんだ。
結果やルールがどうであったとしても、誰かを思う気持ちには、誰にも違いなんてない。虐げられた召使いだろうと、悩み多き国王だろうと、一アカデミー生だろうと、気持ちは平等にある。
それを思えば、罪などすぐに溶かしてしまえる。
そうして今度は、『幸せ』の型を作っていけばいいのだ。そこへ流し込んだ時、罪の大きさの分だけ愛せる様に。
「ねぇ……。したいんでしょ……?」
わたしは頷くだけして、一足先に言葉を犠牲にした。おまけに視界も捨ててやった。
残された感覚は、待ち伏せる様に研ぎ澄まされて、それが少し卑しくもある。
「じゃあしょうがない」
案外、沈黙は早く訪れて、代わりにわたしたちに『幸せ』を置いていった。
リズの言葉も犠牲になって、聞こえるのはとうとう微かな鼻息だけになった。
「…………」
「…………」
わたしの犠牲はリズの犠牲を生んで、互いの罪は互いの温度でどろどろと溶けていった。混ざり合った湿潤の味は無味に近い仄かな甘さで、猛烈な速さをもってわたしの中に浸透していった。しかし決して苦渋しくなくて、むしろ温かくて柔らかい、包み込まれるような尊い息吹に思えた。
「…………んっにゃ、にゃがい!」
僕の世界は、変わった。
「そ、それはっ。リズだって……!」
わたしの世界も、変わった。
「んまぁそうかも、あははっ。で、どうだったー?」
今まで固定されてきた二人の世界が、変わった。
「い、言わないから……っ」
そして、わたしは『幸せ』になった。
「それずるーい。私は気持ち良かったよ……? ねっ、お姉ちゃん?」
「は、恥ずかしい……やめてっ」
「あっははは! 冗談冗談! 嘘じゃないけど冗談だよー。本番も、そんな感じでよろしくね」
「えっ、あっ、そうか……」
「大丈夫。私がお姫様だって王子様だって、お話の主人公はお姉ちゃんなんだからさ」
遅いか早いかわからないけれど、今日僕は、生きていたいと思った。
わたしは、生きていると実感した。
「リズがそう言うなら、頑張ってみるね」
それだけは確かな事なのだと、わかった。
「わたし――」
【あとがき】
次回、三章の最終話になります。
ルートたちが作り上げる物語の結末を、是非ご覧になってください。




