Loote Moth Stomach
【まえがき】
お待たせいたしました。
三章ラストです。
ゆっくりと、でも着実に進んでいく時間をお楽しみいただければ。
「でも本当にいいの? 僕、女だよ?」
「いいよ」
きっちり妹と手を繋いでおいて何を言っているんだと、自分に喝を入れたい。出番間近の舞台裏という逼迫した状況において、僕という存在はあまりに頼りが無さすぎる。舞台裏の中でも、最も舞台に近い位置に値する舞台袖の階段の一番上にいることも相俟ってか、足ががくがくと震える。
こういう時ばかりは、本当に自分の度胸の無さを恨む。
「姉だよ?」
「今更じゃん。いいの。決めたんだから。みんなもいいって言ってたもん」
それは姉妹だからいいだろうと言う意味だ。
邪心丸出しの僕では、そこらの純情な男子よりもダーティだと思うのだが。しかし、認められるのなら、進んで譲ろうとは思わないけれど。
「リズはいいの?」
「いいよ。衣装が一つしかないんだから仕方ない」
勿論、リズは王子様姿も軽々着こなしてみせた。愛くるしいラインを描く顔の輪郭も、若干の化粧で細めれば、凛とした面持ちを成した。
そういう僕は――
「ふふふっ。かわいいね。やっぱりドレスも似合うよ」
「も、もう。やめてよ……っ」
すっかりお姫様気分でいた。
鏡を見たわけではないけれど、クラス中からお世辞を言われて舞い上がっていたのだ。この調子では、任された数少ないセリフすら噛み噛みになりそうである。
少ないとは言え、それらが物語をまとめあげるセリフであるわけだから、無下にできるはずはない。
度々ある主人公の登場シーンは、サクラが何とか凌いでくれたようだった。一度だけ挟まれる王子様の葛藤シーンも、どこかの男子生徒が代わりをしてくれたらしかった。
僕とリズが不在の間も劇は当然のように続いていて、確りと辻褄が合うように物語は進んでいたのだ。
そして今も、刻一刻と僕たちの出番は差し迫っているわけで。
「あ。アリスお姉ちゃんとノアさん戻って来た」
確か、場内に潜入した主人公を貶める算段を打ち合わせるシーンだった。
「二人ともお疲れさまー」
「うん。おつかれさま……」
「ええ。疲れたわ。もうこんな面倒ごとはごめんだわ」
それはきっと僕の配役のことだろうと、アリスの眼力がそう伝えて来るようでかなり痛い。
勿論、それだけのことではないとわかっている。そのせいで、アリスともノアとも視線を合わせられそうもない。
そんなしょうもないプライドは、アリスに簡単に見抜かれてしまう。
「あら? そっちの方はどちら様かしら」
僕がこんな格好をしていたら、笑われてしまっても仕方がない。本当は、クラスのみんなだってそうしたい気分のはずなのだ。
台本だけ放っておいて、「あとは頼みました」なんて、虫が良いにもほどがあるというもの。主役という重要な担当を背負っておきながら、果てはドタキャン。そのくせ、最後には別の役をやりたいと言い出して、花形を奪い去る。
どれだけ酷い事をしているか、おかしなことをしているか、僕の思っている以上にそれは最悪の最悪で下の下なのだろう。
でも、僕は決めたのだから。アリスはそのチャンスを、僕にくれたのだ。
だから、許しを請うしかない。赦されないとわかっても、何か変えられるということを信じて。僕を信じてくれる人を、信じて。
「ごめんなさいっ!!」
僕は立ち上がり、そして思い切り床を見た。
一瞬、くらっときて足元がふらついたが、倒れまいと堪えた。こうしたままでいれば僕の謝罪の念も幾らか伝わるだろうとは思ったけれど、それよりも皆の顔を見なければと思った。
床を見るのと同じくらいの勢いで、また顔を上げた。
目の前にはアリスとノアがいて、少し首を曲げればクラスメイトたちもいた。舞台裏は真っ暗に近くて、全員がいることは定かではない。しかし、用意された小照明がちょうど僕だけをスポットのように照らしてくれた。
そのおかげで、僕はまた言葉を紡げるのだ。
「全然練習に参加しなくて……っ。逃げてばっかで……っ」
劇の邪魔をしないよう、でも少なくともここにいる皆には聞こえるよう、限界まで声を平たく潰した。息が詰まるくらいに、お腹に力を入れて。
しかし、反応は無かった。そのうえ暗闇だから、皆の表情の軽微な変化まで感じ取ることもできない。本番中だから、がやになることも無い。本当に無だった。
仕方がないと思った。
割り切った僕はしゃがんで、また前を――表舞台を見据えた。決して諦めたわけではなく、今自分にできる最善の選択をしようと、そう思ったのだ。
何せ僕には、信じてくれる人がいるのだから。
終始手を握ってくれていたリズは、優しく柔らかい笑顔で頷いて、もう一度手を結び直してくれた。僕も呼応するように握り返して、最後のシーンに備えた。
やがて、王子様と召使いの脱出劇が始まる。
このシーンは、城に行くまでの間に出会った町民たちが召使いを助けてくれるという盛り上げの場面だ。召使いの厚意が初めて認められて、それがたくさんの人を動かす瞬間なのだ。罪だと思っていたすべてが、そこですべて昇華されて善意に変わっていくという重要な意味もある。
まさに、僕とリズが積み重ねてきたそれと構図が同じだ。
「さぁて。そろそろ出番か」「そうだな。行ってくっか」「まぁすぐ終わるんだけどなー」「それなー」
「声裏返ったりしてー」「ありそうありそう!」「あー、あー。大丈夫かな」「まあ大丈夫っしょー。何とかなる」
鍬やら鎌やら、町民の武器と思しきものを手に、ふと皆が立ち上がった。
そして、袖口に座る僕たちの横を通り過ぎ、舞台へと――
「大丈夫だって。全然怒ってないからさ」
「えっ」
「そうだよ。ルートさん。だから安心していいからね」
「あ……」
「変にプレッシャーをかけてた私たちの方がむしろダメだよね」
「違っ」
「じゃあ、俺らが盛り上げてくっから。最後、バッチリ頼むぜー。お姫様!」
「ちょっ。あの、えっと……」
僕の横を通過したのは、一町民などでは決してなく、れっきとしたクラスメイトそのものだった。
言葉を貰うたびに、肩をポンと叩かれるたびに、僕は決壊しそうになる涙の池を必死でガードしなければならなかった。
「よかったね。でも、泣いちゃダメだからね」
「うん……っ」
頷けなかった僕は、また、声を殺して言った。
「本番まで取っておかないと」
「うん。我慢するよ」
人の気配は舞台上へと移って行って、僕たちはすっかり暗所に取り残された。
でも、アリスもノアもいるし、リズもいる。
「……あーあ。べたべたべたべたと……。これだからバカップルは嫌ねぇ。背中が痒くなってくるわ。ノア、出番まで二十分そこらあるし、どこか別の場所で休憩しましょ」
「する……」
居づらくなったのか、アリスが仰々しいセリフを吐いて立ち上がった。ノアも追うように立ち上がると、僕とリズの方を一瞥してから、ぴたっとアリスの腕に絡まった。
もしかすれば、言わなくてもアリスには筒抜けなのかもしれないが、それでも僕には言わなければいけないことがある。
僕はまた、立ち上がる。
「アリ――」
「おぉ。ありすにのあか。出番終わりかの?」
「なんで僕、じゃなくて俺は、見知らぬ人にご飯をご馳走しているんだ……」
タイミング悪く登場したのは、王様の格好をした友達とタキシードのような正装に身を包んだ見知らぬ男子生徒だった。タイミングの悪さはアリスも感じたようで、目を細めたくなるような舌打ちを聞かせてくれた。
「なんじゃ。怒っとるのか? 失敗でもしたか。それなら、ほれ。このたこ焼きでも食って元気を出すのじゃ。校庭の端のところの屋台のは、なかなかうまいんじゃぞ」
「いらないわ。大人しく一人で食べてなさい。というかあんた、色々買い過ぎよ」
差し出されたタコヤキを拒んだアリスは、男子生徒の腕いっぱいに掛かった袋を指差して毒づいた。
「このやつが買ってくれるというからのう」
「お腹空いてるって言うから……。一つくらいならと思って……。でもまさか、本当に全部回るとは……」
「サクラがアホなのはよくわかってるけど、買ってあげるあんたもあんたね。嫌なら途中で逃げればよかったじゃない。こんなポンコツなら、いつでもできたでしょうに」
アリスの言葉は、魔女よろしく言霊が込められていて、誰に対しても鋭利だった。
一方、男子生徒の方は対照的で、なんの悪気も後悔もなさそうに頬を掻くだけだった。
「はははは……。美味しそうに食べてくれるので、つい……」
「ぬっはっはっは! 聞いたかありすよ! こやつの方がポンコツじゃ! ぬははははっ!」
「ささ、さすがに、それはっ、失礼だよぅサクラー……」
「ああーっ、いいんだいいんだ。僕、じゃなくて俺は。お腹が減ってお姫様が機嫌を悪くするのも嫌だったしさ? ははははっ」
「お主はいいやつじゃのー! ぬっはっははは!」
「はぁ……。なんなのよこの茶番。ノア、もう行きましょ」
「う、うん」
楽しそうにしている四人に割って入るような性分ではないが、そんなこと、気にしていられなかった。
極めてアリスに向かって、僕は潰した声を張る。
「ありがとう」
一瞬、立ち止まったと思ったけれど、振り向いたのはノアとサクラだけだった。
それでも、伝えたいことが伝わったという確信は、そこはかとなくあったと思う。
僕の声に気付いたサクラと付き人のような男子生徒が、てくてくと足軽に近づいてきた。サクラは、まじまじと僕たちを見下げて最後、繋いでいた手を一瞥してからニンマリとした表情になった。
僕は平常心を装って、熱くなってゆく顔を小照明のせいだと責任転嫁する気持ちで、それに応えようと思った。
「サクラもありがとう。迷惑かけてごめん」
「ふふっ。わしはいいんじゃよ。ちゃんすはあるって、お主に言ってもらえたからのう」
「チャンス?」
「こっちの話じゃ。それよりも、このやつにも礼を言わんとじゃぞ」
大股で一歩横にずれると、サクラは男子生徒の背中を押して、僕の目の前に突き出してきた。見知らぬ人というのもあって、気持ち的に少し身構えはしたが、サクラと仲良くなっていることと、ふわりと漂ってきた屋台料理の芳香のおかげで、それはかなり軽減されたと思う。
「え、えっと」
僕としてのファーストインプレッションは端的に、優しそうだった。
かえって特徴付けをさせないような整った顔立ちと、柔らかくも芯のある声色。それでいて線の深い輪郭は、他と一線を画す雰囲気、言わば『モテるオーラ』のような何かの存在感をひしひしと感じさせる。
僕が言ってしまうのは、今はあまりよくないことなのかもしれないが、それこそ“本当の王子様”のような出で立ちではあった。
「アレンだよ」
「え?」
「こいつの名前」
「リズ、知ってるの?」
リズから『こいつ』なんて呼ばれ方をされたら、僕は絶対に部屋に引き籠ってしまうだろうと思うけれど、アレンと呼ばれた男子生徒はそんなこともないらしかった。
「んーん。知ーらない」
「なっ、酷いよリズー。同じクラスじゃないかー」
「あ。そうなんだ。僕はルート。リズの――」
「いいよー! こんなやつに自己紹介なんかしなくてー!」
「ルート、さん……」
「ほらぁ。覚えちゃったじゃん!」
「まあまあ。減りはしないから」
僕のことを『ルー』と呼んでくれるのも、『お姉ちゃん』と呼んでくれるのも、ずっとリズだけだったから、そこは不安になったりしなかった。リズは頬を膨らませて、大変に不満そうであったが。
でも、それにしても、リズにもちゃんと、こういう優しい友達がいて安心した。その感情は結構強いと思う。
「えっと。アレン君?」
「…………」
「アレン君? どうかした? 僕の顔に何かついてる?」
「い、いえっ! えっと、何でしょう」
「あ、うん。アレン君は、一人で文化祭に来たのかな?」
こういう質問をすると、先輩になったような気分に浸れる気がする。
少し新鮮だ。
「い、いえっ。リズと二人でデ――」
「嘘つくなっ! 仮にそうだとしても、私はアリスお姉ちゃんを見に来たんだから。あんただって、なんか、誰か探しに来たんじゃ、なかったっけ……? あれ? 違うっけ?」
学校が同じだった頃、何度か先輩後輩の絡みを目撃することはあったが、大概は女子どうしだったので、こういうリズは珍しく感じる。
本当に物怖じしないんだなと、少し複雑である。
「僕、じゃなくて、俺の姉さんのことだね。リズが見たいって言うから、僕……じゃなくて俺が、連れてきてあげたんじゃないか!」
「だっけか。ていうか、あんたにお姉さんなんかいたんだ。初耳」
「えっ。ちょっと、もう。リズが気になるって言ったんじゃないかー!」
「まぁ、あれんよ。そうぷりぷりするでない」
「あ、うん、まあそっか。男っぽい恰好してるリズも見れたし、良かったかな」
「見んなっ!」
舞台裏は平和そのものだった。
しかし、表舞台はそうもいかないのが、僕の物語だ。
「逃げた王子を探せっ!! 邪魔者は殺して構わん!!」
城に潜入した召使いが、王子様を連れ出すシーン。王子様は召使いに惹かれて、閉ざした心を徐々に開いていく。召使いは王子様の人柄を知って、城から救い出そうと心を決める。道中に人助けをした召使いの思いに応えるように、城下町では対国王の狼煙が上げられ、二人の逃亡の助長をする。
そういう展開が待っている。待っているはずだ。
いや、僕にはもう、この先のストーリーはわからない。きっと、誰にもわかり得ない。
でも、僕はこの先へ進むのだ。
「ほれ。そろそろじゃろ」
「頑張って。二人とも」
僕は僕であり、“僕”でもある。わたしはわたしであり、“わたし”でもある。僕も、“僕”も、わたしも、“わたしも”、誰しも、物語を進めることができるのだから。
「いたぞっ!! 追えっ!! 侵入者も一緒だっ!!」
わたしはリズとアイコンタクトをとって頷いて、それから同時に立ち上がった。
わたしが身に纏ったドレスは、あまりに白く長く、そして温かかった。それは王子様が、布一枚ではみすぼらしいからと、わたしに着せてくれたものだからだ。
「それじゃ、行こっか。お姫様」
「うん」
わたしはリズの手を引いて、もう片方の手でドレスを撮んで、世界へと駆け出した。
初めはゆっくり。でも、中ごろにはスピードに乗って。わたしは、洗われるような心情とともに、確りと静かに大地を蹴った。
△▲△▲
「ここまで来れば大丈夫でしょうか」
僕は木陰にしゃがんで王子様に言う。
「そうだね。暫くはこの影にいよう」
王子様はそう言って、わたしの体を自分の方へと抱き寄せた。
「もう半日はこうしていますね」
僕は、少しどきりとしながら、王子様に問いかける。
「本当にすまない。限界になったら、私のことなど放って逃げてくれよ」
ぶっきらぼうに口を動かす様は、どこか寂しそうにわたしを求めているようで。
「絶対に嫌です! あなたが『一緒に逃げよう』と言ってくれたのだから。一緒に、なんて初めて言われたから……」
だから僕もまた、あなたを求めているのだと、伝えたかった。
あなたは微笑んで、わたしの手の甲にキスをくれた。
「ありがとう。君のような人に、もっと早く出会いたかった」
そんなことを言い添えられると、死期を悟っているようで不吉に思えた。
「そんな、これから死ぬみたいなこと……」
わたしが言うやいなや、王子様は徐に懐から赤い球体と指輪のようなものを取り出した。
その球体は確か、暗闇の樹林で出会った魔女に貰ったもので、初めて王子様に会った時に手渡していたものだった。指輪の方は、城から脱出する際に王子様が持ってきたものだったか。
王子様はわたしを一瞥してから、遠いところを見るような瞳で言った。
「城へ侵入したのは、私が協力を煽った怪盗。私は城からの脱出を試みるも、道中で裏切りに会い、殺害される。怪盗は初めから金が目当てで、私は利用されただけ」
「え……?」
「君を自由にしてあげたい」
わたしが首を傾げると、王子様はまた、安らかに微笑むのだった。
わたしは、早く林檎を森へ投げ捨てなければいけないと気付いた。
その笑顔は、いつしかのわたしと同じで、絶望に染まっていたから。
「ま、待って! ダメっ!」
僕が手を伸ばした時にはすでに遅く、黒ローブの意志は果たされることとなる。
林檎は地面に転がり、それを折っていたはずの僕の手は、今は王子様の背中を支えている。
「どうして……っ!? どうして、こんな……っ。あああ……っ!」
わたしの中には、悲しさよりも先に怒りが芽生えていた。
どうして、その林檎が毒林檎だと知りながら口にしたのか。どうして、それでわたしが自由になれようものなのか。そしてどうして、一緒にいてはくれないのか。
そんな疑念が、憤怒と区別がつかなくなるほどに溢れ、後出した悲哀の念にくどくどと絡みつていった。
「怪盗は、処刑される……ことになっていた罪人の……はぁはぁ。……罪状を、『王子誘拐の主犯』に書き換えておいたんだ……。これで……私がいなく、なれば……君は、どこへでもゆける……はずだ……」
頼りがいのあったあなたの肩は、こんなにも弱々しく上下して、わたしを大層不安にさせる。
冗談であるなら、またわたしの手を取って、ここから連れ出して。
「嫌っ。やだっ! どうしてっ!? 一緒にって、約束したじゃない!! いなくならないでよっ!」
唐突に、視界が歪んだ。
そして世界は拉げていって、僕を圧し潰そうとした。
こんなこと、生まれて初めてだった。
怖い。
怖くて、怖くて、どうしようもない。もっと、あなたの息吹を感じたい。わたしの息吹を感じて欲しい。あなたが死ぬのが、どうしようもなく嫌だ。生きていて欲しい。一緒に、生きていたい。
僕はそんな感情の洪水の中、必死であなたの手を、体を探した。
「私はどこにも、はぁはぁ……いかないよ……。ああ……、君はどこにいるんだい……。いたら、手を……、手を握っては……、くれないか………?」
あなたの手は、わたしを探していた。その瞳にはもう、何も映らないのかもしれないけれど、わたしはあなたの手をとって、潤む世界に繋ぎ止めようと強く握った。
「ここですっ! ずっと一緒にいます……っ。だから……!!」
自分の指の関節が外れるのではというほど握った。過去の懲罰が想起されたけれど、そんな痛みは今、とても些細な事だった。
肉体よりも、心から悲鳴が聞こえるのだ。
骨と血肉が乖離してしまいそうになるほど粗の無い白さで、魂との結合を一気に剥がしてしまうような感覚。自分の中にある“無”の部分が、自分のすべてを染め上げていく感覚。
追いかけても追いかけても追いつかない、絶対の拒絶。
それはただ漠然と、僕の前に。
「…………」
それが今度はどうしようも無く痛くて。耐えられなくて。
わたしは泣いた。
「うわぁぁぁああぁぁぁ――っ!!」
多分、この森は知っているのだと思う。
僕が屋敷を飛び出してきた時に、僕が教えたから。
あなたの胸で泣いたら、案の定何も聞こえなかった。でも、愛した温もりはまだ生きていて、わたしはそれをかき集めるように、ただただ強く体を揺さぶり抱いた。
静かだった。
聞こえたのはせいぜい、木々が戦ぎ、息吹く声。
でも、もう一度だけ決断できる力を、暗闇の樹海が与えてくれた気がした。
「一緒じゃなかったら……っ! どこに逃げたって、意味が……無いんですっ!!」
いや、これは違うか。
あの時僕の投げかけた問いかけに、今、答えをくれたのだ。
――犠牲は、犠牲しか生まないということ。
あなたの言葉を奪ったのがわたしなら、わたしはあなたに言葉を奪われる。そうすれば、それは幸せに変遷して、果ては無へと帰す。森に存在する自然淘汰の摂理と、同じこと。
そうやって、世界は差し引きゼロに成り立っている。
「だから……」
わたしは物言わぬあなたと、口づけをした。
これで、わたしもあなたも言葉を失った。
――幸せだった。
手を繋ぐ、傍にいる、抱きしめる。そして、口づけをする。
それはお互いの選択が、ちょうど重なる時。
犠牲は犠牲を生むけれど、互いが互いを思っていれば、きっとそこには幸せが生まれるのだ。それが循環することで、世界は幸せで一杯になる。
それが、僕の出した結論なのだと思う。
「君は幸せかい?」
「はい……っ! 幸せ、ですっ!」
そしてわたしの小さな世界は、終わりを告げた。
▲△▲△
ただの召使いである僕が、お姫様になるということ。
そんなことは、天と地がひっくり返らなければ有り得ないけれど。諦めずに、一途に、只管に誰かを信じ積み重ねることで、天と地はひっくり返せることだってある。
それはまやかしかもしれないし、最後には逆に何かを失ってしまうかもしれない。
目に見える犠牲は、恐怖として心を蝕む。立ち向かわないことが正しいとさえ思えてしまうような、強大な力積がある。実際、流れにのれば間違う事はない。
でも、生まれた時から、僕は召使いだった。
それはもう、そういうものなのだとして胸に、心に刻みつけられた。
だから、いざ立ち向かうことを強要された時、苦しかった。見なければよかったことを目の当たりにしたような、どうしようもない絶望感に、儚い感情が埋没した。
間違ったことをやっている自分が、とてつもなく惨めに思えてきて、また逃げようと思った。そうする方が確実に楽だから。
案の定、それは楽だった。
夢を見ることもなく、ただ床の凹凸を覚える。不思議と、窓は絵画の一つに見えてくる。課せられる体罰は、自分を清めるための儀式になる。
そうしているうちに、楽は体に染み付いた。
この世にあるすべてが楽であればいいな、とも思った。
ふと気づいた瞬間だった。
――それって幸せかな。
ただ漠然とした、“楽”という作業があるだけの世界。すべてが絵画と変わらなくて、色にも配役にも意味がある――その意味がすべて。
その中には、偽りしかないということ。
絵本の中では、“普通”王子様はお姫様にキスをするものだ。それが当たり前で、誰しもが理解する事実。
でも、僕は知った。
それは幸せの手段であって、幸せそのものではないと。僕にだって、間違っていたって、幸せを感じることができるのだと。
確かに、王子様はお姫様になることはできないし、お姫様は王子様になったりしない。願う役割になれないことだって、あるのだ。言い換えれば、そこに幸せの犠牲があるのだから、きっと償うこともできるということ。
そういう、想いの力が存在する。
だから僕は、僕であり、わたしでもある。
そしてあなたは、あなたたり得る。
お姫様に憧れる二人の少女が、互いの罪を認めて赦して。過去の涙を思い出して、笑い合えるくらいに言葉を交わして。
そうして漸く、この物語は幕を閉じることができる。
次に言葉を紡ぐなら。せめて、罪滅ぼしの懺悔でなく。
「好きだよ」
密かにそう言って、もう一度だけお姫様を抱きしめた。
今日は、僕の誕生日だから。
【あとがき】
本作に隠されたトリック「ルートの性別」が、解決した今章。
いかがでしたでしょうか?
ルートとリズだけでなく、周囲でそれをみていた人たちも、きっと成長できたと思います。吹っ切れた、というよりか受け入れた感の強い決意ですが、まだ不安定な部分もあると思います。
書き始めは第一章だけで終わろうという短い話の予定でしたが、どうやらもう少し続けていけそうです。とある夜にパッと思いついただけなのに、すごい。
実はトリックはもう一つあります。
ルートモストマックは、常にそこへ向かって進んでいます。
ルートの性別と同じように、伏線はすでにたくさん書いております。
心理学者クリエーターである私のもてるすべての知啓でもって、それは成っています。
読者の皆さんの興味が冷めないよう、シナプスを刺激できればなと思ったり思わなかったり。
次章のころにはきっと、夏も明けて秋。
芸術、運動、食事、恋愛……色々なものが盛んです。
「贖罪の今章」……。これまでも結構重い話が多かったので、次章はちょっと羽休めでもできればと。
それでは三章お疲れさまでした。
次回をお楽しみに。




