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〖right〗Who's "Stomach"?

【まえがき】

 “身も心も砕けてしまうよう”

 


 掃除、掃除、掃除、また掃除。終わったかと思えば、掃除。これよりも前にしていたことを思い出せない。それすらももはや、掃除な気がしてくる。

 それが、紛れもない私の人生だった。

 何度やってもダメ出しをされる私の掃除と違って、そればかりは絶対であった。

 今日もまた掃除か、という言葉には語弊がある。

 私の中には、今日も明日も昨日も無いからだ。掃除が私の過去であり、未来であるから、時系列という概念は必然的に価値を失う。簡単に言えば、年を数えるだけ無駄だと言う事。

 それは当然のこと。

 私の誕生日を知っている人物も、それを祝ってくれる人物も、もうこの世にはいないからだ。私の誕生日には、私は掃除をするのだ。私が生きていることに、私は感謝をして、私は私のために、床を磨くことに精を尽くす。

 だから、きっと私はもう、やめろと言われてもやめられない。

 やめる理由など、この屋敷へ来てから一度も考えたことがない。そういう概念は私の中にあるのに、どうしてやめなければいけないのか全く分からない。嫌なはずなのに、やめることができない。

 そういうわけで、私の手は、日照る夏で痙攣(けいれん)しようと、凍える冬で(かじか)もうとも、休まない。

 布切れ一枚身に纏って、私は床を磨いて汚すしかない。


 ――休んだら、私の人生は終わってしまうから。


「それじゃあ、(わたくし)たちは城へ行ってくるわね」

「しっかり綺麗にしておくんだぞ。屋敷中、くまなくだ。もし汚れが残っていたら……どうなるか、わかるだろう?」

 私は頷く。

「そうよねぇ。当然よ。それじゃあ行きましょ」

「ああ。そうするか」

 私をおいて屋敷を出ていくのは、この屋敷の主人夫妻だ。

 私は発言と拒否の許可を貰っていないので、基本的には都合の良いように頷くことしかできない。言葉を失っているわけではないけれど、最近は、発音の仕方がたまに怪しくなる。

 だから、こうして二人が外出するタイミングで、言葉の練習をする。ただ一つの救いは、手を動かしながらでも、言葉は操れると言う事。

「お、しろ……」

 二人の言っていた、城というのはおそらく、街外れにあると言う古城のことだろう。二人の話を立ち聞いてしまった限りでは、何でも、お金という価値のある何かをたくさん所有している人物が住んでいるらしい。

 あの二人と似たような人物なのだろうと、勝手に想像が膨らむ。

 自然、悪いイメージしか浮かんでこない。

 私とて、痛いとか苦しいとかは理解(わか)る。

 主人の方が言っていた、「掃除ができていなかったら処罰を与える」というのは建前で、「処罰を与えるから掃除をしなければならない」というのが実情なのだ。

 裸にされるのはとっくに慣れたが、平手は応える。色々なところを抓られるのも痛いし、何よりも縛られるのが嫌だった。唯一の自由である身動きさえ封じられてしまうのが、堪らなく苦痛になる。

 本当の自由など知らぬ身なはずなのに、皮肉なものだ。



 そうして一日が過ぎるのを、ただただ待った。



 二人がいない時は大概、付き人たちも一緒にいなくなる。

 恰幅の良い料理人やら髭を伸ばした執事、白と黒のメイド服を着た本物のメイドなど、それは複数いた。

 だから、二人が不在の間は、私は何も口にすることができないということになる。例え主人方の食べ零しだろうと、端材やメイドのまかないの残飯であろうとも、それは私の食糧であったから。

 加えて、お仕置き以外で家の外に出ることを許されない私は、雑草を食べて空腹を満たしたり庭の池の水を飲んで喉を潤したりすることも不可能だ。無論、屋敷の中にあるものには触れることすら叶わない。私が触れていいものは、身に付けている薄い布切れと床を拭く雑巾、それから壁や床だけだった。

 主人が出かけることは過去に何度かあったが、回数や頻度までは覚えていない。ただ、夏に小旅行へ行ってしまった時のことは、脱水症状に陥ったことが印象深くて、鮮明に記憶している。

 あの時は、体に力が入らなくて廊下で往生してしまったのだった。その後、奥様に悲鳴を上げられて、幸か不幸か主人に庭の池に放られたのだ。陸に上がってすぐ水を吐いてしまったが、それはそれは潤った。目から溢れるくらいには。

 それさえなければ、二人が外出する瞬間という事変は、息を抜くことができる好機になったかもしれない。



 いつの間にか、また一日が過ぎていた。



     □■□■



 楽しいを、楽しいのままでいられることが――夢が、夢のまま続いていくことが、どれだけ幸せか、考えたことも無かった。

 そして、周囲から笑顔が消えた時、わたしの居場所が無くなるなんてことも、考えることは無かった。

 勝利を手にしたわたしは、栄光すらものにして、ただただ立ち尽くす。

「全国大会優勝だ! やったな! やったな……」

「よかったじゃないか! MVPだなんて! 父さんは嬉しいぞ!」

 それで喜ぶことは、結果として敗北者を嘲ることと同義なのかもしれない。自分の持てるすべてを賭けてぶつかって来た、あの子を笑うことと。

 わたしが手にした勝利はつまり敗北を生むことで、相手が泣くことはつまり自分たちの笑顔を生むことなのだ。笑顔にも代償が必要なのだ。

 試合中は「楽しい」だけで、自分は笑顔であるはずだし、恐れられることはあってもそれが誰かを泣かせることはない。それなのに試合が終わった途端、ゴールを相手よりも多く決めた途端、手に入れた得点と栄光の分だけ、誰かが涙を流す。

 当たり前のことだ。

 当たり前のことなのに。

 わたしはそれを、受け入れられそうもない。



     □■□■



 二日が過ぎた夜、私は不審に思った。あるいは、心を決めた。

 このままでは確実に餓死してしまうということは、頭よりも体がわかっているようで。雑巾を持つ手に力が入らないし、足の裏の感覚が鈍い。目は乾くし、なんだか無性に眠い。

 そう言えば、(ひぐらし)が夕方一頻り喚いていた。

 気付かぬうちに汗をかいているだろうし、すでに空腹であることは明白だ。ということは、水分も養分も足りていない。日頃から腹が膨れるほど食しているならまだしも、未だに「食べた」と実感できるほど物を口にしたことすらない私にとって、これは由々しき事態。

 満たされていると言う感覚はないものの、不可思議な事に苦しくはなかったが。

 以前、死ぬ前は一層楽になれると言う話を、主人からお仕置されている時に聞いたが、あれは本当なのかもしれない。

 今ならわかる。

 あの二人は「屋敷が汚いままだ」と嘘を言っていて、私はそれに騙され続けていたということが。確かに私は汚いのかもしれないが、屋敷は綺麗なのだ。綺麗なものをいくら綺麗にしたところで、結果は同じ。

 私はずっと、無意味な事を続けていたのだ。

 掃除をすることだけが私の生きている意味なのだと、勝手に決めつけていたのは、他でもない私なのだ。生きることは苦しいことだから、それは仕方のないことなのだと目を瞑っていた私の罪。

 ご主人様たちは、そのことに気づかせるために私を痛めつけ、辱め、そして今日突き放したのかもしれない。すべては私のために。

 思えば、あの二人が私を拾った本当の理由はなんなのだろう。

 私の親は、私が物心つく前に死んだことは聞かされて知っている。吹けば飛ぶような下の下の下ほどの百姓だったらしい。

 そんなゴミのような存在をわざわざ拾って育てるなど、相当な偏屈か、それこそ何かの理由があるとしか考えられないのだ。放っておけば、(じき)、私はのたれ死んだだろうし、それで誰かが咎められることも無かっただろうに。

 だが、もし仮に、誰かが咎められることがあるとするなら。

 例えば、この屋敷の主人が私の親を殺した場合。

「…………」

 怒りも悲しみも、私にはもはや何もない。

 第一に、私は親の顔を知らないし、この屋敷の外に出たことが無いから、この屋敷で必要な無感情だけ持っていれば生きていける。否、生きていけ()

 何にせよ、私は生きているのだ。(よわい)、十五を数える程に、生かされていたのだ。

 酷い仕打ちを受けてきたと言えば、それまでだ。私の人生は、それで終わる。

 しかし、私は生きていたし、生きている。

 これはもしかしたら、神が私にくれた、チャンスなのかもしれない。

 決めていいはずの無い生存価値を勝手に決めた罪を、償うための。

 そして、二人の犯した罪を、裁くための。

「…………っ!」

 私は、ここにいてはいけない。このまま命を終わらせてはいけない。歩かなければ、走らなければいけない。見なければいけない。聞かなければいけない。知らなければいけない。伝えなければいけない。

 何も知らないから。

 玄関の扉がこんなにも重いことを、知らなかった。拝借した夫人のローファーがぴったりのサイズになっていたと、知らなかった。外は屋敷の中よりも幾分か涼しいのだと、知らなかった。それでも太陽は等しく私を灼くのだと、知らなかった。

 何も知らなかった。けれど、知った。知らなければ、生きてはゆけないから。

 そうだ。生きていくのだ。生きなければいけないのだ。この世界で、私は。

 こうして私は、屋敷の外へ。深い深い、闇の樹林へと進んでゆく。

 立ち止まれば私は死ぬ。

 故に走れ。


 今度は、生きることが私の生きる意味。



     □■□■



「楽しい」が続くこと。

 それはまさに、わたしが願っていたことだった。

 父と母は、「新しい」をわたしにくれたが、それらはすぐに「新しかった」に変わった。

 初めはわからないことだらけで、それを紐解いていくのが、楽しくて。程度の差はあれど、その謎は一段階二段階と、常に幾つか存在する。それが多ければ多いほど「新しい」は続いて、結果として「楽しい」ことになる。

 元々運動が好きだったから、運動系の競技を筆頭に、手芸だったりとか料理だったりとか、絵画も習ってみたりした。与えられたものだけではなくて、自分でも、興味を持ったことについてはとことん調べたし、詳しい人に聞いたりもした。

 本当に色々なものを教えてもらったと思う。

 それでもやはり、しっくりくるものは無かった。

 ずっと続けてきた登山と、それに付随している天体観測は、もはや日常の一部だと言っても過言ではない。楽しくないことはないけれど、自分の心に強く響くかと言ったら、それもまた違った。

 そんな中出会うのがサッカーだと言うのだから、私は少しばかり〈可笑しいな〉と思った。そして、同時に〈運命なのだな〉とも皮肉った。

 自分の興味が、いわゆる“普通”のそれではないことには薄々気付いていたが、ここまで来て何かに当たるとは思いもしない。

 でも、そこからは早かった。

 自と他との差を埋めるのは、わたしの持つ才能だった。見渡せば、そこかしこに「新しい」が落っこちていて、わたしはそれを見つけて自分のものにするだけでよかった。結果として、それは「楽しい」わけだし、何よりも周りの人が喜んでくれた。

 そうやって、落ちているものを拾って繋げて切り捨てていたら、いつの間にか一番になっていた。全てを賭して戦ってくれた子よりも自分の方が格上だという事実が、わたしの目の前に蕭々(しょうしょう)と雑に転がっていた。

「まずは優勝おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 コーチと、それからわたしと父が、フィールド中央に設置された表彰台の下で大会の組織委員会の話を聞いていた。

 静かになったフィールドはやけに涼しく、若干の寂莫の念さえ感じた。

 組織委員会の男性は淡々とした口調でコーチに説明していくが、事務的かつ早口で理解できない部分も多い。後半の方は右耳から入って、そのまま右耳から出て行った。

「MVPの副賞として、選手育成学校の入学費用免除、並びに近接している学校寮への入居費用も免除されます。世界大会に選出されるメンバーも、数多く輩出しているサッカー界では超名門の男子校ですので、是非ともご一考ください。答えはすでに決まっていると、思いますが」

「はい。ありがとうございます。こちらの親御さんと、それから……お子さんとで、話し合ってみますので、少々時間を……」

「わかりました。どうぞ」

 わたしたちに背を向けていたコーチは、振り向いてまず、わたしを褒めた。それは難しくないので、わかった。

「よかったな! 一番だぞ!」

 父も続いてわたしを褒め、頭を撫でた。

「おお。頑張ってたからな。やっぱり上手だったよ。カッコよかった」

 普段、あまり撫でられることが無いからか、どこかくすぐったい気持ちがあって、誰かに見られる前に早く終わらせたかった。

「ねえ。これで毎日サッカーできる?」

 コーチに問うた。

「あ、ああ。強い気持ちを持っていれば、できるとも……!」

 それはわたしではなく、サッカーという競技そのものに対しての確認作業になる。わたしにとる「新しい」を、その競技は生産し続けらるかというところだ。

 答えは、コーチの表情を見ればわかった。

 自然と、涙が零れた。

「や、やったぁ……っ、嬉しいよぉ……」

 父が撫でてくれているからか、コーチが見ているからか、はたまたフィールドにいるからか、あくまでわたしは気丈たり得ていた。

 視界も朧に霞んできて、わたしは比較的泥のついていない左腕で顔を擦る。それでも泥はついていて、擦っている拍子に口に入った。すぐに(つま)んで取り出したが、ジャリっ、という一瞬の不快感は強烈にわたしの中に取り込まれた。

「うわぁぁぁぁん……!!」

 涙は止まらなかった。

 代わりに、誰かが笑顔になっていれば、いいのだけれど。



     □■□■



 暗黒の樹林は延々と続いて、進んだのか戻ったのかもわからないままに夜は更けていった。

 でも、私は足を止めようとはしなかった。休んだり、振り返ったりもしなかった。とりあえずの目標である城まで、文字通り闇雲に突き進んだ。方角も、城がどんなものかも、知らないけれど。

 太陽と同じで月もまた、私を照らしてくれたから。

 報いなければなるまい。生きなければなるまい。

 その一心で、ただただ奔った。

 暫くして。風景が変わらないことと、樹林の絶望的な広大さを、知ろうかという頃。

 木のシルエットの間に見えたのは、樹林の中に存在するには異質すぎる物体。それは黒々としていて大きく、人型をしていた。樹林には植物しかないのだと知る矢先だった。

 それが動き出すとは誰も、知る由無い。

「お腹は空いていないかい?」

 突然のことですぐに応対できなかった私は、後退する足を何かに蹴躓いて尻もちをついた。布切れ一枚しか纏っていない私には、酷く効いた。

「……っ!」

 どうしたことだろう。黒い物体が少しずつ私に近づいてくる。樹林の闇よりも遥かに黒く、距離を詰められるほどに、身も心も飲み込まれそうな気がしてくる。

 そして、また。

「お腹は空いていないかい?」

 使い古されてしわがれたような、それでいて作られたばかりのように真新しい声色だ。

 どうやらそれは、喋るらしい。

 恐る恐る上目を使ってみれば、そこにあったのは黒いローブからひょっこりと飛び出した女性の顔だった。輪郭が男性のそれとは明らかに異なっていたのでわかった。しかし、表情は読み取れず、笑っているとも怒っているともとれた。

 お化けではないとわかって安心した私は、尻のごみを払って、その女性と視線の高さを合わせた。何せ低かったので。

 凝視していると、また女性が言った。

「お腹は空いていないかい?」

 そればかりだった。

 無視して歩こうにも、ゆっくりと後ろを尾行()けられる予感がして不穏でならなかった。答えるまでどこまでもついてくるような、そんな闇の深さ。

 “今日”という日のことを――決心の日である今日のことを、少しだけ考える。

 なぜかはわからないが、その女性は悪い人ではない気がしてきた。今まで生きてきて、そんな優しい言葉をかけてもらったことが無いから、錯覚かもしれないのだが。

 女性の言葉通りに空腹だった私にとって、選択肢は二つに一つだった。

「…………」

 私が頷くと、女性の表情がゆっくりと笑顔に変わった。その笑顔は少し不自然なくらい、私の心を落ち着かせた。

「これをお食べ」

 違うことを話したかと思えば、今度はローブの中腹あたりから白くて細長い腕が出てきた。

 その手には赤々とした球体が収められていて、仄かに甘い匂いを漂わせていた。

「リンゴだよ。知らないかい?」

 私は頷く。

 何度か見たことはあって、食べられるものだとは知っていたが、リンゴという名前までは知らなかった。知らないことを知れたというのも含めて、私は嬉しかった。

 自棄ギリギリの勇気にかまけてリンゴを受け取り、じっと見つめた。

 大層赤かった。

 赤くて、良い匂いがした。良い匂いがして、食べてみたくなった。食べてみたくなったが、食べなかった。食べられなかった。

「おや? 食べないのかい?」

「…………」

 私は頷く。

 私が今まで食べてきたものは、調理の過程で出た食材の端や縁。良い時で、主人が机に食べ零した料理だった。

 だから、私は誰も手を付けていない食べ物を食べられなかった。自分に食べられるために、そのリンゴは赤く色づいたわけではないのだと、知ってしまっていたから。

 俯くと、また漆黒のローブから出た白い腕が伸びてきた。リンゴと同じく甘い匂いを漂わせた御手は、そのまま私の髪を梳いた。印象と行為がかけ離れ過ぎていて、沈黙した。

 その静寂たるや、樹林の呻きが聞こえる程に。

「可哀想に……。命令が無ければ食べることもできないなんて」

「…………」

 まさにその通りだった。

 こうして屋敷を抜け出した今も、忘れろと命令された自分の声を思い出すことはなかったのだ。

 そんな私に、黒ローブの女性は言うのだ。

「あの屋敷を抜け出したのは、お前の意志だろう?」

 思い出せ、と。

「食べろとは言わない。だが、食べるのなら、一つ頼みを聞いてはくれないか」

 私は目で答えた。

「ここから南に歩いたところに大きなお城がある。今、そこでは舞踏会が執り行われている」

 今行われていると聞いて、私はハッとした。

 主人が帰ってこなかったのは当然として、舞踏会がそこまで長い間開催されているものではないはずだからだ。基本的には、何かの記念であったりとか季節の節目であったりとか、短期間で限定的に行うものはずなのだ。私の知る限りでは。

 お城で何かが起きていると言うのは自明だった。

 黒ローブの女性は堂々と続けた。


「本物の王子様は偽の王子様に匿われているわ」


 黒ローブの女性がそう言うと、もう一方の腕が、逆側から生えてきた。手には、やはり赤々としたリンゴが握られていて、甘い香りを漂わせていた。

 私はそれを受け取って、思わず息を飲んだ。

『え、どうしたの?』

 黒ローブの女性は、一体何を言っているのだろうか。物語から、逸脱しているにもほどがあるではないか。

 私は、声にできない焦燥を、必死に伝えようと眼に力を入れた。

 想いが届いたのか、黒ローブの女性は私に耳打ちするかのように、本当に(・・・)小さな声で囁くのだった。


『囚われのお姫様は生徒会室よ。早く行きなさい』


「…………っ!?」

 一気に飛び出しそうになる疑問符を、全力で抑え込むので精一杯になる。何か滞ってしまっているのではと、気が気ではなくなる。もともとセリフが無いことだけが救いか。

 段取り通り黙っていると、黒ローブの女性は何事も無かったように繋げた。

「そうかい。ありがとう。頼んだよ。それじゃあね」

 私は遅ればせながらに頷いた。

『王子様は偽の王子様に匿われて』いて、『囚われのお姫様は生徒会室に』いる。

 そういうことか。

 黒ローブの女性の言葉に背中を押されて、私はまた走り出す。

 覚えたての方角へ向かって。着実に、でも確実に。


「…………」


 ふと、私は立ち止まり、生まれて初めて後ろを振り返る。

 そこに女性の姿はなく、あったのは木の枝に引っかかって風に靡く黒色の布切れだけだった。聞こえるのは古された優しい声などではなく、不規則に頬を切り裂く冷めた風の戦ぎと樹林のどよめき。

 けれど過去は確かにそこにいて、私をしんと凝視していた。それについて何か凄いことができるわけもないが、心を蝕まれぬよう見つめ返すことはできた。

 手にした赤い木の実に仰々しく齧り付いて、噛み砕いて、飲んで。吐き出しそうになるのを堪えて、それを繰り返す。回数はと言えば、今までにさせられたこと――してきた前科と比べれば塵のようなものだった。

 しかし、そうして生かされた幾数年をいくら思い返しても、リンゴの一齧り一齧りの方が、遥かに有意義に思えた。

 生きていた。

 生かされているのではなく、自分で。確かに、そう感じていた。

 食べ終えたところで、私は思い出す。


「ありがとう」


 その声は誰もいない樹林に、空ろに響いてすぐ消えたが、私の意志は確かに私自身に刻まれた。あるいは、遠い過去に刻まれていたものが、痛々しく蘇ってきた感じか。

 根拠はないが、確かに、私の声は誰かの耳に届いているのだろう。冷たい風に乗ってでも、物言わぬ木々を伝ってでも、静かに眠る小動物の生き方に(なら)ってでも。

 それこそ誰も聞いていなくたって。


『ありがとうアリスお姉ちゃん。なんで知ってるのか、知んないけど』


 覚えた表情は、私自身にすらそう思わせるようで、それでいて、私たり得ていない。それどころか、的を外している。

 私は、それを覚える必要は無いのだから。

 そうして急いで樹林を抜けると、そこにはページ数を間違えた王様と無関係の一読者がいて、何事かという顔で語りかけてくるのだった。

「りずよ。そんなに急いでどうしたのじゃ? 出番は暫く無いじゃろ」

「大変なの……っ」

「リ、リズ! な、なんて大胆な恰好……! 布一枚なんて、僕……じゃなくて、俺はなんてコメントすればいいんだ……っ! 可愛いのは当たり前だけど、それは決して似合ってると言う意味ではなくて――」

「アレンうるさいっ」

「っごめん!?」

「どうどう。そう騒ぐでない。体育館の中に聞こえてしまうじゃろが。それと、服着るのじゃ。ほれ、わしの脱ぎ立てほやほやじゃぞ」

 王様がそう言うと、赤ローブの中からアカデミーの制服スカートと体操着的な白ティーがが出てきた。林檎の匂いはしなかったけど、ちょっとだけ甘い、良い匂いはした。

 言われてみれば、さすがに布切れ一枚で文化祭を徘徊するのは、﨟長けた女優魂でもない限りは厳しいな。一応、下は履いてるけどね。

 厚意に甘えて、スカートと白ティーを着る。悪いことをしているわけじゃないけど、人の服を着るのってなんかこそばゆい感じがする。それも、こんな公然の場を借りてだし。

 まぁ、今はそんなことも言ってられないかな。

「ありがと桜さん。意外と丈長いんだね」

「深情けじゃ! ……それで、一体何があったんじゃ」

「あ、うんっ! それは……わからないんだけど……」

 それは私も知らない。

 だけど、とにかく走らなくちゃいけない気がするのだ。

 そんな感情こそ、まさに王子様であるような気も、しないでもないけど。

 前のめり気味に軽く足踏みしながら、私は言う。

「そっ、それが……。んーと……、とにかく!! 王子様がっ、じゃなくてお姫様……でもなくて……。えっと、その……」

「なんじゃ」「えっ、なになに!?」

「ルーが――」

 思えば、大切な言葉を封じてきたのは、他でもない私自身だった。罪の意識からそうしてきたけれど、そもそもそれが間違いだったのかもしれない。小さいことかもしれないけれど、確かにそれは重要な歯車で、私の心とお姫様の心を繋ぐ架け橋のようなことでもあるのだ。

 劇の主人公の衣装を纏って、主人公の気持ちに触れて、わかった気がする。

 私、知ってるんだよ。

 ルーの気持ち。



「私のお姉ちゃんが、大変なのっ!」



 だって、私、好きだもん。

 お姉ちゃんのこと。



     □■□■



 物語にする価値などない。

 けれど、見世物でもない。ましてや偽物でもない。

 ただ、わたしの目の前にあって、きっと誰の心にもあるはずの真っ白な気持ち。

 誰かの幸せを願って、わたしも幸せになれるような、夢のようなお話。

 生きている限りは、例え間違っていても、続けることができる。






【あとがき】

 ここまできて、とうとうルーモスの意味のヒントでした。


 さて。

 一応、ここまででルーモスの主要登場人物は全員登場したことになります。

 入れ替わり立ち替わりということもないですが、話にだけ出てきたりという人はいると思いますが、こんなところでしょう。

 そこで、ここまで読んでく出さった皆様のために、フルネームを表記してみることにします。

 誰得って感じですね。はい。


☆ルート

Looteるーと=Q=Ueerきゅーうぇーる

☆リズ

Rizeりず=Q=Ueerきゅーうぇーる

☆アリス

Aryssありす Naibsないぶす

☆ノア

Noahのあ Greenwitchぐりにっち

☆サクラ

Sakuraさくら Misakiみさき

☆アレン

Alienあれん Whiteほわいと

☆レイル

Lairれいる Eiwthえいわす

☆ルリ

Ruriるり Liliumりりあむ

☆レーア

Lairれーあ Whiteほわいと


 結構名前は大事にしていて、深い意味はありませんと言ったらそれはウソになってしまいます。色々勉強している人はわかるかもしれませんが、たくさんメッセージが込められているので、是非読み取ってみてください。



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