〖matter〗Who's "Moth"?
【まえがき】
“最下位という勝利を”
大人と同じ時間段取りで試合をするのは初めてのことであった。
少女は肩で息をしながら、チームメイトたちの顔色を伺った。
練習はいつもそれ以上の時間やるのだが、やはり勝手は違うもので、動けそうな人は見つからなかった。芝生である分、練習場よりは動きやすいが、継続時間が継続時間だった。
少女にはまだ余力があったが、一人で点数を決めるのが難しいというのが、このスポーツの醍醐味であった。つまり、もう攻めることは不可能であると言っても、過言ではなかった。
一つ希望を見出せるとすれば、相手側の状況か。
全国大会決勝戦という折、相手チームにそんな役不足はあり得ないかもしれない。
しかし、今回は訳が違うのだ。
プロフェッショナルルール適用が宣言されたのは、まさに今朝のことであり、条件は相手とイーブンであるからだ。
思考を巡らせつつ、少女は少し走って相手選手を牽制し、戦況を伺った。
今、ボールを所有しているのは相手チームの男子。それのカバーをしようという算段だろうか。一応、背後にはもう一人取り巻きがいる。周囲を見渡す様子から、早めにパスを出したいようだけれど、少女がブロックしている選手を含めて、ほとんどの人がリードの声を上げないでいた。
やはり、少女のチーム同様に、相手チームもかなり消耗している様子だった。
だから、その声がやけにフィールドに響いたのだろうか。
「こっち! パスっ!」
少女が急いで振り返ると、それがハーフラインを切ったところから聞こえたことがわかる。まさに、完全なるカウンターだと気付く。
そういうものは大抵、監督と呼ばれる大人が支持するのが常だったから、少女はそちらに気を配っていた。今まで、それで何度もカウンターを防げてきた。カウンターだけでなく、相手陣営の作戦だったり、弱点を把握できたりもしたから、相手チームの監督を監視することは試合を確実に有利に進められた。
でも、今回はそれが無かった。声で指示しないにしろ、サインはあるかもしれないと踏んでいたが、それすらも無かった。
完全に、読み違えたのだ。
「……くっ」
苦言を呈したくなる気持ちを抑えて、少女は体制を整える。
試合時間が残っている以上は余力を残しておきたいところではあっただろうが、今まで一点も防げていないキーパーは、どうしても心許なかったのだ。
少女は走るスピードを上げ、ボールとその選手を追った。
その選手は、ものすごく早かった。ボールをドリブルしているはずなのに、少女が素で走ってやっと追いつくくらいだった。少女が追いつく前に、すでに何度かディフェンスが仕掛けているが、見事に躱されてポジショニングを崩され、ゴール前ががら空きになってしまっていた。
これまでのキーパーの防御率を鑑みるに、少女が抜かれれば、確実に点が入ると言っても過言ではないだろう。
また一つ希望を見出すとすれば、その選手の表情ということになる。険しい表情であれば、シュートを外してくれるかもしれない。逆の表情であれば、当然、失点が危ぶまれるのだが。
どちらにせよ、ブロックをするためにはその選手の前に回り込まなければいけない。
少女は腕を強く振って、もう一段階スピードを上げた。
体感数秒で追いつく。
ファールルールに抵触しないよう、気持ち外回り気味に懐に入ろうと試みた。
ブロックを仕掛ける直前、相手選手も大きく腕を振っていたことに留意し、脇の空間に体を捻じ込むのは難しいと判断した。
ゴール前という位置取りも視野に入れると、このタイミングでブロック行為に及ぶのはハイリスクだからだ。背後にポジション取りをしているが、すでに勘付かれているのもある。そのためか、若干スピードを落として、身構えているようにも見える。
そこで、少女は勝負に出た。
――ボールを奪い取ることは考えずに、時間を稼ごう。
ここでは、相手がスピードを落としたのなら、自らもそれに合わせる、と言うのがセオリーだ。温度差の違うプレーは結果としていなしやすいという事実と、回避されたと時のリスクが大きくなるからである。走るスピード一つとってみても、猛ダッシュを躱された時のロスが目に見えて大きいことは明々白々だろう。
しかし、少女はスピードを保ったまま、攻めた。
まさに、相手の意表を突く動きだ。
すると、相手選手はそれを待っていたかのように身を翻し、自らにブレーキをかけた。
慣性で転がっていくボールを素早く足で引き寄せると、その場で泳がせ、まるで子猫をじゃらすかのように少女を待っている。
それでも、少女のスピードは落ちなかったのだが。
目的は、奪う事ではないからだ。
奪わないのであれば、テクニックも策も必要でない。相手がボールを操るよりも早く動ければいいだけの、至極簡単な話だ。ボールの軌道など、注意するまでも無い。猛進するのみ。
近づくほどにわかるのは、その相手選手がとても華奢であることだろうか。
もう一つ、少女の意表をつくかのように、推測と逆方向にボールを運んだということ。
「そ、そっちなの!?」
そうして少女は、その選手に勢いよく激突した。
少女の体重に、躊躇無く上げていたスピードがすべて上乗せされた、途轍もなく重い一撃となった。二人は力がかかった方向に勢いよく倒れ、数メートル芝生の上をゴロゴロ転がった。ボールは二人の後を追いかけるようにフィールドの外へ転がってラインアウトになったが、それよりも先に「ファール!」との審判が下された。
「ファール……」
突進する方もする方だが、相手方の突進に対する行動としては結構グレーだった。なので、どちらのファールになるのか、微妙なところだった。
しかし、少女はそんなことよりも気になることがあった。
「あ……」
相手選手の容態だ。
動いているから生きてはいるようだけれども、どうしてか少女のタックルを抱き入れるように受け止めたので、衝撃をもろに腹に喰らっていたはずだ。
立ち上がった少女は、とりあえず膝の泥だけ手で払って、近くに横たわっていた相手選手に近づいた。
内臓が破裂でもしたのではと、少女は心配になったのである。
「ご、ごめんなさい……」
左腕で顔を覆うように転がっていたその選手の横にしゃがんで、恐る恐るそう口にした。ファールよりも大変な違反を犯してしまったかもしれないと、瞳を潤ませながらも。
反応が無い。
これはまずいと危惧した少女は、遂に相手選手の両肩をもって、強く揺さぶりだした。
「ねぇ! ご、ごめんなさいって……! ねぇ起きてよぉ!」
少女がそんな行動を起こすので、不審に思った審判が数名集まって来た。周囲にいたチームメンバーと、相手チームの何人かも寄って来た。
いつの間にか少女の周りには人だかりができて、ぐるりと取り囲んで見守るような形となっていた。
そのことに気が付いた少女は、すぐさま立ち上がると周囲に呼びかける。
「誰か、この人を助けて!」
右を見て。
「お願い、助けてよ……!」
左を見て。
「誰かぁ……」
その時だった。
「痛てて……」
「あ……起きた」
その瞬間、少女は初めてその選手の顔を見ることができた。
走っている時はボールの動向にばかり注目していたから足が速い人という印象しか抱かなかったが、止まって見れば印象がまるっきり変わった。
どこにそんな力があるのだと疑問に思うほど華奢で、声色も相応にして高い。ただ、叫ぶにもキンキン煩いということはなく、鈴の音のように綺麗で透いていて、フィールドに良く通る。
遠巻きに見てみれば、見るからに優しそうな丸っこい顔立ちで、それでいて輪郭はすっきりと整っている。走って乱れた髪の毛は、逆に、セットされたかのようにうねっていて、少しばかり見目麗しく感じる。どこぞの俳優の息子だと言われても十分頷けそうだった。
さらに観察すると、体躯のバランスがとてもよかった。その細身の体つきにはどこにも無駄がなく、むしろ必要な膨らみすらないように思えるほどだ。
そんな体の一体どこにあんな力があるのか、少女はただただ不思議であった。
そして少女は同時に、今日の試合は負けるだろうと確信してしまった。
「だ、大丈夫……?」
すぐさま駆け寄って、声をかける。
「うん。大丈夫だよ。でもまさか突っ込んでくるなんて。はははっ、あははは……!」
その子はとても楽しそうに笑っていた。
こんな大事な試合で笑っていられるなんて、少女がそう思った瞬間、少女は負けたのだ。
勝たなければ捨てられる、もう二度とフィールドを走れなくなる。そんな義務を背負っていた少女が、笑えるはずも無く。
「それはごめん」
「あ、ううん。いいよ。だって、勝ちたかったんでしょ?」
「え? 何で知ってるの?」
少女がサッカーに賭けたものを、という意味だった。
その子の答えは、清々しいほどに端的に。
「当然だよ」
「そうなの?」
試合に勝たなければ自分がサッカーを辞めさせられるということを、全員が知っているとしたら、どれだけ幸せだろうか? 少女はふとそんなことを考えた。それなら誰もが同情して、わざと負けてくれるだろうと、そんなことを。
でも、その子は違った。
「だって、勝ったらみんな喜んでくれるでしょ?」
少女一人の幸せよりも、たくさんの人間の幸せの方が、重いに決まっていた。賭けるものの数でさえ勝てないのに、勝てるはずなどありはしない。
親に命令されて動くだけのからくり人形など、天秤にかけるまでも無かったのである。
少女は絶望した。
楽しむ者と、義務を果たそうとする者、行きつく所は見えている。笑ってプレーできなければ、その選手に勝つことはできないからだ。
――もうこれも終わりか。少しだけ楽しかったな。でも、辛いな。楽しかったからだな。じゃあ、こんなの最初からやらなきゃよかったな。やりたくないって、言っておけばよかったな。
せめて、涙は流すまいと、少女は気丈に振舞うことにした。
「立てる?」
「あ、うん。ありがとう」
敵選手の肩を持つわけではなかったが、負けるなら負けるで一〇〇〇対〇くらいで負けてやりたい。
手を差し伸べながら少女は憤り、心の中で泣いていた。
「本当にごめん」
「大丈夫だって。気にしないで。そんなことより、上手だね。サッカー」
「え?」
「パス正確だし、指示出すのとかも、うん。今までで一番上手いかも」
それを、親の前で言って欲しかった。
口に出したところでどうにもならない、そんなどうでもいいことを、少女は考えてしまった。少し、腹が立ったのだと思う。
「でも、もうこれで辞めるんだ。あなたはまだ続けるんでしょ? 頑張ってね。それじゃ」
淡々と述べたのが気に食わなかったのか、その子も少しだけ声が大きくなる。
「待って! 何で辞めるの? それってこの試合に負けるってこと?」
「そうよ」
「どうして……?」
「そういう言いつけだから」
「違うよ。どうして本気でやらないのってこと。勝てば辞めないで済むんでしょ? サッカー続けたくないの?」
色々と反論されて、少女はついに堪忍袋の緒が切れる。
「あなたに言われる筋合いなんてない! そういうものなんだから仕方ないでしょ!? 私じゃ、あなたに勝てないの! 何回も言わせないでよ!」
その子も負けじと応戦する。
「そんなのやってみないとわからないよ! 何でもいいから本気でやってよ! じゃないとお互いに楽しくないもん!」
試合運びからしてそうだったが、完全に二人の世界だった。呆れたギャラリーも、元の場所に戻っていった。
少女は変に目立つのが嫌だったので、その子を制止した。。
「わ、わかったから! もう静かにしてよ!」
「ご、ごめん。でも、絶対本気でやってね」
そう言って、その子はゴール前へと走って行った。
そうしてフィールドに試合らしい雰囲気が戻って来ると、ファールプレーとして相手チーム側のPKの準備がなされた。
自陣のゴールの前にボールが配置され、チームメイトたちは目眩ましの盾のように横並びになった。
少女は、キッカーがパスする危険性を考えて盾の一部にはならなかったが、パスなどしないだろうとも思った。
キッカーが、相手チームのあの選手だったからだ。
――これは入る。
そんな諦観の念を抱きながら、レフェリーのホイッスルを聞いていた。無常だなと、少女は普段は言わない独り言を言いもした。
その刹那の出来事だった。
力強く蹴られたボールは、弾丸さながらに真っ直ぐと飛んでいき、思い切り盾に弾かれる。そして弾かれたボールは、まるでブーメランのようにその子の足元へと帰っていく。その子が動きを止めた瞬間、フィールドの時間が止まったように静かになった。一切の時間が停止したような、そんな世界になってしまったようだった。
そう。まさに、それを知覚しているものだけが動ける世界。
その子の視線が、ふと少女を捉えた。
「無情だよね」
「そうかな」
十数メートルも距離があるにも関わらず、不思議と声が聞こえた。
少女の声も届いているらしかった。
本当に時が止まっているからなのか、互いに透き通った声を持っていたからか。
「そうだよ」
「うーん……」
「私、あなたのこと知ってるわよ」
「なんで?」
「あなた、有名だからよ」
「そうなの?」
「そうよ。あなた、山登りする人でしょう?」
「うん。するけど、なんで?」
「聞いたの」
全国大会の決勝戦ともなれば、下調べは必須になってくる。程度の違いはあれど、毎回どこのチームも同じようなことをやる。対策を立てるためだ。
少女のチームも例外なくやっていたが、少女の場合は個人的にもやっていたから精度が違った。卑劣なほど大人びていると言えばそれまでだが、少女が勝つためにはやるしかなかったのだ。
危険人物と呼ばれる選手がいれば、過去の試合の記録を見たり、あるいは学校に上がり込んで試合を見学したりもした。そうして立てる作戦は、完璧だった。それは少女のインストラクターすらも認める程の徹底ぶりだった。
しかし、今回はそれが意味をなさなかった。
試合当日、いや、試合中に至るまで、相手選手の情報が無かったのだ。おそらく、現存するどの選手よりも危険な天才についての情報が。
無理もなかった。
今までずっと無名で、一度も全国大会などに出場したことのない弱小チームなど、端から眼中になかった。一回戦で敗退するようなチームに興味などあるはずもないし、労力の無駄になるのだから。
情報は、前半戦を終えた休憩時間に、インストラクターから入って来た。相手のコーチにしつこく自慢されたそうだった。
『足が速くて、ボールのコントロールも上手い。一番は、教えてない技術を勝手に編み出すところ。おまけに、山登りをしているからスタミナもある』
そんな完璧な選手が、今、一人の少女に勝負を挑んでいるということになる。
勝負を買わなければゴールを決められてサッカー人生が終わる。最初のシュートがフェイクであったことは、何となく少女にもわかった。
そして、そんな芸当は天才にしかできないということも。天才のフリをしているだけの人形が、本物の天才に勝てるはずもないだろうということも。全部。
でも、勝負するしかなかった。
でなければ、このまま世界は停止したままだろう。
「本気で、やればいいんでしょう?」
勝つことも、その子を満足させることも、少女にはできはしないだろうが。
それでも、少女は逃げなかった。
「本気でやるから。最後、だから……」
少女は汗と混じって塩辛くなったそれを舐めて、一歩踏み出す。強かに。
時は呼応して流れ、延長残り時間が三分切っているということを、少女に知らしめる。
「受けて立つよ」
一歩、一秒、また一歩、また一秒と、フィールドは完全に少女にリンクする。
そして、世界は動き出す。少女の、絶望へと向かって。
***
冷酷無慈悲なホイッスルは事務的な響きとともに、少女たちに敗北を告げた。
しかし、少女は負けなかった。
結果として、PKで敗北したと言う事。つまりそれは、少女が勝利を守り通したと言う事。その先はチームとしての実力であるし、少女の得意とする情報分析も、とうとう何の役にも立たない。
少女は、ある意味では勝利したのだ。
ただそれが、少女の目に――少女の両親の目にはどう映るのか。論を俟たない。
最後の希望として少女の心の片隅で光っていた『MVP』の栄光も、あの子は当然のように奪っていった。少女の未来も楽しみも、幸せも、全部同時に。
少女は試合に敗北した日、夜が更けるまで説教された。「なぜ試合に負けたのだ」と、手を上げられた。簡単な話、「天才に勝つだけの実力が足りなかった」のだと言えればよかったが、できなかった。
それは、少女もまた、周囲から「天才」だと称されるからだった。
でも少女は、自分がそうではないことを知っていた。
ただ、努力することが嫌いで、どうしたら楽をできるかを考えているだけだったのだから。そうしたら、いつもある程度の水準には収まっていただけという話。あの選手もきっと、同じようなものなのだろうけど、程度が違った。それだけの話。
少女は抵抗しようとはしなかった。それも道理なのだと知っているから。
少女の達する水準が、両親の望む水準に達しなかっただけで、そこに何も不思議はない。ただ、少しだけ少女が楽しめて、ほんの少しだけ笑顔になれた。ただそれだけ。
少女は、エレメンタリー入学前からそんなことを繰り返しているのだ。
華道、舞踊、演劇、剣道、習字、絵画、料理……数えることを途中で放棄したくなるほど、少女はチャンスを無理矢理に与えられた。無論、それはこれからもだが。
――でもきっと、終わりはある。自分の才能に、誰かが気が付いてくれるはずだから。
それはきっと、あの時の相手選手のように……など、幻想を抱いてみるも、実情は変わらない。そうやって現実逃避をすることが、紛れもない少女の才能で、周囲に「天才」だと称される所以なのだから。
そうして数多の業をこなして、残ったのはたった一つの敗北の思い出だけ。
*****
年月を経て、少女は少女ではなくなった。
そして、天才からも逃避することができた。代わりに両親から得たものは、無色の諦念という質量。その重みで、少女は被っていた仮面を外され、心はぐしゃりと拉げた。
それでも、彼女の才能は衰えることなく、残っていた。それはもう「天才」ではないが。
その才能を補うように備わった彼女の美貌。そして、今となっては皮肉にしかならない、無限の知識と経験。それらは、彼女を周囲の圧力から保護した。
少し善い人のふりをすれば、異性は思うままに動いたし、子供は懐き慕った。それは学校の先生であろうと同じだった。様々な経験で培った『ある程度の水準』があったことで、同性からも尊敬された。
それらすべては、計算のうちだった。彼女が望めば、大金だろうと地位や名誉だろうと簡単に手に入る。
これが絶望の代償なのだと、彼女は笑う。
そうしていつか、彼女はこう思うようになる。
――これなら、すべてを手に入れることができる。
両親よりも権力のある誰かを味方にすれば、両親だって見返すことができる。それこそ、御曹司を何人かつかまえて強請れば、欲しいものをすべて手に入れることができるだろう。結果として大規模紛争になるかもしれないが、彼女ならそれすらも解決できるかもしれない。
それも、今日思えば明日には事を起こせるのである。
でも、彼女はそうしなかった。いや、できなかった。
簡単な話だ。
彼女の欲しいものは――欲しかったものは、すでに奪われていたからだ。数年前の、あの場所、あの試合、あの瞬間、“あの時”に。
彼女がいくら望もうとも、時間を巻き戻すことはできないのだから。あるいは、時間を巻き戻すことができる神様を味方につけることも、自然、不可能なのだから。
しかし、彼女の中で、その記憶は希薄になりつつあった。
経時という理由ももちろんあったが、何より、別の幸せでいくらでも彼女自身を満たすことができたからだ。
食べたい物があれば、それを持っている人に媚びを売り、腹の立つ人間がいれば、敵対する人物をぶつけて昇華する。テストが難しければ、先生を呼び出して誘惑し、点数を捏造する。面倒ごとは、演劇の稽古で覚えた涙を見せれば解決した。
どれも、彼女にとってみれば容易いことだった。
――これ以上、失うものなどない。あの記憶さえ、なくなれば。
***
そんなある日のこと。
ふと新聞を読んでいると、彼女の記憶を呼び起こさせるような記事が、たまたま彼女の目に入ったのだ。もはや運命なのかもしれないが。
『登山のすゝめ』と題打たれた、小さなコラムだった。新聞の最後のページから一つ前、左下の端の方に、それはあった。
別段、彼女が登山に興じていたわけではない。それも、かつて捨てた業の一つ。
偶然彼女の目に飛び込んだのは、とある一人の人間の名前だった。
聞いたことがあるどころか、それは、紛れもなくあの選手の名前だった。同名の人も存在はするだろうが、『登山』というワード、それからサッカー経験があるという記事を看過することはできなかった。
見たところによれば、記事の著者は父親。
内容は、しがないライターの男が登山に打ち興じている経緯と近況。健康維持のために始めたが、『我が子』も気に入ってしまったらしいということ。夜登山すると、空気が澄んでいて星が綺麗だと言う事。誰か、『我が子』と一緒に登山をするのは楽しいと言う事。
――そして『我が子』は、サッカーを辞めたという事。
刹那、彼女はその新聞を千切って丸め、すぐさま屑籠へと放った。あまりに軽かった切れ端は舞い、屑籠から幾らか溢れた。床に散った新聞は単なる文字の羅列から憤怒の象徴へと変わり、事実として取り返しのつかない破滅を、彼女に覚えさせた。
彼女は不思議に思った。
「なんで……? なんで、なんで、なんで」
彼女から希望を奪ったあの選手はもう、選手ではない。彼女からMVPまで奪って、そのまま逃げた逃亡犯。罪を裁くことはできても、もう一度彼女に勝利のチャンスが巡ってくることは決してない。
彼女には、あの選手を奪えない。
「意味が解らない。なんで……」
少なくとも、あの天才が世界を相手に戦っているのなら、戦い続けていたのなら、彼女は潔く諦めることができたはずだ。敗北の記憶を良い思い出に、あるいは忘れ去ることができたはずだ。
そうすれば、『本気でやれ』と言った意味も、彼女自身が『本気でやった』意味も、納得できるのだ。言い換えれば、それこそが彼女の本当に手に入れたい平穏なのかもしれないのに。
しかし、それは叶わない。
「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで」
誰かに媚び諂おうとも、事務的な涙を流そうとも、体を売ろうとも、魂を売ろうとも。どれだけ祈っても、願っても、もう叶いはしないのだ。
あの子が、そういう場所へと逃げたから。
『――山は空が近いので流れ星もたくさん見ることができます。皆さんも何かお願いがあれば、是非とも誰かと山に――』
彼女の心には、正体のわからない大きな感情が渦巻いていた。泣いていいのか、怒ればいいのか、それすらもわからないほど大きくて、黒い感情だった。
誰かに伝えれば同情してもらえることはわかっていたが、彼女はそうせずに、自分の中に蓄えた。
床に散らばった紙片を拾って屑籠に捨て、彼女は一人、居間を出た。廊下を歩いて階段を上り、自室へと向かう。そうして屋根裏へ辿り着いて、流れるようにベッドに寝転んだ。
二階建ての家の屋根裏部屋を改築したワンルームが彼女の部屋だ。つまり、家の中で最も高い場所――山だった。空気の澄んだ、綺麗な星空を見られる唯一の場所。
「なんで……」
泣けも怒れもしない彼女は、胸中を叫んだ。
「本当に『願い』を叶えられるなら、私は……」
でも、決して空は見上げずに、山に吐き出すのだ。
彼女のすべてを。
「私は、『願い』を無限に叶えられる『願い』を」
【あとがき】
昔の記憶って、温かいのと冷たいのが入り混じっているような気がします。
人肌、というのでしょうか?
なので、逆引き的なアレで、人の温かさに触れると、色々思い出してしまうのかもしれませんね。




