Ⅲ お母さんと。
【まえがき】
もうレギュラーにしちゃおうか悩んでるルート母が登場です。
おかあさんを想像して読んでくださると幸いです。
どうぞ。
「おやすみなさい」
「はい。おやすみー」「うん。おやすみ」
明後日に本番を控えているという自覚があるにせよ無いにせよ、随分とお早い就寝だなと思った。まだ七時を過ぎたあたりだというのに。どうせすぐに寝たりはしないのだろうけど、お年寄り感は否めない。
まぁ、でも私も早くお風呂に入って寝床にいきたいところではある。この期に及んで、やりたいことが数件あったりするし。
まぁ、それはもう、ルーに釘を刺すようなことではないんだけど。
タイミングというのもやはりあるし、それにもう、ルーは出てくれないような気がするから。これ以上、互いを傷つける諸刃の剣を振る必要も無いと思う。そんなことよりも、見ず知らずの王子様に愛嬌を振り撒けるような余裕を見出す方が、よっぽど有意義ではないだろうか。それは要するに台本の確認とか言うやつで。
「次私お風呂入るー」
「あら? リズ、宿題は終わったの?」
「八分の五くらいは終わった。お風呂あがったらまたやる」
宿題が途中だった。今ちょうど関数のグラフを書く大問をやっていたところ。
いつもは遊びで手付かずということが多いけど、今年は役者の仕事がちょっと忙しくてね。みたいな感じの心意気で、今年の宿題は割と不機嫌にならずに終えられそうだ。
「そう言っていつもここで寝ちゃうのよね。今日はルートが先に寝ちゃったから、起きたらやってあるパターンは無いわよ」
「やるもん!」
そうやって失礼な事を言うから寝ちゃうんだぞ、と矛盾した楽天的論理を翳したい。
「はいはい。上がったらここに戻って来るのよ。髪の毛乾かしてあげるから」
「はーい」
思えば今年の夏はこれの思い出しかないなぁ、みたいなことをしみじみと感想文に書き連ねている暇は、言ってしまえば皆無なのである。もう、宿題は諦めたいところだ。というか、物理的に無理だ。
こういう時ルーがいてくれると助かる、なんてずっと思ってきたわけだけれど。今こうして改めて感じるのは、私が居間で眠っちゃうのはルーが隣にいてくれる安心感からなのかもしれないということ。だから多分もう寝ないと言いたいということ。
いや、そこはまぁ、多分普通に寝るんだろうけど。
***
シャワーを浴びている間もそうだったけど、やっぱり体を温めるのは良くない。もう眠いったらありゃしない。
少しでも早く宿題に取り掛からなければならないとわかってはいるけど、睡魔って強い。おまけにお母さんがタオルで髪を乾かしてくれてるから、ヘッドスパ的感覚でさらに眠くなる。ホント、睡魔最強説。
今、背後のお母さんの方に凭れたら、確実に数秒で逝ける自信がある。お母さんと一緒に寝るなんて、そんな年頃でもないけど。
いやでも、これはまずい。気を抜くと瞼がくっついてしまいそう。居間のソファはふかふかで柔らかいし、ヘッドスパはなんか気持ち良いし、お母さんもふかふかで柔らかいし。もう反則だ。お母さんズルい。
とりあえず何か喋ってないと、と思ったらお母さんの方から話しかけてくれた。
「明後日の劇、お昼頃からだっけ?」
「ふわぁ……。んーそーだよー。明日はリハなのー……」
「主役のお姫様なんでしょう? ちゃんとセリフは覚えたのかしら?」
「んー、覚えた」
「リズはそういうの得意だものね」
何か馬鹿にされてるような。
まぁ確かに、セリフ自体は劇の長さに比例して結構長かった。けど、不思議とスッと入って来たからそんなに苦にはならなかった。なんていうか「私ならこう言うかな」っていう言葉が、そのまま台本に書いてある感じだったから。
つまりアドリブでもいける! なんつって。
「今年の劇はルートが脚本なんでしょ?」
「え、あ、うん……。そうなの?」
「夏休みに入ってから、毎晩部屋でこそこそやってたからねぇ」
知ってたんだお母さん。何でも知ってるなお母さんは。さすが。
「そうだったんだ」
「そうよ。何でもかんでも引き受けちゃうから、無理やりやらされてるのかと思って少し心配したわよ。あの子、優しいから」
「違ったの?」
「そうなのよ。何回も書き直したりしてたみたいだし、夜遅くまで大変そうだったけど、楽しそうにしていたの。本当に安心したわ」
何でもそつなくこなしてしまうルーは、昔から、何かに熱中すると言う事は稀だった。趣味が高じて何かに発展することはあったけど、簡単すぎると、それすらも些細な日常の一部にすり替えてしまうのだ。
そのルートが、また何かに熱中していると言う事に、お母さんは安心したんだろう。
「ルーがそんなに真剣にねぇ……」
ともすれば、今回の劇を成功させることは、私に課せられた義務になる。義務どころか、責務だ。違いがよく分からないけど、とにかくそういうもの。もっと言えば、『運命』みたいな。
そう考えると、私たちの関係って、とっても尊い。
「そう言えば、ルートは何役で出るのかしら。リズばっかり劇のこと話すから、聞きそびれてたわね」
「それは……」
手持ち無沙汰になったのか知らないけど、お母さんは乾かした私の髪の毛を手櫛で梳かし始めた。指の通りが良くなると、一回撫でてから別の場所を梳かす、いつものやつだった。昔はよくしてもらっていたけど、今そうされるのは変な気分。
身長だって伸びたし、距離感だってそう。会う時間も部活のせいで減ったし、心も体も育って、秘密も増えた。全部色々変わって、昔のいつも通りは『変』になっていた。
そんな変な気分は私を支配して、言葉のコントロールを奪った。
「ト、トップシークレットっ。本番までのお楽しみねーっ」
お母さんが鋭いのは、お母さんが変わらないからなんだと思う。変わらないからこそ、私たちの変化に敏感なんだ。
隠さなきゃと思って不意にそうしたけど、そんなの隠せるわけない。私にだって、隠した意味がわからないんだから。
「うふふっ。主役かしらねぇ」
「もー、お母さん! ホントは知ってたんでしょ! 私を嵌めたわね! おのれぃ!」
「はいはい。上手上手。眠いのよねぇー。よしよし」
「んーもー……」
お母さんに頭を撫でられると、不思議と気持ちが和らぐ。お母さんって、そういうのもズルいと思う。
結構演技じゃなかっただけに、なんか悔しい。ていうか、お姫様は「おのれ!」とか叫ばないな。眠いのは事実だけど。
「あの子、また悩んでたわね」
「うん。ルーっていっつもなにか悩んでるよね」
「ルートはとても優しい子だから、仕方ないわよ。どこかにいる誰かのために、自分は何ができるんだろうって、色々考えちゃうのよ」
それって優しいって言うのかなとは疑問に思いつつも、私の記憶の中のルーはいつも優しかった。
そう。少なくとも、ルーは私に優しかった。
それが、本当はルーの苦悩の上に成り立っていると言うのは、紛れもない事実。
「どうしたらいいかなー……」
「あらあら? リズがそんなこと気にするなんて、珍しいわねぇ」
「ち、違う違う。ただ、ルー、練習にも来ないから、皆にも心配かけてるし、それだけ」
「リズも素直ねぇ。やっぱりルート、そんな感じだったのね?」
「あっ、うっ……うん、そう」
うっかり口が滑ってしまった。
互いの顔が見えないからって油断してた。
「なにも、隠さなくたっていいじゃない」
「だってー……」
「リズのせいじゃないんだから、別に怒ったりしないわよ」
「私のせいじゃ、ない……?」
そんな言葉を久しぶりに聞いたから、一瞬、“あの時”のことを言われたのかと思った。でも、私の周りの空間は過去に時間遡行したりせず、刻一刻と本番への時を刻んでいる。
あれは私のせいなんだから、そんなことあるわけないし。
「気持ちはわかるわ。でも、お母さんにならなんでも話していいのよ」
「そうなの?」
「そうよ。そういう決まり!」
「ふーん」
撫でて落ち着かせたり、なんでもお見通しだったり、そういうお母さんという存在がもつポテンシャルと引き換えに、私たちの悩みを引き受けなければいけないということだろうか。だとすれば、妥当なのかも。
じゃあ、お父さんってなんだ?
お父さんはなんていうか……変な人だけど、凄く優しいし、別に嫌いというわけはない。むしろ好きな部類に入ると思うけど、それは『父』としてだと自分の中ではっきり線引きされている。
別格なのはわかるけど、その格ってなんだ? 低いのか? 高いのか?
「ねぇ、お母さん。聞きたいんだけど」
「どうしたの?」
「お父さんって何者?」
自分でも不躾過ぎるなとは思ったけども。
数秒の間があってから、お母さんは「突飛ねぇ」と反応した。
「お父さんはお父さんよ。あなたのお父さんで、ルートのお父さんでもあって、お母さんの旦那さんでもある。本の編集をしていて、頭は良いけど目は悪い。すごくカッコいいってことはないけど、とても素敵な人なのよ」
「そのセリフの方が突飛だよっ」
なんかそういうのって、こっ恥ずかしい。劇の練習し立ての頃みたい。
まだ自分の役どころが掴めなくて、言葉を発するのに躊躇いがあったりするあの感じ。
それを見てると、人のことなのに顔が熱くなったりする。
「うふふふっ! そうね。今この場に居ないから言えるのかもしれないわね。でも、そういうのも大事なのよ。口に出したりしなくても、気持ちって言うのはね、少しづつ伝わるものなの」
「そういうもんなの?」
「そうよ」
そうまで自信ありげに言われると、確かにそんな気もしてくるような。
そう言えばこの前、ルーが言ってきた「好きだよ」って言葉もそうか。面と向かって言われたら、言った方も言われた方も顔が赤くなるに違いない。あれは、(フリだけど)眠ってたからこそ聞けたんだ。
それこそが、お母さんの言う『少しづつ伝わった』結果なんじゃないかって、都合よく解釈してみたり。
「だから、リズも言ってみたら?」
「なにを?」
「本当はどんな気持ちなのか、とかかしら」
「え、だって、お母さんいるじゃん」
「お母さんはノーカウントよ♪」
「えー、なにそれズルーい」
お母さんはステルスまで使えるのか。万能すぎる。
まぁ、本当の気持ちって言ったって、そんなに特別言う事もない。「大好きです!」なんて、それこそ、そんなに声を大にして言わなくても伝えられるし。
でもやっぱり、劇には出て欲しい……かな。
「出ようって言ったら、出てくれるかな……」
「さて、どうかしら。どう言えば出てくれるかしらねぇ」
「ルーが王子じゃなきゃやだー、とか?」
「それだと、出てくれたとしてもルーが可哀想なんじゃない?」
「だよね……」
それじゃ、今までとまるで構図が同じ。ルーが私の幸せのために傷つくことになる。
そしたらこれはどうだ。
「一日私を好きにしていいから、出てよ! とか?」
「リズって、つくづく刺激が強いわよね。大胆というか、アグレッシブというか。わかってるとは思うけど、男の子がいるところであんまりそういうこと言っちゃダメよ? 一体誰に似たのかしら……」
「…………」
首を傾げるお母さんに「多分あんただよ!」と、無言でツッコんだ。さすがに、私の頭皮ではそれを伝えられないはずだ。お母さんの大きな胸でも、さすがにそれを勘繰ることはできまい。
それはそうと、これもダメかー。
「やっぱりダメかなー……」
「何よ。やってみればいいじゃない。色仕掛けでしょ? どうせルートなんだから、大丈夫よ。失うものはないわよ」
「なんかそう言われると複雑だよっ」
「自分で言い出したんじゃなかったかしらねぇ」
この人は、結局私にどうして欲しいんだ。
なんていうのは論点のすり替えで、本当のところ大事なのは、私がどうしたいか。お母さんはそれを伝えようと私をおちょくって、感情的になるよう仕向けているわけだ。人は怒ったり泣いたりすると、本音を喋ってしまうものだから。
そう考えると、音楽室で泣いていたルーの言葉は、本音か。
“あの時”の言葉も、そうなる。私も泣いてたな、そう言えば。
なんだ。別に、ルーが泣いてなくてもわかってるじゃないか、私。
「わかった。あとでやってみる」
「そう? それなら応援するわ」
そう言って、お母さんはまた私の頭を撫でた。そんな年頃でもないはずなのに、すごく落ち着く。素直になれる。安心する。答えが見える。お母さんってやっぱりすごい。だって、このままものすごい甘えちゃいたいもん。
そうだ。私もルーの頭、撫でてやるか。
何も学べてないな、私。……いや、冗談だけど。
まぁ、ちゅーの一つや二つくらいしてやってもいいのでは? とは思う。やっぱり、そういう年頃だし。減るもんじゃないし。
「もう大丈夫かも。うん、大丈夫だ。髪サラサラ」
「そう? それならよかったわ」
最後の一撫でまで、お母さんは優しかった。お母さんの優しさが、何の犠牲の上に成り立ってるのか、それを考えるのは野暮だ。
知りたい知りたくないの前に、そんなの知ってもどうにもならない。私はそんなの気にしない。そうやって私が私であるように、お母さんはお母さんなんだ。だからルーもルーであるべきだ。
「お母さん。ありがとー」
「どういたしまして。明後日の劇、楽しみにしてるからね」
「うん」
頷くと同時に、サラサラの髪が踊った。軽く目に刺さりそうだったけど、いち早く瞬きしたから大丈夫だった。
すっくと立ちあがると、少しばかり温まったソファは、未だ母を乗せたまま哀愁を漂わせていた。私の座っていた空間は地味に広かったみたいで、いやに物悲しい。
「おやすみ。リズ」
「うん。おやすみ」
お母さんが言い放ったその言葉でもって、私は漸くその場を離れられた。
廊下に出ると、少しだけひんやりして、また眠気が到来した。
でも、まだ眠るわけにはいかない。
私は階段を上がって、また廊下を行く。そして懐かしい道を通って、昔の二人部屋――ルーの部屋の前に辿り着く。
思えば、ルーの部屋で二人きりになるのは、部屋が別れて以来か。記憶から変わっていないはずの場所なのに、色々と様子が違うような感じがする。
ドアは見上げる程大きかったような気がするのに、なんか「普通のドアだ」みたいな普通サイズだし。廊下の突き当りはもっと真っ暗で怖かった気がするのに、今はそんなことないし。天井にあった顔みたいな木目は、もう見つからないし。
何より、ノックしないと部屋の扉は開かないし。
そんな当然の時間の流れを代償に、私は、私たちは成長しているんだなぁ。なんてしみじみ感じたり感じなかったり。
兎にも角にも眠いから、結論は急ぎたいところなんだけど。ノックをするのにこんなに勇気がいるとは。
やっぱり、これからやろうとしてることを頭がわかっているからなんだろう。
この前お風呂に侵入しようとした時も、なんかすごい緊張して断念しちゃったし。……あれ? 断念しちゃったっけ? 断念というか、そもそもそんなことしたっけ。してないか? してないな。
まぁ、それはいいとして。
さっきからこうやって、私の右手がルーの部屋のドアの前中ほどで止まって動かないんだけど。
このまま振り下ろしてしまえばいいだけなのに、そうならないようどこかで逆方向に力が働いてるみたい。どうしよう。
手よ動け! 手よ動け! みたいな一人芝居はあまり得意じゃない部類だけど、演技じゃないからすごく迫真だと思う。一体誰の真に迫るのか知る由もないけど。
いや、あった。
ルーだ。
私はそのためにここに――
「えっ?」
「私、何のためにここに……?」
唐突に耳へと飛び込んできたルーのセリフは、私にそんなセリフを想起させた。
でもそれは、ルーの書いた言葉であり、ルーの考えた心情であり、他でもないルーの本音だった。でも、私もその言葉を知っていた。
「な、なんで……? だって、えっ、それ……」
だからこそ私は――“私”は何のためにここに来たのか、その理由がわからなくなった。
「私の……セリフ…………?」
【あとがき】
次回は……どうしましょう。




