Ⅰ The Neighborhood of Traveling Hearts.
【まえがき】
アリス編です。
今章は、オムニバス作品であることが如実に現れる章でもあります。視点がコロコロと替わっていくので、感情移入が単純に難しくなっています。
ですが、感情移入することができれば、物語の核心が見えてくると断言できます。
では、本編をどうぞ。
「どうしたの?」
「あ、あの、あの……」
円らな瞳で、無垢な心で訴えてくる。それぞれがあたしの心を上手く掴んで、絡みついて離れなかった。ただ、そもそも咎めるつもりなど無かったから、一方的に言葉を浴びせようとは思わない。
「…………」
アイスリンクへと身を乗りだすカーリング部マネージャーの頭は、非常に撫でやすかった。引き寄せ合う磁石のように、髪を梳く右手に頭が吸い付いてくる。以前、「そんなに心配しなくても、急にやめたりしない」と言ったことがあったけれど、[これがノアの思う恋人]と思われたので、そういうことにしている。
そう言う意味では、今こうして部活中に恋愛を愉しむのは如何がなものかしら……と、誰かしらに苦言を呈したくなる。
「わかったわ。最近、朝も早いし、寝るのも早かったから。ノア、あなた、欲求不満なのよ」
「よ、欲求なんて……! ノア、アリスといられるだけで幸せだし……」
あたしは、この子のすべてを知ることができる。望むことも望まないことも、事実も虚偽も。だから、腹の底に抱えた黒い感情の正体も、あたしの意識から認識できる。
人間だから、時折、道理から外れた論理を考えついたりもする。比較対象が無いから、ノアを憎むことなんてできやしない。ましてや、ノアのことは嫌いになれない。あたし自身、どこかでノアを求めているから。
だからこそ、あたしはノアの求めるものに答えようとするのだ。
あたしがいつまでたっても解り得なかった『欲求』に気付かせてくれたのは、ノアだったから。『誰かの言いなりにはなりたくない』、『大切な人と一緒にいたい』という大きくて黒い感情に、あたしは気付けたから。
「隠し事が下手ね」と冗談を交えて、あたしはノアの望みを聞き出す。あくまで、あたしが叶えるのは『形の無い願い』ではなくて、『ノアが本当に求めるもの』。実際に、それをノアの口から聞きたいのだ。
「あたしに何をしてほしいのか言ってみなさい。みんな聞いてないから、大丈夫よ」
ノアは、周囲を二度三度確認してから、尚も耳打ちを誘ってくる。
人前でキスをしようとしている人間が、随分と慎重だこと。
「あ、あのね……。劇、出たいなって……。アリス、と……」
それは用意されたセリフだった。この時まで、何度も何度も推敲されてできた完璧な文句だった。そしてそれは、あたしの選択肢を著しく削った。
「劇ね……。別にいいわよ」
「ほんと……!?」
「ええ。でも、動機が不純ね。ノアらしいけど」
「だ、だって……!」
「はいはい。わかってるわよ」
何か言いそうにするのを、ぐしゃぐしゃと強引に髪を撫でて妨げる。
部活中なのだから、これ以上くだらない話をするのはよくない。ノアにしてみれば、くだらなくも無いのかもしれないけれど。
そろそろ頃合いだと、その場を後にしようとした時だった。
『生徒会より連絡です。カーリング部のノアさん……ノア・グリニッチさん。一七時になりましたら、生徒会室まで来てください。……以上です』
若干のあどけなさを含んだ放送は、暫くの間巨大なアイスリンクに反響していた。それが小さく、そして聞こえなくなるまで、リンクには静寂が生まれていた。
カーリング部と聞いてはっとしていた部員たちも、自分に関係ないことがわかると練習を再開し始めた。また、ストーンのぶつかり合う鈍い音が響きだす。
重く響く音に埋もれそうな小さな声で、主張する人物がいた。
「ノア、悪いことしてない……」
「どうせルートが適当に呼んだだけだから、気にする必要ないわ」
放送という合図だけでそう確信を持てるのは、せいぜい『人の心の中がを見ることができる』人だけだ。
あたしは、不安を隠せないでいるノアに一言、言い添える。
「あたしのノアに何の用かしら」
その瞬間、ノアの心は緩む。
その瞬間、あたしの心は淀む。
『願い』とはそういうものなのだと、最近つくづく思う。
△▲△▲
「ごめんね。部活中だったのに」
「ううん。大丈夫……。それより、ノア、何すればいいの……」
黄昏た夕日でできた桜の影に沈み込むように小さくなりながら、ノアは贖罪のことを考えていた。場所を屋上に変えるように伝えたのは正解だったけれど、やはり一人で行かせたのは間違いだったか。
「いやいや、別に何もしなくてもいいんだよ! 悪いことしたわけじゃないんだから!」
「そ、そうなのかな……」
相手が人の良いルートだから、何とかなるとは思うけれど、不安ではある。ノアが泣きだしたら、ルートになす術はないだろうし。……泣き出すって、子ども扱いしすぎよね。
「そうだよ! だから、大丈夫。安心して」
「う、うん……」
「ただ、話がしたいなって。それだけなんだ」
「それだけ……なのに、放送、使っていいの……?」
確かに。
まぁ、致し方ない状況ではあったかもしれない。そう考えると、圧力のかかった状況を作り出したあの会長に非があるのだろう。
あたしはどうも、ああいうタイプは苦手みたいだ。考えなしに首を突っ込んだり、面白いってだけで決断をしたり。理解しがたい。クラスメイトの誰それと話をしていると、そんな嫌悪感に駆られる。
ということは、真逆の性格と言っても過言ではないノアのことは好きなのかもしれない。本当に胸がどきどきと音を立ててしまうような特別な情緒をもって、時々、そう思う。そしてそれをあたしは、おかしく思う。
「なんだかよくわからないけど、大丈夫らしいよ。会長が言うには」
「ふ、ふぅん……。さっき、ルート、会長さんの好きなところ言ってたけど、あれもいいんだ……」
「えっ?」
「そうだ。話って、何の話……?」
聞き捨てならないぞと聞き返すも、華麗に流されてしまう。ルートは最近、ノアの天然が一番怖いと思っているらしかった。
ルートは言いづらそうにしながらも、口を動かす。会長のミッションのついでにノアを呼んだのではないということを、あたしは知っている。
「あ。いや、大したことじゃないんだ。ちょっと気になっちゃって」
「……なにが?」
ルートは大したことじゃないと何度も言いながら、大したことを言う。それは、ノアにとってもルート自身にとっても、もちろんあたしにとっても大したことだった。
「ほらさ……。サクラが『【魔法】を使えるのは願いの夢のおかげだ』って言ってたこと、気になって仕方なくて……」
ルートは視線をノアの背後の観葉植物に映して、ぎこちない素振りを見せる。それでもあたしの感覚は、『願いの夢』という言葉だけ綺麗に抜き取ったかのように、確りと聞き取っていた。それはきっと、あまりにも言い慣れ過ぎているからなのだと思う。
わざとらしさが露呈しないように、ルートは口早に言葉を重ねていく。
「その時さ……。ノアさんも言ってたよね。『願いの夢』を見たって……。あ、違うよ! ノアさんが間違ってるとかおかしいとか、そういうのじゃないんだよ! ただ、サクラさんみたいに【魔法】が使えたり、現実に影響があるっていうのは、もしかしたらすごく恐ろしいことなのかもって思って……」
「それはそう、かも……」
ルートの言うことは正しい。【魔法】なんて摩訶不思議な力を行使された暁には、その力を求めて世界中が戦争を始めてしまうかもしれない。
でも、ノアは違う。
ずっと不幸だった自分に漸く訪れた『幸せ』なのだと――それだけなのだと思い込んでいたノアにとってみれば、ルートの論理は否定に値する。
そういう二つの意見があるからこそ、ノアもサクラもルートも、無論あたしも、『願いの夢』を見たということを、ひた隠しにしてきたのだ。サクラというスリリングな登場人物がいなければ、ノアの願いも永久にあたしとの秘密で終わっていたのだと思う。
けれど、知られてしまった。
そして、知ってしまった。
――『願いの夢』を見ている人は、自分だけではない?
疑問が確信に変わった瞬間、あたしの中には一つの懸念が芽生えていた。
人間の欲望には良し悪しがある。しかし、大きな欲望には大きな代償が必要になる。では、今回のように代償がなければ、人は一体何を望むのか。
あたしの恐れるものは、今、ルートの恐れているものとイコールで結ばれるのだ。
「もし、さ。ノアさんやサクラ以外にも、同じ夢を見ている人がいて、その人たちが悪いことを願ったら困るなって思ったんだ。良いことだと思って願ったことが、本当は悪いことだった、なんてこともあり得るだろうし、ね……」
ルートはぼそぼそと呟きながら、真っ黒い自分の影を見ていた。黄昏の明るさでは、ルートの後悔を照らすことはできない。小さく笑うルートは、ノアの目に安寧を映した。
「ふふっ。ルートって、すごいね。ノア、みんなのこと考えたりできないもん。本当に『願い』が叶うんだってなったら、絶対、自分のことお願いしちゃうから……。ほんとに、そう、だったし……」
でも後悔はしていないのだ、とノアは伝えようとした。
「…………」
けれどそれは、ルートも知っていた。
「…………」
だからだろうか。沈黙は、二人の心を傷つけはしなかった。
「そ、そうだっ! 今年の文化祭の劇、なにやりたい?」
「え、うーん……。アリスと出るなら、なんでもいい、かな……? あれ? 劇の内容、ルートが決めるの?」
「そうみたいなんだ。本当は会長が決める決まりになってるんだけど、せっかく一年生が副会長だからって僕に振るなんて……」
それは、放送を終えた直後、会長から言い渡された試練だった。あの生徒会長の考えることだから、気まぐれでやっているのかもしれないが、ルートはそうは思っていなかった。
ルートはある程度の尊敬の念とともに、絶大な信頼を会長に寄せていた。だからこそ、その話を聞いたとき真っ向から拒むことはしなかったし、むしろ、内心期待してもいたのだ。
ノアもルートの表情を覗きこんで、その一家言に気付く。
「でも、ルート、嬉しそう……」
ルートは細やかに微笑んでいた。口角が少しだけ上がっていた。きっと、頼られているという実感が無意識のうちにそうさせるのだと思う。
ルートは恥ずかしげに頬を両手で挟み込んで、「か、顔に出てた?」と確かめた。ノアは「うん」と頷いて、一つ笑った。
そういう自然な微笑みが、二人の間にゆっくりと流れていた。
笑顔に対する答えは、笑顔しかない。そう知っているはずなのに、あたしにはできなかった。そしてあたしは、それが――笑えない自分が怖かった。
そう思うと、今の二人が羨ましくなる。覗き見ている自分が、本当に屑な人間なのだと、いたく実感する。
「ね、ルート」
「ん?」
「ルートがお話、書いてみたら?」
「僕が脚本ってこと?」
「うん」
「無理無理無理! 絶対無理だよ! 大体、会長が――」
ルートは両手を大きく振って、拒絶の意を示す。
けれども、生徒会長はそれを拒絶しないだろう。
「ノア、そんなことないと思うの」
「えぇ……いや、だって……。えぇ……。どんな話を書けばいいかなんて、皆目見当もつかないし……」
「ルートのお話、書けばいいんだよ」
毎晩寝る前に、ノアと話し込んだことが思い出される。
下らない話や真面目な話、昔の話、二人のこれからの話……。いろんな話をした中には、もちろんルートについての話もあった。『ルートの心を覗ける』ようになったあたしにしかわからないこと以外を、ノアの満足がいくまで話した。
結局笑い話にしてしまったけれど、ノアの心には何か響くものがあったようだ。
笑い話にされたことを知らない本人はと言えば、頭にはてなを浮かべて、心中過去を顧みていた。
「ぼ、僕の話……?」
「うん。ルートのお話」
「うーん……。果たして、お話にするようなことなんかあるかな……」
ルートは左斜め上の小枝に視線を移して、深く考え込んでしまった。遡れる限界まで記憶を辿って、何かないか何かないかと模索していた。
気になったのか、ノアもルートと同じ小枝を一瞥した。ただし、感じたのは懐疑心ではなく、[そろそろ暗くなってきたなぁ……]という若干の焦りだけだった。
ノアは結論を急ぐ。考え詰められたその言葉には説得力があった。
「ノアね。ルートに会えて、本当に良かったって、そう思ってるの。アリスと仲直りできたのも、ルートのおかげ。同じ学校に行けたのも、アリスの家に居られるのも、毎日が楽しいのも、ルートのおかげ、だと思うの……」
「ノ、ノアさん、そんな、どこか行っちゃうみたいなこと言わないでよ……」
「あぅ……ううん。違うの。それをお話にしたら、どうかな、と思って……。アリスは恥ずかしいって言うかもしれないけど、ノア、すごく嬉しかったから」
ノアの脳内には、すでに劇のヴィジョンが出来上がっていた。
でも、その劇の展開は、あたしの予想したものと大きく違っていた。
「そしたら僕は、僕役?」
「うん」
「アリスもノアさんもそのまま?」
「うん……」
「主人公は誰がやるの?」
主人公は、お姫様と王子様。そして最後は口づけを交わす。そう決まっているのだと、誰かが言っていた。
だとすればノアが望むのは当然、お姫様だと思っていた。あたしには王子様役をやらせるつもりでもいただろう。
けれど、違った。
「ルート」
「え?」
ノアは、鈴の音のように透き通った声と、ぶれることのない真っ直ぐな瞳で主役を捉えていた。そこには一点の曇りも無く、下心に淀んでいるということも無かった。
「ルートが主人公」
「僕、なの?」
「うん」
「ノアさんじゃなくていいの? アリスと一緒にやらなくても――」
「大丈夫……。それより、ノア、ルートに主役やって欲しいの……」
それがノアの答えだった。
あたしに伝播してこなかったその思いは、あたしに多大な驚愕をもたらした。それと同時に、ノアのことを知った気になっていた自分が、心底恥ずかしかった。
ノアは純粋な気持ちをダイレクトに表現した言葉を紡いでいく。
「ノア、アリスと一緒に劇できるだけで嬉しい……。けど、それと同じくらい、ルートが……友達が、主役をやるの、嬉しい……。う、嬉しいというか、なんか……! うぅ……わかんない……」
適当な言葉が見つからなかったようで、言い淀む。けれど、ノアはそれも誤魔化したりはしなかった。
今あたしが屋上にいれば、ノアの気持ちに毒をおり混ぜてルートに伝えてあげるのだろうけれど、今回は無理かもしれない。
――ノアの気持ちが掴めない。
それはノアとの心の距離が離れているからだった。いつものあたし中心な考えじゃなくて、本当に他人のことを思ってのことだからこそ、そうなったのだと思う。
今回は、ルートのこと。
あたしはそんな些細なことが、どうでもいいはずのことが、心底悔しかった。自分の思い通りにならないことが、これ以上ないくらいに怖かった。そして、そんな自分が、本当に嫌だった。
認めたくないだけかもしれないと、自分を律する自分もいた。それも理解した上で、心のどこかで認めるのを拒んでいた。でも、どうして拒むのかは疑問のままだった。
――嫉妬しているのかしら。あたし。
要は、あたし自身が主役を――王子様役をやりたいと思っているということ。それはまさしく、ノアの望む形。
それを裏切られたから、妬いているということ?
思考が深け込むほどに、ストーンのぶつかり合うリンクの音が遠退いてゆく。このままいくと、昏睡しているのと同じ抜け殻になってしまう。
本来、人間は一つの自意識しか持つことができないからなのか、どちらかに意識を集中しすぎると、もう片方の情報はシャットダウンされてしまうようになっていた。アリス・ナイブスという自意識から乖離しすぎれば、アリス・ナイブスの体は気を失っているのと同じ、無意識状態になってしまうということだ。
さすがにそれはまずいと判断して、あたしは飛んでいた意識を急いで自意識へ近づけた。
そうしてアリス・ナイブスに帰ってくる途中、あたしは――アリス・ナイブスは躓いた。あたしという広い精神世界をゆらゆら漂っていた意識は、仰天して何かにしがみついた。
その瞬間、考えた。考えてしまった。
△▲△▲
――今のあたしって、本当にあたしなの?
▲△▲△
――ルートの体の動かし方も、ノアの独創性も、全部知ることができる。ここ最近は、ある程度なら行動の予測もできた。
△△▲▲
――それは、ルートなの? ノアなの? あたしなの?
△△△▲
躓いた時、傍にあった石ころのような感情が、羨望とか嫉妬とか人間の欲望そのものだったから、多分そう感じてしまったのだと思う。
あたしはあたしなんだ。ルートが、ノアが、そう教えてくれたのだ。
あたしはそう持ち直して、重いストーンを投げた。
ストーンは氷上を真っ直ぐと進んでいき、前の人が投じたストーンにぶつかった。ぶつかったストーンは鈍い音とともに場外へと撥ねた。慣性で進んでいたあたしのストーンは見事に場内に留まり、どっしりと中心に腰を落ち着けた。
ふぅ、とため息が出た。
部員たちの「ナイス」という声が聞こえて、あたしは少し嬉しくなった。
少し。
少しだけ。
ほんの少しだけ、胸糞悪い。
【あとがき】
一言で言うと、モノローグストーリー。
アリス編に情景描写が多くなるのは、『願い』の副作用でもあります。
同時に三人もの意識を所有しているのですからね(自分含め)。
努力家で決断力も兼ねたアリスだからこそ、自分を見失わずに使いこなせる能力なのだと思います。相手の気持ちを知ると言うことは、時に恐怖ですからね。ルーモスⅡを読んだみなさんは、そんなアリスの苦労がわかると思います。
次回は〖サブエピ〗かルート編あたりを。




