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Ⅴ 春、自らを知る。

【まえがき】

 期待に応えるという重圧。

 それを糧にできたら、プロフェッショナル。


 本編です。




 

 

 

「ただいまー……」

 疲れ切った弱々しい声では、誰にも届かないだろうと思った。けれど、リズが階段を下りて玄関まで来てくれた。ドアの開閉音に気付いてくれたのだろうか。

「お、おかえりー」

「うん。ただいま」

 対話後、三秒ほど僕の様相を確認したと思うと、リズはそそくさとダイニングの方へ早歩きで退散してしまった。

 それからすぐに、ダイニングから母が出てきて、玄関までやってくる。

「おかえりなさい」

「ただいま」

「泥だらけねぇ。お風呂湧いてるから、先に入っちゃいなさい」

「うん。そうするよ」

 リズがそっけなかったのは、白い運動着がほとんど茶色に染まっていたからだろうか。汗臭いのもあるかも。

 靴を脱いで家に上がると、母が何やらニヤニヤして嬉しそうにこちらを凝視していた。

「な、なにっ?」

「何でもないわよー? うふふふっ」

「そ、そう……」

 腑に落ちなかったけれど、嬉しそうだから良しとしよう。

 廊下に歩みを進めると今度は、廊下の突き当りのダイニング入口のドアの影から、リズがこちらを覗いていた。

「な、なにっ?」

「なんでもないよっ」

 一体なんなのだろう、この監視されている感じは。何か、僕に関する変な噂でも流れているのだろうか。家の中限定で、というのが考えにくい。そもそも、噂は家の中に伝わりにくいものだ。

 そういえば、アリスに頼まれていた噂について、何も手がかりを掴めていないな。わかっているのは【一不思議】と呼ばれる、怪談話みたいなものが幾つかあることぐらい。それも、保健室が消えるとか、水着で登校とか、胡散臭い話ばかりだった。

 信じるに堪えないけれど、僕自身『世界をやり直している』という不条理を抱えているから、どうにも否定できない。

 もし、本当にそれらが起きているとして、一番得をする人間を探せばいいわけか。

 いやでも、しかし……。水着って……。保健室って……。いくら何でもカオスが過ぎる。

 一体、誰得ですか。


 ……って、ダメだ。


 頭が休息を欲していて、全く働かない。考えるのは後にしよう。

 物凄い見られている気がするけれど、汚れたままも嫌なので、潔く風呂に入ることにしたい。今日は湯船に浸かりたい気分だ。

 洗面所の鏡に映った泥だらけの自分を見て、何となく後悔した。

 でも、もう決めたから。これは、立ち向かうことじゃなく、避けることだって知ってるから。

 僕は泥だらけのそれを脱いで、洗濯機の中に放り込んだ。

 もう一度鏡を見るのは、怖くてできなかった。


「脱いだよ」「脱いだわねぇ」


 洗面所と廊下を繋ぐドアから、二人が覗いていた。

「え!? 着替えも見るの!?」

 気が動転して、僕はツッコんでいた。頭が働かないのは恐ろしい。

「見るよね」「見たい見たい」

「人の着替えシーンをそんなまじまじと見ないでよっ!?」

「見てないよ」「見てないわよー」

「いや、見てるよっ!? もう、閉めるからねっ!」

 そうして、洗面所のドアに鍵をした。鍵穴とかからも覗いてそうで末恐ろしい。

 どうなっているのだこれは。一体、何の噂が流されているんだ。

 なるほど確かにしょうもない。もしかすれば、これがアリスの言う【一不思議】なのかもしれない。

 僕は、落ちていた衣服を鍵穴に掛けて、浴室へと急いだ。



     ***



「準決勝出場おめでとーっ!」


 ダイニングに入るなり、リズに叫ばれる。母も、その後ろで拍手をしていた。

 イマイチ、ピンと来なかった僕は、「わ、わー」と適当に流して、食卓の自分の席に着く。僕の後を追うように、リズと母も定位置の席に着いた。初めから座っていた父は、いつも通り左手には夕刊が、右手にはコーヒーカップが握られている。

 普通じゃない、不思議な空間の中で、相も変らぬ父の佇まいは、頼もしかった。

 ちょうど向かいに座っているので、何気もなく尋ねてみる。そう、いつものように。

「お父さん。リズとお母さんの様子が変なんだけど、何かあったの?」

「ルートが準決勝に勝ち進んだからじゃないか?」

「そうなんだ」

 あまりにそっけないので、一瞬、口から出任せを言っているのかと思った。けれど、父はいつも通りらしかった。

 安心する暇もなく、隣に座る非日常は僕に襲い掛かってくる。

「そうだよって、さっき言ったじゃん!」「そうよ。おめでたいことが起きたら、祝わなきゃでしょ?」

「そ、そうだけど……。急に、なんで……?」

 なんで、こんなに豪華な食事が出てくるのだ。なんで、このタイミングなのだ。

 もし仮に、この状況がアリスの言う【一不思議】なら、この僕の問いには誰も答えられないはずだった。

 けれど、答えはきちんと返ってきた。犯人の名前とともに。

「さっきね。アリスお姉ちゃんから、『ルート、準決勝までいったわよ』って連絡があってね。何かサプライズしないとって、思ったの!」

「アリスの仕業か……」

 自然、ほくそ笑んでいる策士の姿が思い浮かぶ。

 余計な気遣いをさせたくないと思って、「秘密にしておいて」とアリスに忠告したのが悪かったのだろう。

 はぁ、と小さく息を吐く僕に、母は無駄な気遣いを回してくれる。

「今日のパスタ、全部リズが作ったのよ」

「そうなんだ」

「そうだよ!」

 ふと見てみれば、テーブルの上にはパスタが四つ並んでいて、それぞれ白黒赤緑と彩り豊かだった。

 気持ちは嬉しいけれど、タイミングというものがある。

 リズの方を向けない僕は、それを母に訝ってみる。

「でも、まだ準決勝だよ……?」

「もう。そういう細かいことは気にしないの。前祝いだと思えばいいでしょ。それに、まだ(・・)ってことは、優勝も狙ってるのね? 頼もしいわぁ」

 そう大言する母の前には、クラムチャウダー風のソースがかかったパスタがあった。淡いクリーム色は、少しばかり大人しくも、確かに周囲へと彩をプラスしていた。

「さすがルーだね!」

 依然テンションの高いリズのところには、トマトソースのパスタがもうもうと湯気を上げて佇んでいた。その赤さもその湯気も、リズの存在感にはかなわない。

「そ、そんなことは……」

「ほら見て! お父さんだって、コーヒーカップを持つ手が小刻みに震えてるでしょ? 喜んでるんだよ、きっと!」

 リズの指さす方を見てみれば確かに。コーヒーの水面が波立つほど小刻みに震えている。心なしか、夕刊のページをめくるのも早い気がする。

 唯一いつも通りだと思っていた存在が、非日常に飲み込まれた瞬間だった。

 これでもかというほど緑に染められたオリーブオイル仕立てパスタが、段々と毒々しく見えてくるのも、おそらく気のせいではないだろう。

「ね? 準決勝だもん。すごいよ!」

「そうよ。お母さんもすごい嬉しいわ」

 そんな羨望と期待を寄せられて、「勝つつもりはなかった」と言えるはずもない。

 だから僕は、苦手ながらに作った笑みを浮かべて「偶然だ」と言い張るしかない。

「またそんなこと言ってー!」「ルートは昔から謙遜するわよねぇ」

 家族の喜びが膨らむ度、僕の自問自答は肥大化していく。答えの出ない不安からくる苦悶がまた、この不可思議な空間を(ひし)と感じさせた。『一体何の偶然なんだ』、『あれは本当に逃げていたのか』、『“あの時”誓ったはずではないか』、と。

 目の前にあった黒い出汁(つゆ)を見ていると、自分の中にある闇まで洗練されていくようだった。その黒の中で感じることのできるわずかな金色(こんじき)の部分を探して、僕は箸を手に取る。

「これ、パスタじゃないよ……」

 僕はそうぼやいて、眼前の暗黒を飲み込んだ。一瞬凍結した空気は、僕が蕎麦を啜る仰々しい音によって、また流れ始める。

 勢いよく啜れば啜るほど、その黒も絡みついてくる。それは、ただしょっぱいだけじゃない。何らかの風味も感じさせてくれる。そのバランスにこそ、面白さというものが存在している。心からそう思う。

「おいしい?」

「うん。美味しいよ」

「よかったわね。リズ」

「よかったー!」

 そうしてな無くなっていく(いろどり)に、僕はごくごくありふれたものを感じた。

「ごちそうさま。ありがとう、リズ。お母さんも」

「どういたしまして!」「お粗末様です」

 その後僕は、暫くの間、ダイニングのソファに座っていた。何をするでもなく、ただただその空気を感じるために。

 リズと母が食器を洗う音が聞こえた。父がコーヒーを啜る音が聞こえた。天窓には大きな金色の満月が見えた。何の匂いもしなかった。普通だった。

 “あの時”に間違って味わった敗北の苦汁は、今日という日に、腐って甘くなっていた。


 ――もしかしたら、今度は勝てるかもしれない。


 そんな邪で甘ったれた考えは、もう捨てよう。

 僕は逃げると決めたのだ。

 アリスに電話しようと思った。



     ***



『なによ、こんな夜遅くに』

 執事に取り次がれた電話から聞こえてきたのは、してやったりの含み笑いではなく、夜分に電話してこられることに対する嫌悪からくる不機嫌だった。

 迷惑承知で電話したのだ、アリスだって同じはず。でなければ、わざわざ取り替わったりしないだろう。

 だとすれば、眠いだけなのかもしれない。

「それはごめん」

『まぁ、いいわよ別に。息抜きにもなるし』

 電話口から、ふぅ、と陰気な音が聞こえた。

 何か、根を詰めて作業でもしていたのだろうか。

 僕の憂慮を断ち切るように、『それで?』と脅される。何も悪いことはしていないはずなのに、悪いことをしているような気分になる。

 そんな理不尽に対する不満を糧に、放言してやろう。

「アリス、さっき(うち)に変な電話したでしょ」

『変な電話? 何のことかしら』

「秘密にしてって、言ったじゃないか……」

『ああ。そのことね。忘れてたわ』

 忘れていたような口調ではないし、もとよりアリスが約束を忘れてしまうような人ではない。このそっけなさは、故意だ。

 それはつまり、「わざとでしょ!」と憤るに値する。

 音が響きやすい廊下であることを考慮して、小声ながらに声を荒げた。若干しゃがれて、喉が痛かった。

『だったらなによ』

「何って……、そりゃさぁ……」

 こうまで開き直られると、どうしていいかわからなくなる。その上、アリスに不要な忠告をした自分が悪いようにも感じられる。というかすでに、不要と思ってしまっている。

 こうなると、心から「もういいや……」となる。

『そう? 話はそれだけ?』

「そうだよ……。突然夜遅くに電話したりしてごめん」

 結局、謝ってしまう。アリスには、本当に敵わない。

 潔く負けを認めて電話を切ろうとすると、アリスが繋ぎ止める。

『それはそうと、ルート』

「どうしたの?」

 急にアリスが黙り込むせいで、風呂場からリズの鼻歌が聞こえてくる。電話が置いてある場所が洗面所のすぐ近くだから、当然だ。

 途中から聞いたから、何を歌っているのかはわからないけれど、ものすごく嬉しそうな声色だった。何か良いことがあったに違いない。

 リズが嬉しいなら、僕だって嬉しい。

 けれど、その良いことが、必ずしも僕にとる良いことだとは限らない。

 アリスは達観したように言う。


『あなた、後悔してないわよね?』


「してないよ」

 僕は、即座に答えた。

 でも、「何の話だ」と返すことだってできたはず。そうすれば、白を切ることができる。この話を終わらせることができる。それが、逃げると言う選択のはずだ。

 それなのに。

『そう。それならなおさら変ね』

「そうだね……。僕、ものすごく変かもしれない」

 ああ。変だ。

 誰も幸せになれないのだから二度とやるものかと、“あの時”に誓ったはずなのに。ある一人の少女に導かれて、逃げるために戦った。それは、目の前に立ちはだかった大きな壁を避けて通ることだと思ったから。そうすることで、苦しむのは自分一人で済むし、その少女の苦しみを理解してあげることだってできる気がしたから。

 それなのに、僕はどうして。


 ――どうして、こんなに幸せなんだろう。


「ねぇ、アリス」

『なにかしら』

「僕、どんな顔してた……?」

 何時間か前まで僕は、紛れもなくあのフィールドにいた。

【一不思議】など、些事な諧謔に聞こえてしまうほど大きな、大きなグランドに。

『そうね……』


 その瞬間、僕は、わけもわからず笑った。


「あはは……っ。そうだよ、ね……」


 これは、泣いているとも言うのかもしれない。



 

【あとがき】

 “あの時”についての逡巡、さらに捗って参ります。

 こういう、同一作品でしか通用しない専用単語、私は好きです。

 宛て字とか造語も好きですが、「その時間」とか「この場所」とかそういうニュアンス的なネーミングがいちばん好きだったりします。あのとかそのの指すものが人によって違うのが、面白いです。

 あれこれそれどれの、距離感とかも皆違いますしね。



 次回はサブエピ、かも?

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