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Ⅳ 春、心覗かば。

【まえがき】

 サクラファンの皆さまにはむむむっ!?なイベント目白押しの今回は、球技大会の真っ最中でございます。

 皆様自身の推理も加味しながら読んでいただくと、面白いかもしれません。



 どうぞ本編です。




 


  

 暑くもなく涼しくもない。

 そんな当然の空気の中に、風が運ぶ春という新鮮な香りだけが浮いていた。今まで生きてきた中で十五回しか感じたことはないはずなのに、それがいつも隣にあるように、僕の鼻は過去を懐かしむ。

 そんな新しいフィールドの上で、僕自身も新しくなれたら。なんてことを、熱くもなく涼しくもない応援に包まれながら、思うのだった。

 その応援の影には、アリスとノアの姿もあった。

 アリスはいつものポーカーフェイスで、ノアはその後ろに隠れて「が・ん・ば・れ」と口を動かしているように見えた。

 僕は一つ愁いの息を吐いて、自分のチームメイトの方を見据えた。

 ディフェンスラインはかなり防御寄りで、カウンターには向いていない。少し大人しそうな女の子が二人と、何かお喋りをして笑っている男子三人が配置されている。その奥には、野球部らしく体格のいいキーパーが、屈伸前屈と準備体操をしていた。

 ミッドのラインは、クラスの中でムードメーカーと呼ばれる男子二人と、同じく明るい性格でクラス盛り上げている女の子が一人、務めていた。こちらも何か話をして盛り上がっている。

 全体的に明るいクラスなのだと、改めてわかる。三年生という大敵を前にして、こんな余裕を見せられると、少し不安にはなるけれど。〈すでに諦めているのでは?〉と。

 そんな根拠のない自若の中で、一際目立っている少女がいた。

 その少女は僕の隣で、悠々とセンター位置に仁王立ちしていた。腰に手を当ててて、胸を張って、髪を靡かせて。まさに体全体で風を受けている感じだった。

 でも、その表情はなぜか『確信』に満ちていた。


『それでは! これより、球技大会第一回戦を開始します!』


 生徒会放送係のアナウンスを皮切りに、会場からは涼しさが消える。歓声はアナウンスをもかき消す勢いでヒートアップして、ただの音の塊になっていく。その塊は、僕の中にあった一抹の不安すら、吹き飛ばしてしまった。

 彼女の『確信』も、吹き飛ばせればよかったのに。

 第一回戦で三年生とあたってしまうという幸運を、僕は彼女の涙に隠そうと、そう思っていた。

 最低なことだとわかってはいたけれど、それしかなかった。

 僕が今からサッカーをしても、誰も幸せになどなれない。

 ただ一つ、僕が、敗北を悔やむ彼女の『願い』を叶えてあげられればそれでいい。僕が彼女に逃げ道を与えるのだ。

『体育館優先使用権を手に入れること』。それだけでいいのだから。彼女の『願い』は、たったそれだけのことなのだから。

「サクラさん」

「なんじゃ、るーとや」

「頑張ろうね」

「…………」

「サクラさん?」

「そうじゃの。頑張るのじゃ!」



 会場のガヤが鎮まると、盛り上がりの合間を縫い合わせるようにホイッスルが鳴った。



 少女は僕の方へとボールを転がしてくる。僕はパスを受けて、フィールドを見渡す。少女はすでに走り出していて、相手ゴール前のディフェンスの薄い位置へと、瞬く間に移動していた。相手の三年生のフォワードは様子を見ているだけで、僕の方へは近づいてこない。

 こんな展開、死ぬほど練習した。汗と泥でベトベトになるくらい、失敗した。上手くなりたくて、一番になりたくて。喜んでほしくて、笑っていてほしくて。

 だから、涙を流して――流させてしまった“あの時”、僕の試合は終わったのだと思っていた。二度とやりたくないと思っていた。

 でも、笑ってくれるのかもしれない。

 今だけは、そう思っていたかった。

 彼女の『敗北への確信』という表情に懸けて。



 そして、終わったはずの僕の試合は、また、始まる。



     △▲△▲



『し、試合終了ー!!』



「はぁ……はぁ……。か、勝った……?」

「はぁ……。そのようじゃな……」

 驚愕の表情を浮かべている相手チームとは正反対の表情を、サクラは端的な言葉で表現していた。肩で息をしているという疲労感だけが、かろうじて周囲と馴染んでいる。

 本当に彼女の望むものは優勝しかないらしかった。試合中の行動スピード、行動範囲、そして終了後のつまらなそうな言動、そのすべてがそれを物語っていた。

 盛り上がりを隠せないでいるクラスメイトたちは、見事にサクラをフィールドから浮かせていた。

「すげっ。俺ら勝っちゃったぜ?」「やばいな」「しかも、相手、優勝候補らしいぜ?」「あの二人がいれば優勝なんじゃね?」

「わたし、なんにもできなかったわー」「そんなことないよー。めっちゃパス出してたじゃん」「あの二人にさえボールを渡せば、ほぼ決まっちゃうからねー」

 なんだか、ものすごく注目を浴びている気がする。

 サクラには悪いと思いながらも目立たないように手を抜いていた手前、不本意であった。

 ふと観客席の端の方へと視線をやると、アリスとノアが拍手をしていた。ノアは嬉しそうな表情でいたけれど、アリスは相変わらずだった。

 この一瞬で、様々な表情を見た気がする。

 その中で、自分は一体、どんな表情をしているのか。もし、鏡があったとして、僕は本当にそれを覗くことができたのか。

 ほんの少しだけ、謎だった。


『なんと! 優勝候補の三年生が、一年生に負けてしまうという急展開で球技大会は幕を開けることとなりましたー! 最後の球技大会だった三年生方は残念でしたー! ……が、しかし!! 何が起こるかわからないのが球技大会であり、それはまた人生の一部でもある! 奇跡だって何だって起こっちゃうんです、この世界!! では、そんな運命のようなものを信じて、次の試合に行ってみましょー!!』


 小気味のいい語調でもってアナウンスされると、会場からはただの轟音ともとれる歓声が、また聞こえてくる。

 さすがに疲れまでは吹き飛ばせないにしろ、相手方の三年生は笑って試合を終えられたようだった。

 三年生の後に続いて、僕たち一年生もフィールドを後にした。



     ***



 教室。


「サクラさん、大丈夫?」

「んぁ……ダイジョブじゃ」

 試合後、教室に戻ってくるやいなや、サクラは倒れてしまったのだった。保健室へ搬送しようと思ったけれど、サクラが「行かんでいい!」と気を張るので、教室の片隅にタオルを敷いて、その上で横になることになった。

 さっきの試合の活躍からか、サクラの看病係を名乗り出る者は多くいたが――というか、男女問わずほぼ全員が名乗り出たが、サクラきっての希望で、なぜか僕が膝枕をしなければいけないらしかった。

 授業をサボってサクラを屋上へ連れ出した事例もあったせいか、クラスメイト達は潔く了承したのだった。それはもう、断ってはいけない空気だった。

「床、固くないの?」

「固いのじゃ」

「保健室のベッドの方が良くないかな」

「ここで良いのじゃ」

 さっきまでフル稼働していた太腿の上に、サクラが重さを預けてくる。おかげで熱が逃げず、異様に熱くなってくる。汗をかいているせいで、短パンも下着もかなり蒸れてくる。

 いつものサクラの匂いに少しだけ土の匂いが混じっている。その自然的な匂いをかき消すように、僕たちの汗の匂いが混ざり合って鼻を衝く。清々しい勝利の匂いとでも言うべきか、不思議と嫌な匂いではなかった。

 ただ、それは僕にとっての話。

 サクラがどう思っているかはわからない。もしかしたら、我慢しているかもしれない。

 だから僕は、今、ものすごく恥ずかしかった。

「サ、サクラさん。頭、すごく熱いよ。熱があるんじゃないかな」

「それはお主の体温じゃ」

「うっ。それはそうかもだけど……」

 どうやらサクラは、どうしても枕を変えたくないらしかった。

 左、右と寝返りを何度か打って、目を瞑る。本格的に眠ってしまうようだ。

「こ、ここで寝るの!?」

「ダメか?」

「い、いや……ダメじゃない、けど……」

「けど、なんじゃ」

 サクラは、また一つ寝返りを打って責めてくる。

 その口調が当然のように気怠げだったことに、僕は少しだけ腹が立った。


「どうして僕なのかな、って」


 勢いに任せた暴言を吐いてしまったと思った。クラス中の人間が僕たちの戯れを注視する中では、決して言ってはいけないことかもしれなかった。

 少しの会話が聞こえていた教室が、その言葉を境に、静寂という一つの塊へと姿を変えた。入学後間もないクラスにしては、団結力があり過ぎる気がした。

 沈黙の中、僕は初めて気づいた。

 〈僕も浮いてるのか〉、と。

 何か訂正しなければ、フォローしなければと頭を回転させるけれど、沈黙が作り出す確かな蔑視と距離感の拡大の方が、数倍速かった。

 僕の頬を流れる汗は、サクラのそれとは意を異にする。


「特別だからじゃ」


 汗がまた、サクラの汗と交わってしまう前に、沈黙は破られた。

 僕は汗を拭いて、俯いた。

「特別……?」

「特別じゃ」

 そこには、どこかで見たような横顔で、どこかで聞いたことがあるような言葉を話す、少女がいた。少女が目を開けると、瞳には僕が写っていた。瞳の中の僕の瞳にはまた、同じ少女が写っていて、夕焼けの中で涙を流していた。でも、その少女は僕の目の前にいるサクラとは何かが違っていて――でも違わなくて、途轍もなく【不思議】だった。

 瞳の奥の少女は、瞳から零れた真っ赤な涙を一つ拭って、僕に微笑む。


 〈どうして。どうしてそんなにも、美しく微笑むことができるのか。涙を散らす瞬間が、こんなにも綺麗なのか〉


 僕は、同じ感想を、誰かに抱いていた気がする。

 それはきっと、僕にとる『特別』ではないだろうか。僕が選びとるという、これ以上ない価値を持った、そして、一つしか選択できない、特別で特別で特別な、【不思議(ふつう)】のような無知。

 そんないたって普通の無知を、僕は【不思議】であると思ったことはなかった。知らないということが当たり前だと、僕は知っていたから。

 でも、だからこそ、時が止まりそうになるほど美しいその花を見て、僕は感動するのだ。きっと、何度見たって同じことを思い浮かべるのだろう。


「ありがとう」


 僕は崇めるようお礼を言ってから、太腿に乗っかっていたサクラの頭をゆっくりとタオルに下ろして、その場に立ち上がる。急に頭の位置が低くなり過ぎないように、タオルを何重にも重ねて畳んで高さを稼いだ。

 それでも、少しばかり頼りなかったのか、サクラはすぐに半身を起こしてしまった。

「どこへ行くのじゃ」

「疲れたから、ちょっと屋上で休んでくるよ」

「わしも行くのじゃ」

 依然として半身のまま、そう言う。

 瞼が少し重そうで、汗も引いていない。目に見えて疲れている。

 口ではついていくと豪語しているけれど、態度は「連れて行って」と訴えてくる。

「ああ、いいよいいよ! サクラさんは、無理しないでここで休んでて。クラスのみんなもいるから、大丈夫だよ」

 サクラの「行くのじゃ!」という勢いに、クラスメイト達が若干引いているのがわかる。不本意ながら『デキてる説』も浮上し始めた。

 サクラの疲れもさることながら、僕は僕自身の意志で休憩に行くのだから、ここは遠慮させてもらいたい。

「僕なら大丈夫だから。心配しないで」

「……そうかの」

「うん。そうだよ」

「…………」

 僕は、サクラにじっとりとした細い眼をされて、一つの儀式を思い出す。

「そうだ」と閃いて、サクラの前に小指を差し出してみる。


「約束するよ。逃げる時は一緒に、ね?」


 ああ。恥ずかしい。

 名前も顔もまだ半分くらいしか覚えてないクラスメイトの前で、こんなセリフを音吐朗々と読み上げることになろうとは。

 顔が熱くてしょうがない。もしかしたら、真っ赤になっているかもしれない。

 でも、サクラのキョトンとした表情を見ると、何となくだけど後悔の念はなくなっていく気がする。

 これが、求められて手を差し伸べるということかもしれない。


「……むふふっ」


 サクラが微笑んだその刹那、小指に強烈な湿り気がやってきた。



「はむっ」



 その湿潤は、ざらざらとした奇妙な肌触りと温かくも冷たくもない絶妙な温度でもって、僕の小指を喰らっていった。背筋がゾッとなって、思わず「んぇ!?」と声にならない声が漏れる。

 僕は何より、教室の空気を心配した。

 焦りからくる勢いで見てしまったクラスメイト達の表情は、『呆然』、『驚愕』、実に二通りだった。でも、それは『誤解』だった。

 そうして僕は漸く、突きつけられた現実を受け入れる。小指を突き付けたのは僕だったけれど。

「ちょっ。なにしてるの、サクラさんっ」

「んー」

 サクラは、突きつけられた現状を吸い、口の中で舐め回している。僕が突きつけた現実は、そうして湿気っていって、少しばかり強い粘性に絡めとられた。

「す、吸わないで……っ!」

 もしこれが、彼女に取る約束の交わし方だったら、ということも考えはしたが、却下したかった。何か約束するたびにこんなことをしなければいけないのなら、恥ずかしくて約束なんてできたものではないだろうから。

 若しくは、僕が逃げようとするのを吸って留めようとしていたり…………なんてことも、有り得ないと思う。

 そうだ。

 こんなことになってしまったのは、きっと偶然だ。

 偶然、そこにサクラの口があったから、僕の指は飲まれたのだ。そういう運命的なものなのだ。

「……んん」

 何かに満足したのか、サクラは僕の小指を舐めるのを止めた。

 よくよく考えてみれば、僕は舐められることに対して、なんの対抗も否定もしなかった。つまり、どういうことだろう。

 考えたくもない。

 サクラは、自分の手で口の周りを拭いて、笑った。


「やっぱり(・・・・)、しょっぱいのじゃ……!」


 何度やっても同じ。現実はしょっぱいものなのだ。

 僕は「そうだね」と微笑み返した。



 

 

【あとがき】

 だんだんと輪郭が見え始める四話目でした。

 友達の指をしゃぶるという経験、なかなかあるものではありません。

 一見するとただの変態ですが、「料理中に指を切ってしまったのでしゃぶってあげる」とすると、ちょっと物語に面白みが出ますね。いつかやってみたいです。


 次回は続き。

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