Ⅲ 一謎エトランジュ
【まえがき】
ようやっと、学校です。
本編へれっつごー。
アリスと違うクラスだ。
今度は、そんな重たい気分で足を引きずりながら、自分の教室へ向かっていた。
背景を染めるアイボリー、走ると滑って危ない廊下、エトセトラ……。配色や規模などの外形としては、小さい頃から持っていたイメージと、ほとんど相違なかった。
けれど、
「昨日さー、彼氏がさー……」「えぇー。マジー?」「ホントなのー?」
「よー、お前ら今日暇?」「すげぇ暇。どっか遊び行く?」「『遠い方』でも行くか」「お前女いねぇだろ」
廊下の両サイド、階段の踊り場といったところでたまって話している男女を見かける。
どうやら、中身はイメージ通りとはいかなかったようで。
いや、イメージ的には外れてはいないのかもしれない。ただ、幼いころから想像していた、たくさんの友達に混ざって楽しくお喋りすることや恋バナに花を咲かせて今をトキメいてしまうようなこととは、かなりかけ離れてしまっている感じがする。どっちも、一人ではできないことだ(二人でも無理か)。
ミドル時代がミドル時代なだけに、ここの空気は得意とは言えない。というか、初めてに等しい。
気分は、異邦人なのだ。
「そー言えば知ってる? あの噂」「なに?」「ああー、もしかして【一不思議】のこと?」
「それがさ、最近さ、変な夢を見るんだよね」「急にどうした。メルヘンか」「それ、俺もだわ!」
教室の扉を開けると、男女の話声が混ざった中性的な音の量だけが、耳を劈くようだった。比較的静かそうなクラスメイトの合間を縫って、廊下側一番後ろの自分の席へ。
到着したら、鞄を下して椅子に座る。そうしたら、手の届く位置に置いた鞄から、今日使う教科書を授業の順番通りになるよう机の中に収納していく。
そして、準備は終わる。
「……………………」
そう。
言わば自分は『周囲に着いていけない状態』に陥っている。
このところ流行っているらしい【一不思議】についての二三を聞き流して、ただただ座っている今日この頃。流行りの噂も、毎日くらい聞こえてくるから、その全容というか内容は、あらかた知ってしまっている。
知っているが、しかし。
それを話題にして、誰かと話をしようなどとは到底思えない。アリスにだって、まだ自分から話題を振ったことがないというのに、そんな赤の他人相手に口を利こうなんて高尚な話は、自分には十数年ほど早いのだ。
でも、だからと言って、『教科書の準備終わったね』とか『一時限目の準備お疲れ様』みたいなことを言われても困る気がしないでもない。
「………」
類は友を呼ぶ、という言葉がある。その通りだと思う。その逆もまた然り、という自分の言葉もある。本当にその通りだと思う。
走ることが好きな人の周りには、自然と走ることが好きな人が集まるし、年がら年中遊んでいる人の周りには、同じく遊び人が集まっていく。『類は友を呼ぶ』は結果論であり、『呼ばなくても集まった友は類』が因果論である。
そんな思想を抱いて早七年強。
これまで続けてきた孤独を断ち切る力もなく、自分はまた、教室で一人だった。つまり、似た者が集まったところで、それはただの『一人の塊』なのである。
自分の中にあるはずの勇気はどうやら、アリス限定らしかった。
話すこともすることもないせいで、クラスメイトの顔も名前も誕生日もあらかた覚えてしまった。
そのクラスメイトのことを、アリスと同じくらい好きになれば、自分から話しかけたりできるだろうか。
無理な気がする。
好きになるのも、話すのも。両方とも。
そんな半夢物語は、左隣の席に座る少女サクラによって、壊されることになる。
「のぅ、のあよ」
「どど、どうしたの……」
少し明るめのブラウン、長くもなく短くもないセミショート、滞りなく舞い踊り香る甘い匂い。サクラの髪の毛は、誰もがそんな第一印象を抱くに違いないと断言できるほどに、いつも通り奇麗だった。
春にしては涼しすぎる制服、その合間から主張してくる妖艶な鎖骨の影が、健康的で少し羨ましい。豊満とは言えずとも確実に自分よりは魅力的で、さらにその明るい笑顔が魅力を倍増させる。自分には無いものを、サクラはたくさん持っている。おまけに良い匂い……って、そんなことはどうでもよくて。
首をぶんぶん横に振って、再度サクラの方に向き直る。
「最近流行っておる噂、知っておるか?」
「うん。知ってる」
「どんな噂なのじゃ?」
「え?」
入学式翌日あたりからこれだけ騒がれていれば、別棟とかに隔離でもされてなかったら嫌でも耳に入ってくると思うのだけど。授業中だって、隣の教室から聞こえる程だから。
あ。
もしかして、自分が聞き耳を立てすぎなだけか。
いや、でも、昼休み毎時間どこかへ遊びに行っているサクラほどの行動力をもってすれば、この煩わしい噂話を聞くこともないのかもしれない。
噂は煩わしいというほど悪い内容のものではないけれど、皆が皆口々に異なることを発信すれば、それはまとまりがなくて喧しくなる。でも、喧しいというほど五月蠅くないので、煩わしい、なのだ。
「どんな噂か……。説明、しづらい……」
「ほぅ。感情的な話かの?」
確かに、『気になる!』とか『知りたい!』とか、そういう好奇心めいた感情が無ければ、噂話はまず発生しない。噂というものは、人間の感情抜きには語れないのだ。
だけど、なんだか腑に落ちない。合点がいかない。
「んー……ちょっと違う、かも?」
「表現的な、抽象的な話かの?」
表現、抽象。それだけ不確定で、広い範疇を持つ言葉なら、まぁとりあえずという形で首を縦に振れる。
けれど、的を射ているかと言えば、掠めた程度な感じでそれも違う。
明白な好奇心を含むサクラの問いに対して、自分の方は少し言葉が曇ってしまう。謎は謎のままに伝えればいいのだから、曇っても仕方ないのかもしれないけど。
「表現か……。んー……そう、そんな気がする。みんな、噂のこと、アカデミーの【一不思議】って呼んでるのに、不思議はね、一つじゃないの。一つ一つがふわふわしてて、そういうのが、たくさんあるの」
「ほぉ。なるほどのぅ。どんなのがあるんじゃ?」
「んとね。放課後、階段を下ってたら、いつの間にか、朝になってたとか。体育の授業で、転んで怪我した人は、保健室が消えたって。あと、みんなで、コスプレで登校する夢を見たとか。球技大会で優勝、って人もいるみたい。球技大会、まだなのに、変だよね」
「そうかそうか。なるほどのう。どれも面白そうじゃのう」
「そ、そだね……」
時間遡行、空間喪失、コスプレ、未来体験、エトセトラ……。
――面白そう。
確かにそうかもしれない。
そう思うから、噂は広まるのだろう。
でも、少なくとも自分は、そうは思わない方の人間だと思う。
そう。
噂の渦中にいる張本人、いわば『被害者』の人たちと同じ意見。
面白半分、或いは面白そうというだけで【一不思議】を噂として発信するだけの者達は、もしかしたら気付いていないのかもしれない。でも、そっちの方が幸せなのかもしれない。だって、『面白そう!』という好奇心を持てるわけだから。
自分のように『何だろう?』という疑問を持つことも、噂の渦中にいる当人たちのように『どうしよう』と思い悩むこともないわけだから。
でも、自分は気付いてしまった。
この噂話は、ただの噂話とはわけが違うと。面白半分で聞き流せるような生易しいジョークではないのだと。
「のぅ、のあよ」
「な、なに……かな」
「のあは、何かないのかの」
「なにか?」
「【一不思議】じゃよ、【一不思議】」
あるとすれば、それは【一不思議】という存在そのものだ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花という言葉があるけど、【一不思議】の場合は、“枯れ尾花の正体見たり枯れ尾花”だということ。つまり、ここで大切なことは【一不思議】という噂話の中身ではなく、外枠の形。
ここ一週間で分かったことをまとめて、尾花を垂らしたのは誰なのか、推理してみよう。
左斜め上、黒板の上の時計を一瞥した勢いに任せて、首を傾げる。一時限目まで、時間はまだ少しある。
「うーん……。【一不思議】、かぁ…………」
【一不思議】は普通の噂話とは質を異にし、日を追うごとにその範囲を広めていくわけではなかった。
その実情は、一部の人間が話す噂の数が増えるというもの。要は、噂の範囲はそのままに話の中身だけがエスカレートしていくということ。
確かに、同じ人がそう何度も大言するとなると、法螺を吹いているようにも見えてくる。オオカミ少年はそうして信頼を失っていったのだ。
だから、周囲の人間は面白半分にーーあるいは、オモシロ話にしか、感じ得ないわけだ。
時間遡行、保健室消失…。そんな面白い冗談は、校内くらいでしか流行らないだろう。
自分も初めは――初めの三日間はそう思っていた。
けれど、違った。
「あ、あんまり、知らない……かな……」
「そうかそうか。なら、他の奴に聞いてみるとするかのぅ。すまんかったの、急に変なこと聞いて」
「ん。いいよ……」
軽く微笑みを向けてから、サクラは席を立ち上がって辺りを見回した。そして、ちょうどよさそうな人を見つけたのか、視線の先、黒板の方に向かって小走りした。
「無駄、だと思う……けど」
浮かれているともとれるサクラの軽率を、自分は哀れみをもって悲嘆した。
それは、独言と散ったけれど。
――無駄。
それは、意地悪で教えてくれないからではない。聞いて問題解決ができるはずもない、ということでもない。
もし、自分に、会って間もない人と話せるだけのコミュニケーション能力と、知ってしまった世界の秘密を話せるだけの勇気があるのならば、サクラが歩き出す前に伝えてあげたかった。
「のー。おぬしらは、どんな【一不思議】を知っておるのじゃ?」
「【一不思議】? 何それ?」
「うーん……。知ってる?」
「私も知らない。ごめんね、サクラさん」
このクラスの生徒だけ【一不思議】を知らない、と。
***
昨今から続いていた不可思議な時間が過ぎ、訪れた一時の安息を満喫しようと、アリスとルートに挟まれるように屋上の特等席のベンチに腰掛けながら、手作りの弁当を食べていた。
危険防止のための鉄柵の間から覗く遠い空の青と、自分で作った弁当のおかずの彩を見比べてため息をつく。そしてまた空を仰いで、その大きさに委縮する。
遠く高いあの青の上からなら、こんな違和感など塵にも満たぬ些事なことに決まっている。それでも、人は――自分は悩むし悶える。そんな弱さが、一人だと合点がいった。
また一人になりたいのかと言われたら、それは両手を大きく横に振って、力の限りに拒否したい。けれど、今は、この不愉快な不可思議を断ち切りたくて、三人でいることが不安だった。
「へぇ。あんたの担任、熱血なの。今時珍しいわね」
「そうなんだよ。少し熱すぎるくらいで――」
「ちょっと、ノア。どうしたのよ、顔色が良くないわよ」
雑談の合間を縫って、右隣に座る恋人が声をかけてくれる。その言葉は、自分の身を案じていた。左隣に座るただ一人の友達は、自分の背中を優しくさすってくれていた。
このままの状態で放課後になってくれれば、それはもう、安堵の限りかもしれなかった。
心配には及ばないと返答しようと思ったけれど、本当に気分が悪くてそうもいかない。
「ん……。ちょっと、寒い、かも……」
「えぇ!? ちょっと、早く言いなさいな! ほら、ルート、どいたどいた」
「は、はいぃぃっ!」
どうしてだろう。
今までずっと、一人だったのに。
味方なんか一人も居なくて、周りは敵だらけ。不思議に支配された今と、何も変わらないというのに。慣れているはずなのに。
ーー『ふつう』じゃないみたい…。
「ルート、ちょっとノアの弁当しまってくれるかしら」
「わかった」
「悪いわね。さ、ノア、あなたは横になりなさい」
「えっ? あっ……」
アリスの少々強引な力に引かれて、ハタとそこへ倒れこむ。体の重心を、その柔らかさを信じて預けて、羞恥心に転ぶ。熱く赤らむ顔の温度以外は少なくとも知られたくない。
「にゃ!」
「変な声出さないの。びっくりするじゃない」
「き、急に触る、から……」
耳に掛かっている髪の毛を梳かれて、どうやら羞恥の色も周知になってしまったようで。
「耳、真っ赤だよ! 熱が――」
「あなたはちょっと、静かにしてなさい」
「ご、ごめんなさい」
でも、それは自分自身のせいだから。
「ごめんね、ルート……。ノアのせいで……」
「い、いいのいいの! 気にしないで!」
自分がアリスに膝枕をしてもらう形となったおかげで、ルートは立ち食い状態になってしまった。そのはずなのに、なんだか嬉しそうに見える。
もしかして、そういう人?
「違うわよ。ルートは、人の役に立てることが嬉しいのよ」
「そう、なんだ……」
「な、なに。何の話してるの」
「なんでもないわ。あなたが良い人だって話よ。顎で使って悪かったわね、謝るわ」
「ううん。いいよ全然」
その他愛のない会話は、自分にとる『他愛のない』ではないけれど、アリスの体を通して少しづつ自分に結びついていく感じがする。
いつの日か、この会合が『他愛のない』不変の日常へと変わっていけばいいな。
そう。他愛のない『ふつう』に。
そんなことを期待して、今はアリスの太ももに身を委ねることにする。
自然、「すぅ」と、生きていることを確かめるように、ゆっくり息を吸う。寒いくらいの薫風に冬を感じて、すぐに目を閉じる。傍にある光に縋って、暗闇に意識を落としていく。知覚できる感覚の何もかもがいつもより鋭敏になる。高揚した意識で触れる膝枕は、この世のものとは思えない心地がした。
ヒリヒリと肌を刺激する冷たい風さえなければ、昇天していたかもしれない。
今日ほど、そよ風を憎んだことはないと思う。
「そういえば。あなたは知ってるかしら」
「何を?」
「噂よ」
「噂?」
「学校の至る所で聞くじゃない。【一不思議】」
「【一不思議】?」
「あんた、知らないの? こんだけ噂になってるのに」
「ご、ごめん。どんな噂なの?」
「変な夢を見たりするのよ。幻覚を見たりとかね」
「夢……。でも、突然どうしたの?」
「いいえ、なんでもないわ。ちょっと気になっただけよ」
また目を開けて、大きな深呼吸を、溜息をつきたくなった。
比べるものが無くなった遠い青に、身も心も、もろとも飲み込まれそうになる。何らかを防いでいる鈍色の鉄柵との距離感を掴めなくて、意識が微睡み沈んでいく。それでも、アリスの膝が受け止めてくれるのだという絶対的不変の意識が、何もかもをリセットしているようだった。そうすると、今まで避けてきた違和感が浮き彫りになって、自分の『他愛のない』ものが凸凹と歪に象られていく。
アリスの家に住むようになったこと、ルートが友達でいてくれること、二人と同じ学校へ進学できたこと、春なのにとても寒いということ。
ゼロに戻った自分に、何ができるだろうか。
「ね、ねぇ、アリス」
「ん? 何かしら?」
傍にいる温かさと髪を梳く包容に依存しながら、自分は安定を保つ。そういう狡さも、少しは知っている。自分を守るために知ってしまった、良くないことだということも。
ただ、そう高飛車にでも乗っていないと、見えない距離感に回路がショートして、脳が麻痺してしまいそうだった。ただでさえ、顔が灼ける様に熱い。
熱を外界に放出するよう、勢いに任せて言い放つ。
「アリス、【一不思議】知ってるの?」
「え、ええ。知ってるわよ」
「ノアに教えて」
「な、何かしら」
知られたくないことなら仕方がないとは思う。でも、今は自分が知りたかったのだ。
アリスと顔を合わせていたらきっと、炯眼に射られて引き下がってしまっただろうけど、今、自分の目の前にある光景は、遠くて寂しい不可思議だけで。自分の弱さも何もかも、すべてゼロに近い塵のようなものだと、そう自覚させるような、違和感を象った謎だけで。
「アリス、【一不思議】に巻き込まれてる、よね……」
「「え?」」
二人の息がぴったり合う。
なんだか悔しいけれど、今は、自分の方がアリスと同調していると自負できる。
「アリス、お願い。ノアに、教えて?」
「ア、アリス……。本当なの……?」
「…………」
これはどちらの沈黙だろう。
わからない。わからないけれど、ものすごく不安になる。
膝から引き剥がされてしまう悪いイメージが思い浮かんで、焦りに拍車をかけた。
出た言葉は、
「ご、ごめんなさい――
『捨てないで』という意味を帯びた、心からの謝罪と、
――ノア、アリスのこと、何にも知らないから……。ノアのことは、全部、伝わってるのに……」
『願い』に依存した、申し訳程度の言い訳だった。
「伝わってる? どういうこと?」
「あっ。なんでもない! なんでもない、から……」
「…………」
戦ぐ春風が、悪寒を連れながら二の腕の裏を掠めていく。遠くにあった空は、もうすでに頭上近くまで伸びてきていて、さっきまで見ていた空しい青は、もうそこにはなかった。代わりにそこにあったのは、見慣れた白。
天気が悪くなってきた。
少し首を傾けて空を仰げば、空しい青と太陽色の細やかなる攻防が、今まさに行われている最中だった。青はそのまま空しいままで、代わりに太陽は無表情でいた。こびりつくように鬩ぐ青も、今の太陽の無機質さには空ろうしかない。
どうやら、空色は劣勢のようだった。
[ど、どうしよう……]
今、何をすればいいか、全くわからない。
謝罪を重ねて、下手に出ればいいのかもしれない。でもきっと、そんなことをしても、沈黙を長引かせるだけ。常に下手にいるから、無意味だし。
それなら、急に閃いて、この場から走り去るのがいいだろうか。そんなことをすれば、自分は変な人だと思われてしまう。でもきっと、もう変だから、もっと変な人になる。
ここは意表をついて、太陽の懐に飛び込んでみようか。太ももと太ももの間に顔をうずめて、柔和な新世界を冒険してみようか。それなら、場が和むし、幸せだしで一石二鳥ではないか。
いや。
それこそ真正の変態だ。アリスの両親に現行犯で逮捕されてしまうに違いない。
だったらこのまま沈黙を続けて……、というのは本末転倒相違ない。
「…………」
もしかしたらこの沈黙は、自分が作り出した沈黙なのかもしれない。
これだけの邪な心情を挿し込んでも、アリスは眉一つ動かしてはくれない。
それはつまり、【一不思議】という概念を知らないクラスに所属しながらも【一不思議】を知っている、イレギュラーな存在である自分に気付いたアリスが選択した、一つの行動なのかもしれないのだから。
でも、騒動の中心が自分でないことぐらい、自分にはわかる。そして、自分がそうでないと決定づけた自らの記憶も、アリスは知覚しているはずだということも。
だとすれば、どういうことなのか。
[アリス……]
ゼロがイチに変わっても尚残っていた、深い凹凸について、自分は幼さを盾に言及しようとしていた。
それを罰するかのように、事務的なまでに乾いたチャイムが響いて、沈黙を破り去って空しい空へ消えていった。
「これって、放送だよね」
「そう、みたいね」
『本日、入部届の提出最終日となっております。週末には球技大会も控えているので、本日中に決めるよう努めてください。では、入部届の提出場所を部活ごとに発表していくので、メモを取ってください。まずは――』
「どうするのよ。メモなんて持ってないわよ」
「じゃ、じゃあ僕が教室に戻って、メモしておくよ! あとで、見せ――」
「ノア、紙とペン、持ってる」
沈黙が解消された偶然に肖って、体を起こす。体調不良も、良い匂いを嗅いで気分が良かったおかげで、わりと回復していた。
九十度傾いていた世界が元に戻ると、鉄柵の隙間から校庭で遊ぶ幾数名の生徒たちの姿が見えて、少しだけ安心する。
『サッカー部は、校庭東側のサッカー部部室。体育館隣の部室棟の三階にあるが、わからない人は職員室の――』
「え、と……。校庭東の……」
手のひら大の小さな紙に、メモを取っていく。この紙の裏には、ナイブス家の昼食事情が書かれている。ご両親もとい、ご主人様の好みを把握しておきたくて貰っていたものだ。
ペンは、物忘れしないようにと、小さい頃からの癖で持ち歩いていた。
放送の内容から、必要そうな部分だけを抜き出して、書き写していく。
わりと、字を書くことには自信があった。
けれど。
「ああっ!」
びっくりして、文字が化ける。
そんな些事を咎めるつもりはないけれど、声の主の方を見てみる。
手でわざとらしく口元を隠して、憔悴した表情で、何か言っている。
「僕、先生に呼ばれてたんだった! 先に帰るね! 今日も、一緒に帰れたら、帰ろうね! そ、それじゃっ」
そうして、あっという間にルートは走り去ってしまった。
そして、二人だけになった屋上に、扉が閉まる音が響いた。その音は、校内放送の渋い男声を打ち消してしまうほどに愁いを帯びた、無機質無感情であった。
ルートの後を追うように、予鈴が鳴った。
現放送は、五時限目の後に持ち越しという形で打ち切りになった。
「さて」
少し開いてしまっていた距離を埋めるよう、アリスが詰めてくる。
でも、さすがにいきなりは怖くて、ベンチの端まで逃げる。
行き場を失って、アリスの方を横目で見る。
「ア、アリス……?」
「ふふふっ」
アリスはにんまり微笑んで、嬉しそう。
口角が細かく動いて、表情の豊かさが――コントロール力が垣間見える。
なんだか落ち着かなくなって俯くと、もう一度「ふふふっ」と笑ったアリスの吐息が耳に掛かってくすぐったい。そして、心臓が勝手に鼓動を速める。
「にゃふ……」
きっと、もう一度息吹を吹きかけられれば、また腰を抜かしてしまう。
[でも、それでもいいな。授業、出れないけど……]
そんな腑抜けに現を抜かしていると、気付けの言霊がやってくる。
「後で、色々、教えるわ」
アリスは、そんな冷たい印象を残して、屋上を去っていった。
横風になびく太陽色は、確りと自己主張をしながら、遠くに見える空しい青を引き立たせてもいた。アリスの髪を梳くように透過した風からは、甘い良い匂いがした。物理的にだけじゃなく、精神をも包み込むような、柔らかい風だったと思う。
でも。
でも、とても寒かった。
「アリス……?」
二時間を残したこの後の授業に、集中できる気がしない。
【あとがき】
ノアは何かと鎖骨を気にしておりますが、別に鎖骨フェティシズムなわけではございません。
少し暗い性格の人を想像してみてください。
目線は、ちょっとだけ下だと思うのです。その副作用が、鎖骨であります。
ちなみに、ノアは『髪フェチ』です。
いや、『髪の匂いフェチ』が正しいかもしれません。
そういう設定も、ぼちぼち立てていきたいですね。
次回をお楽しみに。




