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Ⅳ もう僕には無い、春。

 


「あ、ルー。おかえり。遅かったね」

「うん。ちょっと、部活の見学をしてたんだ」

 見学と言いつつ、実際は練習メニューの一部を体験する、いわば体験入部のようなものだった。久しぶりの運動で節々が音を上げている。

 居合道部という謎の部活を体験してからというもの、あまりの臀部の痛さで椅子に深く腰掛けられないでいる。ご飯が非常に食べにくい。

 一足先に風呂に入ってきたらしいリズが、タオルで濡れた髪を拭きながら、僕の隣の席に着く。

「ふ、ふぅ……。疲れたなぁ……!」

「んー?」

 弱い石鹸の香りと、何か女の子めいた良い匂いが同時に鼻に訪れて、僕を誘惑する。誘われるまま、本能のままに芳香を辿ると、パジャマから覗く白肌がそこにあって、僕は羞恥心から目を逸らそうとして、振る舞いが不自然になる。食事の喉の通りもあまり良くはない。

 なみなみ注いであったコップの水を一気に飲み干して頭を冷やすも、

「ふっふっふ……。大人な私を見て興奮しちゃったんだねー? わかるよー」

 冷却、追いつかず。

 リズは僕の喉の通りなど知る由もなく、「ルーは結構ムッツリなんだよねー」など続けて冗句を告げる。でも、その表情はどこか、悲し気に見えた。

「前はお風呂毎日一緒に入ってたのにさぁ」

「前って……、それ、相当昔の話じゃ……」

「夜とか、怖くてトイレ行けなかったのにさぁ」

「それは関係ないと思うけど……というか、それは僕じゃなくてリズじゃ……」

「前は毎朝一緒に学校行ってたのにさぁ」

「それは、僕だって進学したんだし……」

 スープを口に運ぶのを邪魔するように、リズの口から次々と不平が飛んでくる。

 同じ高さでキープするのが辛いことに気付いて、スープをスプーンもろとも皿に戻す。

 離れていった温かさが、恋しい。

「うふふ。やっぱりルートは鈍いのね」

 思いもよらぬ方向から刺々しいセリフが飛んでくる。その鋭さとは正反対の、角が取れて丸みを帯びたような声にショッキングなギャップを感じる。

「リズ、夕飯を食べないで待ってたのよ。あなたが帰ってくるまでずっとね」

 台所から来た声の主が、テーブルに料理を運びつつ言う。

 そして、僕の隣の席の前に、僕と同じ配置で料理が並ぶと、妹は慌てふためいて、

「ま、待ってませんしぃ!」

 と、強がりを言う。

 それが強がりであると、僕も気付けるようになった。

 そこに自尊心の様な強い知覚は存在しないけれど、それに気付いて初めて思うことのできる『ごめんね』が、僕の中には確かにあった。

 アカデミーに入学して少し大人になったから、妹や年下という関係性を強く意識してしまっている副作用なのかもしれないけど。

 だからこそ、僕は慎重に言葉を選ぶ。そして、行きつく結果は同じになる。

「ごめんね、リズ」

「ふ、ふんっ? い、いんだよ、別に。待ってないし」

「じゃあ、食べようか。僕もう、少しだけ食べちゃったけど……」

 いじけるリズに対して、語気に注意を払って優しく撫でるように言った。

 すると、せっかく滑らかになりそうだった毛並みを逆撫でするがごとく、台所から母の言葉が飛んでくる。

「うふふふ。リズが何だか子供みたいね」

「こ、子供だもんっ!」

「あらあら? 大人な私、じゃなかったのかい?」

「うっ……。も、もぅ! いただきます!」

 リズがこんなにも子供に見える。ほんの数週間前まで同じステージにいたはずなのに、今は一段下に見えてしまう。

 言葉を選ぶ余裕すら、僕にはある。分岐点に立たされて迷っていた少し前の自分が、まるで自分とは違う人間に思えてくる。

 でも、どうしてだろう。

 この胸の痞えは、この心の蟠りは、この違和感は、まるで、あの時と同じ感覚がそのままここにあり続けているようだ。

「それで? ルーは何部に入るの?」

「え? うぅん……と」

 リズの質問には答えたい。けれど、本当のことを答えてしまえばきっと、彼女の笑顔は無駄になってしまうし、僕のお尻の痛みもただの痛覚に成り下がるだろう。

 仮に、この痛みに従って嘘をつくとする。

 それで誰かが幸せになるだろうか。リズは「居合道部に入るんだ」という虚偽を聞いて嬉しいだろうか。

 その答えは簡単だ。

「あ……、ごちそうさま。僕、お風呂入ってくるね。体冷えない内に布団に入らないとダメだよリズ」

 逃げることは、いい。

 傷つくのは、自分一人だけでいいから。

「……ルー?」

 これは仕方がないことなのだ。

 逃げる以外に方法がないのなら、逃げるしかないのだから。

 〈僕、また逃げてる……〉

 そう思って改めようとも、無駄になることだって、この世界にはあるのだ。

 脱衣所の鏡に映った情けない自分の姿を見て、僕は深い溜息をついた。



「部活か……」

 端的に言えば、『やる』か『やらない』か。話はそれだけ。

 そして、僕の心の中で、答えはほとんど出きっている。その答えを基盤にして、否定肯定の逡巡審議が執り行われているのだ。

「運動部かぁ……」

 野球部を初めとする運動部には、ミドルの時と違ってマイナースポーツがとても少なく、どちらかと言えばメジャーなスポーツが多かった。居合道部はマイナーな部類に入る。

 野球、サッカー、バスケと続いて、テニスやフットサルなど、国内外から集まってくる生徒たちのニーズに合わせて、その種類数はかなり豊富に設定されていた。もっとも、バトン部は無かったけれど。……ああ、バトン部は帰宅部のことだったか。

 ガイダンスで、『初心者歓迎!』という表看板を掲げてはいたけれど、アリスの話によれば、実情は経験者を優遇するということになっているらしい。

 迷惑になるのも嫌だし、選択の余地はないと思おうか。

「でも、文化部はなぁ……」

 体を動かして汗を流すイメージの運動部と相対する文化部は、どうやらあまり盛んではないようで、本を読んで記事を作ったりする文芸部と合唱や楽器の演奏などをする音楽部の二つの部活に限られていた。

 前者ならまだしも、僕は楽器をやったことがないし、歌声にも自信が無い。でも、人を楽しませるような面白い記事を書けるかと言ったら、それも難しい気がする。

「…………」

 ここまでは、いわゆる『やる』方針。

 では、僕の本心である『やらない』方針ならどんな批判が飛び交うのか。

「やっぱり帰宅部……になるのか」

 帰宅部というのは、厳密に言えば『部活動無所属』ということになる。

 皆が挙って部活動に励む理由は種々様々だろう。ただ単に楽しいから、将来の夢を叶えるため、親の意向だから、成績のためなんて人もいるかもしれない。

 でも、それが何であろうとも、そこには必ず、目的というものが存在しているのだ。

 帰宅部を選択すること自体は悪いことではないし、何より学校が認可しているのだから否定はできない。

 問題は、目的の有無にある。

 現帰宅部の中には、部活では目的地へ到達するのに遠回りになってしまうからと、わざわざ帰宅部を選択する者だっているのだ。そういう人は目的意識があるから、僕の言う『道』のようなものを踏み外すこともないだろう。

 では、僕はどうだろう。馬鹿の一つ覚えの様に、逃亡を繰り返している、情けない僕は。

 僕には明確な目的がない。

『世界を優しさで溢れさせたい』などという抽象的がすぎるあやふやな目的地へと進むために、僕は今、何かをしているのだろうか。できているのだろうか。

 周囲の人間が部活動に打ち込んで進んでいく中で、僕は現状維持という名の後退をして、身勝手で利己的な憂慮に浸っているだけなのではないか。逃亡するとはそう言うことなのではないか。

 〈でも、だけど〉と、僕は何故か、いつもそこで自己否定をする。

 その理由は、多分、自分が一番知っているのだ。

 ただ、それを認めたくないだけで。

 “あの時”からずっと続いてきた試合に、遂に負けてしまうようで。

「どうしよう……」

 難しい。とても難しい。

 頭から被るシャワーのお湯が、冷たく感じられる。それでも、閉じた瞳だけは常に熱くて、開けることができない。水勢を言い訳に、僕は目を閉じたまま無言になる。そうすると、この世界に自分しかいないような孤独感に陥って、瞼が震えた。

 首筋を伝う水を追いかけるように撫で、胸の中心まで来て止めた。自らの心臓の拍動を左手に受け、無性に安堵する。止まった左手で水が堰き止められて自然、重くなっていく。でも、また水は流れていくのだ。追いかけられない疎外感に、僕は孤独を一層噛みしめることになる。


「……ん?」


 孤独、沈黙を破るように、脱衣所の方からノック音が聞こえる。

 シャワーの勢いを弱めて、僕は“二人”を心に反芻する。

「リズ? どうしたの?」

「う、うん。あのさ……、…………て……」

 僕は、弱められた語気を呪わず、とめどなく流れている騒音の方に嫌悪感を抱く。

 シャワーの栓を閉めて、再び。

「どうしたの?」

「や、やっぱり何でもないっ。……けど、何でもなくもない、かも」

「気になるけど、言いづらいことなら無理しなくてもいいよ」

「んー、まーいっか。やっぱり言うっ」

「そ、そう。じゃあ聞くよ」

 耳を傾けても、すぐに言葉は無かった。そのせいで、シャワーから放水の残滓がぽたぽたと滴って鳴る都度、沈黙が破られる形となった。その不安定なリズムが何だか気持ち悪くて、僕は耳を塞ぎたくなった。

 沈黙と不協和の中にある期待を見つけて耳を塞がず頑張っていると、漸く綺麗な音色が聞こえてくる。

 でもやっぱり言いにくいことなのか、曇る言葉は「あの、さ……」から始まる。

「部活のことなんだけど……。もしかしたら、私のせいで迷わせちゃってるのかな……って」

「…………」

「ミドルの時は無かったから仕方ないけどさ、ルーの学校にはあるんだよね?」

「…………」

「またやってよって言うのじゃないの。昔、やってた頃のルー、本当に楽しそうだったから……」

「…………」

「……ご、ごめん。絶対私のせいだもんねっ。それなのに、その私が、またやれなんて、おかしいよねっ。おこがましいよねっ」


 〈違う。リズは悪くないんだ。悪いのは……〉


「本当に、ごめん……なさい」

 浮かんでくるのはせいぜい「君は悪くない」とか「心配しないで」とかの話で、僕が「僕」としてリズにかけてあげられる言葉なんて一つたりともありはしなかった。当然だった。

 この際、そんな無価値な言葉でも良かったかもしれなかった。

 でも、できなかった。

「でも私、ルーのこと、応援してるから……。本当にごめんなさい……」

 それからはまた、気に入らないリズムが刻まれるだけだった。

 いやに静かで、いやに寒かった。

 だから僕は、またシャワーの栓を緩めてお湯を出して、温まろうと試みた。

 襲ってくる喧噪と熱に憔悴して、僕は自然と自分の心音を求める。流れゆく普遍を堰いて感じる安堵によって、心は一層寒く、“二人”は一人になった。

「僕が、悪いんだ……」

 リズに求められているのに、僕は何もできない。

 僕だって、諦めたくはない。でも、諦めるしかない。

 割り切れない感情は、「諦めきれない」という語彙によって、悪寒に象られる。それでも割り切ることができないのは、意味の無い自信のせい。楽しかったという、鮮明な記憶と確かな感覚のせい。

 逆に考えることもある。


 ――やりたいことをやればいい。


 誰よりも速く走って、誰よりも長くキープして、誰よりも巧みにトラップして、誰よりも多くゴールを決めて。

 それでも、勝利を認められることがないという背理に、僕は途方もない無力感を覚えてしまう。それまでの努力が泡沫に消えた喪失感にとらわれて、きっと、また泣き出してしまう。

 だからこそ、僕は“あの時”に『僕は泣かない』と決めたのだ。

 僕が“あの時”泣いてしまったのは、他の誰でもない。


 僕のせいなのだから。




【あとがき】

 そろそろルートの過去が気になってくるころだと思います。

 世界をやり直して、変わることができたルート……。

 しかしそれは、アリスという友人の存在が大きかったからこその――一緒に岐路に立たされたからこその、“二人”の変化だったのです。

 でも今回は、アリスは居ません。

 また、一人になってしまいました。

 


 果たしてルートは、新しい春を迎えることができるのでしょうか……。

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