Ⅰ 変化を許容して、春。
【まえがき】
新章『アカデミー編』が始まりました。
前章でできなかった色々なことに手を出していきたいですね。
本編をどうぞ。
身を置くための日常の一部が変わると、それにつられて他の部分も変わる気がする。
きっと、それにつられてまた、別の何かが変わって、つられてまた別の何かがと、連鎖が起きたりもすると思う。
新聞や情報誌の『新生活』のコラムにそういう話題が載っているのを見ると、口の軽い文学者である父が「コラムは半分遊びだ」と言っていた手前、新しい環境に託けて話題に挙げただけの文言な気がしてならない。
では、実際のところはどうなのか。
その事実を知るために、他人に意見を求める必要はなかった。
「ネクタイ、難しいな……」
数週間前まで存在しなかった難しさが、首周りと指先の神経を中心に、日常の確かな変化を感じさせていた。
ただ、アカデミーの登校時間はミドルの時ほど早くはないし、遅刻に対してもかなり寛容なので、別段焦りを感じることはなかった。
それがまた、今までの日常との変化を連れていたけれど。
「よし、できた! ……のだろうか?」
形は記憶にあるものと同じだったけれど、大きさが大分違う気がした。
今から母に聞きに行こうにも、すでにコーヒー園に行ってしまっているので、あまり良い結果は見込めない。多分、見つけられなくて遅刻してしまうだろう。
父はネクタイを締めたことが無いタイプの人間だし、頼みの綱である妹のリズはすでに学校へ行ってしまった。
つまり。
「万策尽きた……」
頭をカクリと落として、ぼやく。
でも、それ一つでこれからが決まってしまうようなことは、決してない。
そう楽観視できるのは、ごくごく自然なことだと思う。
悩んで悩んで苦しんで、その果てに出た決断が求められる時があるならば、その逆に、悩まずに出した直観的な回答を求められることもあるのだ。
今が、まさに後者。
「アリスなら、知ってるかな……」
博識で常識人の友人に期待して、僕は制服のベストを着る。
いまだ抜け切らない新品特有の繊維の匂いが、クローゼットに吊るされたミドルの残滓とのコントラストを演出する。三年間という長い時間を見据えて長くした袖が、いつぞやの入学式と似た初々しさを醸している。
そんな姿を小さな鏡に映して、一回り成長した自分を反省する。それは同時に、不慣れな日常への期待と不安もしみじみと感じさせた。それが何だか新鮮で、とても心地がいい。良い緊張感とはきっと、このことを言うのだと思う。
さて、この感覚は、一体あと何日続いてくれるのか。
最近の僕は、そんな平穏で平凡な愚問に小胸を躍らせながら、部屋を後にしていた。
今日は例外的に遅起きになってしまったため、ダイニングには人の影が無かった。
一人で朝食をとるのは嫌なので、いつも通り早く起きたかったところだけれど、昨晩遅くまで妹の宿題を手伝った(ほとんど僕がやった)おかげで、寝坊してしまったのだった。
テーブルに昨日の残滓を感じながら、その上に乗った自分の筆箱を回収する。
「いただきます」という孤独の嘆きを聞いて、僕はトーストを齧る。空しさを紛らわすために、隣の椅子に置いておいた学校用の小型リュックサックにも、筆箱を食べさせてやる。
当然、返事はない。
リュックは喋らない、と言う必然に僕はひどく安堵して、溜息をつく。
高天井の大きな天窓から差し込む温かい光が、ダイニングの観葉植物の緑をより一層生き生きと輝かせる。春の涼しく乾いた風が光と同じところを通り抜けて、葉を揺らす。光沢がぼやぼやと移ろいで、光の粒がたくさんあるようにも見える。
その花弁から香る仄かな白が、トーストに塗りたくったチョコレートクリームの黒を邪魔する。
僕は漆黒のコーヒーを飲んで上塗りして、再び、普遍の孤独を知覚した。
「…………」
また早起きしようと思った。
***
「ちょっとあなた。二分、遅刻よ」
「ご、ごめん」
「大丈夫……。ノアは、怒ってないよ……」
「う、うん」
三人の待ち合わせの場所は、ノア宅前の公園中央にある時計柱と言うことになっていた。
国立アカデミーは、この団地をずっと進んでいった先――街の外れにあるので、待ち合せるのにとても都合が良い場所ということになる。三人全員が知っている場所ということもあった。
僕の家からは徒歩十分と言ったところだろうか。
待ち合わせに遅れるようなことは滅多にないとは思うけど、そんな油断をしていると、今日の様に、友人から容赦ないムチ攻撃を喰らうことになる。
「二分でできることがこの世にどれだけ存在すると思っているのかしら?」
「た、たくさんあるね……。なんかアリス、キャラ変わってない……?」
振るうムチの威力が、ミドルの時の比ではない気がするのだが。
さばさばと冷酷に振るわれるそれを、僕は全力で躱そうと試みる。すべて躱しきることができれば、景品としてアメが与えられるのが常だ。
「別に? 変わってないわよ」
「そ、そうかな……。ええぇ……?」
頭を傾げるようにして放たれた冷気が、春の陽気に逆らうように、僕の瞳を凍らせてゆく。凍り付いて動かなくなった視線の先には、頬にかかった髪を左手で払う高尚な仕草があった。否が応でも入ってくる視覚情報を、冷えて静かになった頭でもって処理していく。
ミドルの時よりも幾分か大人らしくなった制服に合わせてか、どことなく髪を束ねるリボンの色も大人しい寒色寄りになっているようだ。でも、逆にそれが太陽の様な髪色の艶を引き立たせている。春というよりか夏っぽい雰囲気があるから、憂い色のリボンが一層儚げに映る。
「言い訳は、歩きながら聞いてあげるわ」
ミドルの時は劇毒だったセリフが、猛毒になっている。
成績トップクラス、部活のエースを張る運動万能ぶり、程よく引き締まった抜群のプロポーションで容姿端麗と非の打ちどころのない完璧超人に、僕みたいな変哲の無い凡人は返す言葉が無い。許されるのは、せいぜい頷いて謝ることぐらいか。
「……お、怒らないで、アリス」
ごめんごめんと頭を上下させていると、ノアが声量控えめに宥めた。
アリスの影に隠れているせいで、せっかくの綺麗な黒髪ショートが褪せてしまっている。華奢な体つきに見合ったその声は洗練された鈴の音の様に澄んでいて、聴いてもいない歌声を妄想して陶酔してしまいそうになる。
出会った時していた眼鏡は、今はしていない。暗い印象を与えるからと、アリスに注意喚起でもされたのだろう。
「わ、わかったわよ」
「ご、ごめ……ん、ルート。今日の朝、アリスの――むぅ!?」
「そそそ、それは今言わなくていいわっ」
ノアは今、アリスの家で住み込みメイドとして働いている。
家にいる時間が無くなってしまわないようにするためということも、待ち合わせ場所を選んだ理由にもなっていた。
どうやら給料も貰えるようで、ノアの母もいくらか楽に過ごせるようになったらしかった。
「ごめん、なさい……」
「いいのよ、わかれば」
アリスが頭を撫でると、ノアの俯いた顔が次第に上がってくる。ブロンドの女の子が黒い犬を可愛がっているように見えなくもない。
そうなると、僕は部外者になるのだろうか。
「そろそろ歩き出した方がいいんじゃないかな」
〈三人で登校したいって言ったのはアリスじゃないか!〉などと心の中でだけ上気しつつも、上辺は部外者らしく横槍を入れてみる。羨ましさを感じていないと言ったら、それは確かな嘘になった。
アリスは、僕を思い出して深くため息をついた。
「全く……。どの口が言うのよ」
どうやら、アメはすべてノアにあげてしまったようだ。
僕は仕方なく、塩辛い涙雨を飲むことにした。




