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Ⅲ 導け届け、この思い。

【まえがき】

 本編です。




 

 


「ノアに何の用……」


 初めて会ったわけではないから、正確な第一印象は『少し暗い性格の子』ではなくて『黒髪で華奢な可愛い子』ということになる。

 アリスが家を尋ねると、何も言わずに居間へと通してくれた。

 拒否されて外での待機を余儀なくされることも覚悟していたけれど、親しくない間柄である僕も招き入れてくれて安心する。

 あまり歓迎されている様子はなかったが。

「…………」

「…………」

 居間に辿り着くなり二人とも黙り込んでしまう。

 もしかしたら、僕というイレギュラーな存在がいることで、二人のいつもの関係に綻びが生じてしまったのかもしれない。

 急激に増大し始める罪悪感を誤魔化すために、僕は口を開いた。

「あ、あの……。ノアさ――」

 つもりだったのだが、


「帰って……」


 拒否されてしまった。

 まだ腰を下ろしてから一分と経っていない。

 僕が口を開かなければあるいは、もう少しはもったかもしれないけれど、それでは意味がない。そして、現在おかれているこの状況もまた、意味がなかった。

 頼みの綱アリスを一瞥するも、すくっと立ち上がるところだった。

 このままでは終われない。終わるわけにはいかない。

 もう二度とやり直したくない。

 やり直しで見える代償の大きさを、僕は見たくない。

 何か……。何かしなければ。


 時計は八時に迫っていることを示している。

 公園の時計もあながち誤報はしていないようだ。


 壁掛けのカレンダーは二月のページが開かれている。

 改めて冬を自覚する。


 明日、十六日には赤い文字で『ノア 十五歳』と書かれている。

 この子は年下か……、頷ける。


 て。

 全然ダメだ。


「何してるのよ。帰る、こほこほっ! か、帰るわよ……」

 居間の中心で立ち尽くしていると、早速、玄関で靴を履き替えて待っているアリスに催促されてしまう。

 早く。

 早く何かしないと。


「あ。ちょっと待って」


 僕はテーブルの上に無造作に転がっていたペンの一つを手に取って、「借りてもいい?」と尋ねる。

「……いい、けど」

 了承を得たので、次のステップ。

 今度はおもむろに振り返って、壁に掛けてあったカレンダーを指差して、「少し書いてもいい?」と尋ねる。

「……別に、いい」

「ありがとう」

 僕がここへ来たと言う証を、今日、十五日の欄に刻む。

 ここまですれば、きっと無意味ではなかったと思える。

 僕はペンをテーブルに置いて、アリスの元へ急いだ。

「…………」「お邪魔しました」

「…………」

 僕の挨拶だけが空しく玄関に響いて、その入り口は閉じた。

 なぜだろうか、僕はすぐに歩き出すことが出来なくて、暫くの間、閉まったドアを見つめていた。

 後悔……、は無いはずだ。

 僕は、今の僕にできることをやったと思う。最後の機転なんかは自分でも褒めたいくらいだ。

 それに、僕は思うのだ。

 

 ――ノアは誰かに助けを求めている。


 そうでなければ、このドアを開けて、しかも、僕という部外者を家に入れてくれるはずなどないのだから。

 助けを求められているのは僕ではないのかもしれない。

 だけど、助けを求める声が聞こえて無視することが、僕にはどうしても正しいと思えないのだ。せめて何か、遠回しにでも、手を差し伸べることが出来ればと、そう思うのだ。

 あのメッセージには、そういう意味があった。

 でもやっぱり、これで完璧とは言えない。

 色々なところに不安は残っているし、結局はアリスの願いへの意志の強さで決まると思うのだ。

 だからきっと、僕が歩き出せないのには、他の理由がある。

 それに、どうしてアリスは何も言わないのだろうか。


「って、アリス!? 大丈夫!? 体がすごく熱い!! 大丈夫……じゃない!?」


 隣を見ればそこにアリスの影は無かった。

 当然だ。

 アリスは僕に救いを求めるように必死に手を伸ばして、倒れていたのだから。



     ×××



 僕が家に帰ると、すぐ、家族が総出で出迎えてくれた。

 浴びたのは歓迎の言葉ではなかったけれど、二言目には気遣ってくれた。

 僕がアリスを背負って家まで行った時も、アリスに浴びせられた一言目は往々にして厳しい叱責の言葉であった。

 僕はその後を知らないけれど、アリスの二回目が僕と同じ類のものであることを切に願う。



 僕は、長時間の外出で冷え切っていた体を、湯船に浸かるという『和』の技を使うことで、芯から温まることができた。いつものシャワーだと、体表から蒸発していく水に奪われる熱があるせいでしっかり温まることが出来るのだが、やはり『和』テイストは違った。

 それはもう、鼻血が出るほどだった。

「涼しい……」

 僕はお湯の温度以外から齎された熱で沸騰寸前だった頭を冷やすために、廊下の電話の前の壁を背凭れに涼んでいた。

 きっと、これも『和』である。

 そして、ここでよく冷えたミルクを飲んだりすれば、もっと『和』なのである。

「あ、いたいた。いやー、さっきはごめんね。はいこれ、冷たいよ」

 リズが持ってきたコップに入っていたのは、なんと、ミルクだった。

 これ以上ないくらいのベストなタイミングに、何か仕組まれているのではと少し怖くなってくる。

 誰が仕組むのか。

 それはきっと、世界の均衡を保っている神様、みたいな存在だろうな。

「あ、ありがとう」

 それはきっと、どこにでも潜んでいるのだ。

「でもさー。さすがに妹の裸で鼻血出すのはどうかと思うよ」

「ブふァっ!?」

 やはり身近に居た。

 それは僕の隣に腰かけているリズの、そのまた隣に、一緒に腰かけていたりするのかもしれない。

 でも、あまり口に含んでいなくてよかった。思い切りよく飲んでいたら、今頃廊下は白濁液の大惨事になっていただろう。

 風呂場から雑巾タオルを持ってきて、床に打ちつけられて独特の形に滴下した白い飛沫を、一滴残らず吸い取っていく。

「もー。汚いよー」

 それは自分でも思うけれど、少し理不尽性がある気もする。


『ご、ごめん』


 そう言おうとして、ふと思う。

 以前の自分ならそう言っていた気がする。というか、確実に言っていただろう。

 確かに、僕は以前の僕とは変わった。

 けれど、以前の僕が上書きによって消えてなくなってしまったかといえば、それも違うのだ。

 言い得て妙な表現が見つからないけれど、『成長』という表現なら端的でそこまでかけ離れてもいない気がする。

 成長して、その言葉は徐々に形を変えていく。


「リ、リズのせいだよ……」


 その言葉が余程想定外だったのか、リズは数秒の間、目を白黒させていた。

 そして、平静を取り戻した後、今まで見たことのない表情でぼそりと呟いた。

「だ、だって……シャワーの音しなかったんだもん。誰もいないと思ったんだもん……」

 僕から目を逸らしてしまったけれど、その顔は確かに赤らんでいた。

 それもそうか。

 僕が見て(・・)いるのだから自然、リズは見られて(・・・・)いるのだ。

 一緒に入っていた幼少時代とは違う、成長した自分を見られるのは恥ずかしいものだ。

 それは家族だけが感じる特有の感情のようで、少なからず僕も、親やリズに裸を見られることにはあまりいい気はしない。

 いや、僕の場合は別か。

「ごめんね。僕が悪かったね。次からは気を付けるよ」

「え。次もあるの?」

 少なくとも、『次』はこの世界で。



     ***



 湯冷めしてしまう前に布団へ入るのが、我が家に存在する数少ない掟の一つだ。

 リズもその掟に従って、先ほど就寝したようだった。

 掟、というには強制力が弱いけれど、心意気的な意味かと甘く見ていると『もしもの時の五か条』や『家族の在り方三項』なんかで躓くことになるだろうと、忠告しておきたい。

 言い出しておいてさっそく抵触しそうなのであるが、今回ばかりは目を瞑って欲しい。

 そうだな。

 逆に、『友達との付き合い方四戒』を適用しようか。



「もしもし」

『あ、あの……』

「ノアさん?」

『そ、そう。ノア』

 繋がった。

 電話の相手にこの喜びは伝わらない。

 溢れそうなこの喜悦はガッツポーズとなって、余すところなく表現される。

 実は、僕がカレンダーに施したのは「来ました」というメッセージではなく、電話番号だったのだ。

 全く話したことがなかったし、ただでさえ険悪なムードになっているところへズカズカと飛び込んだわけだから、期待薄ではあった。

 けれど、僕はやらずにはいられなかった。

 電話番号を書けば、それは同時に、架けてもいいという容認の意志も伝わることになる。

 容認の意志さえ伝われば、それは電話だけでなく存在も許容していることにも繋がるだろうと思ったのだ。

 今の二人に必要なのは、二人で歩いていく道にかかっている霧を払うことだ。

「電話してくれてありがとう」

『……べ、別に』

 受話器から聞こえる声には、先刻ほどの圧力は感じられない。

 幾らかは落ち着いて話をしてくれるようだ。

「でも、どうして電話してくれたの?」

 当の僕が落ち着いていられないなら、それは意味がないのだけど。

 架電してくれたことが嬉しくて、嬉しすぎて、どうも逸る気持ちを抑えられない。

 僕が望んでした選択で、話がアリスの願いに近づいたのだと思うと、やはり嬉しいのだ。

 いきなりの核心をついた質問にも、狼狽えることなく回答してくれた。

『アリスのこと、知ってそう、だったから……』

 そうだ。

 僕はアリスのことを知っている。

 そう自負できるくらいには、僕はアリスと親しくなれたと、通じることができたと思う。

「ノアさんは、アリスのこと、どう思ってるの?」

 今は喧嘩しているから正しいことは言えないかもしれない。

 でも、例え「嫌いです」ときっぱり言ったとしてもきっと、本当は僕と同じかそれ以上にアリスのことを思っているに違いない。

 だって、そうでなければおかしいのだ。

『ノアは……』

 あの家は、アリスの匂いで充満していたのだから。

 いや、アリスの匂いがあの部屋の匂いになったのかもしれないな。

 少なくともアリスの匂いは昔から変わっていない。

 変わったのはアリスの家の匂いだけなのかもしれない。

 高台のお城で艶やかに咲き誇る高貴な薔薇の香りではなく、たとえ現実が苦しくても未来を信じて世界に衒う、教会の花壇で上を向く向日葵の香り。

 それがアリスだ。


『アリスが好き……』


 あまりに真っ直ぐ過ぎて、一瞬、その意味を理解できなかった。

 だけど、心に反芻することで――僕の中にある感情と照らし合わせることで、その意図を(ほど)くことが可能になった。

「どれくらい?」

『アリスのためなら何でもする……くらい』

 それはきっと、信頼と言う形でアリスを助けてくれるだろう。

 でも、それは未来の話。

 今は、その未来のために、今の話をしなければならない。

「ノアさんは、まだアリスのこと怒ってる?」

 そして、あの時のすれ違いを悔いてくれているだろうか。

 誤った道を進んでしまったことに気付いてくれているだろうか。

『ノア、怒ってないよ』

「良かった。じゃあ――」

 受話器から聞こえた『でも』という否定的な単語の後に続いた文言は、あまりに現実実がなくて合理性も皆無で、いわば掟じみたものを思わせた。

『ノアが友達だと、アリスの迷惑になる……の』

 願いの霧の正体が掴めた気がした。

 そう。

 つまりは、それを解消すればいいのだ。

「大丈夫だよ、ノアさん。僕に任せて」

 何の根拠もないけれど、僕ならできる気がする。

 この際、世界をやり直しているから、という根拠を並べてもいい。

 でもきっとそれは、それ以前に、僕が『恋』や『愛』を知らないから、なのだと思う。


「ノアさんの願いは、僕が叶えてみせるから」



【あとがき】

 今回はただのサービス回だと侮るなかれ、ルートの成長が見られる涙ぐましい回でもあるのです。

 

 人はなかなか変われないと昔からよく言いますが、本当にそうでしょうか。

 私は違う気がします。


 つい数秒前までは牛丼が食べたかったのに、今、ラーメンのことを考えながらマックで弁当を食べている……みたいなことありませんか?


 はい。ごめんなさい。

 ないですね。



 次回はどうなってしまうのか。

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