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Ⅳ 再会と断続、その境界。

【まえがき】

 今回は、章の構成上、いつもより少し長い話になってしまいました。

 よろしければ最後までお付き合いください。



 では本編です。






 


 アリスを見つけてからというもの、妹の様子がおかしかった。

 具体的にどうおかしいのかというと、猫が学校に行ったらライオンになって帰ってきたようにおかしかった。

 僕は比喩が下手だった。

 なので記憶を辿ってみる。


『ええええええええ!! アリス先輩も来てくれるんですかぁ!?』


 開口一番、通る声でシャウトされたのは、確かそれだった。その時は、東西南北の校舎に木霊していた。

 そういうベクトルの反応をするだろうとは予測していたけれど、程度の話にすると、僕としてもそれは意外な反応だった。

 僕はアリスとエレメンタリーのころからよく遊んでいたから、同じ家に住んでいるリズも自然、アリスとの付き合いは長くなる。

 長い付き合いでわかっているのは、リズがアリスのことを熱烈に気に入っているということ。

 学校では親しみやすい後輩という顔で他人行儀に『アリス先輩』と呼ぶけれど、学校を出ればそれはすぐに、小さい頃から親しみ遊んできた友人の顔になって『先輩』と呼ぶようになる。どうして元の『アリスお姉ちゃん』ではないのか尋ねると、アリスに嫌がられたという経緯があったようだった。

 それでも、『先輩』や『アリス先輩』と呼ぶことで他人と自分とを区別している感は十分あった。

 ただ、そんなことよりも、放課後からついさっきまで続いていた腕組みに、僕は果てしなく呆然としていた。

 いくらなんでも大胆過ぎる。

 そして――


 〈滅茶苦茶羨ましい!〉


 ――と思ってもいた。

 気になって仕方なかった腕組みも、パスタのお店に到着すれば解消されたので、落ち着いて食事することができる。

 二人で食べる、という特別感に浸りたい気持ちは確かにあったけれど、学校生活において負うリスクの大きさを顧みるに、今のこの状況はとてもしっくり来た。

「それにしても、このお店の名前【パスタのお店】って言うのね。そのまんまじゃない。でも、まあ、名の通りパスタが美味しければ問題ないわね」

「あはは……。確かにそうだよね」

 リッチなアリスが言うと、強い圧迫感があった。

 しかし、アリスのオーダーしたものは、確か『店長特製ドリア』というこの店の最安値を誇る商品だったから、色々と矛盾している気もする。

「今日は私が奢るんだから、もっと頼んでも良かったのに……」

「いや、それはさすがに悪いよ」

 気持ちは嬉しいけれど、年上としての面目というものもある。

 一緒に食べられるだけで――っと……。

 何だかアリスにツッコまれそうなので、このセリフは胸に留めておく……つもりが、

「そうよ。どうせだから『君と一緒に食べられるだけでボクは幸せだよ』みたいなこと、言っときなさいよ」

 結局、言われてしまう。

「先輩……! 私は先輩と一緒にお食事できて嬉しいです!」

「あんたじゃないわよっ」

 自然と笑顔になれる空気が出来上がる。

 周りの客の迷惑にならない程度に、でも限りなく気を遣わずに、笑う。


 〈ここに来てよかった……〉


 そう思う。

 そう思うけれど。


 ――本当に?


 また、『違和感』が心に表れ始める。徐々に膨張して、心を覆い尽くそうとする。

 そうはさせまいと、僕も全力で抵抗する。

 抵抗する……。

 抵抗する…………。

 抵抗の仕方が分からない。

 逆ベクトルのことを考えて打ち消そうにも、違和感自体の性質が判然とせず難しい。

 しどろもどろに渦巻き絡まった感情が、僕という器に重く圧し掛かってくる。まるで、こうなって当然だから仕方ないのだというような、どうしようもない諦念に駆られる。

「突然だけど、こんな噂を知っているかしら?」

 リズとじゃれていたアリスが急に、不自然な話題と視線を僕に提供してくる。

 もしかしたら、(にが)い感情が思い切り顔に出ていたのかもしれない。

 けれど、今は大いに話に乗りたかった。

「それってどういう噂なの、アリス?」

 藁にも縋る思いで、アリスの話題に食いついた。

 狙い通りの僕の反応に安堵の色を浮かべたアリスの瞳と、アイコンタクトが成立する。

「え、えーと、そうね……」

 ようやく眉を開いて話ができるかと思えば、まさか、策士ともあろうものが無策だったのだろうか。

 店内からは食器と食器が擦れる音、キッチンの方からは滔々と流れる水の音。

「なんですか、なんですか? もったいぶらずに教えてくださいよぅ」

 心臓に悪い沈黙は偶然にも解消されるが、アリスが対策を講じない限り、何も問題は解決しない。僕自身も急いで対策を練っているけど、どうにも『作り話』は苦手だ。

 少し静かな状態が続いて、再度、沈黙になろうとしていた時だった。

 アリスの顔つきが策士に変わる。


「ふぅ……。仕方ないわね」


 そう前ふりして話し始めた『作り話』は、異様に現実的で、作ったものではなく天然の――本当に身近に起こった事実のように、僕の心を揺さぶり始める。

「『願いの夢』という話を知っているかしら?」

 リズは首を横に振る。そして、餌を目前に焦らされる犬の様に目を爛々と輝かせて、続きを待っている。

 アリスは少し口角を上げつつ、自前の餌を投じていく。

「この国ではね。昔から、十五歳になると不思議な夢を見る、と言われているのよ」

「へぇー! へぇー!」

 夢物語の様な話に過剰な反応を示しているが、おそらく傍聴理由の半分以上は『話し手がアリスだから』という項目で占められているに違いない。

 僕はといえば、誰とも目を合わせられなくて、テーブルに備え付けてあったナイフとフォークを見ていた。反射して映った歪んだ自分の顔を見て、憂鬱になる。リズに与えられた餌を横取りしようにも、アリスの含みのある笑みが怖くて、踏み切れない。バツの悪い空気を一身に感じて、ただただその声に耳を傾ける。

「それでね。その夢の中では、どこからともなく声がするのよ。そうね……確か、一度も聞いたことがない声が頭の中に響く感じらしいわ」

「それで、なんて言われるんですか?」


 ――『願い』を一つ叶えてくれないか?


 ――その願いというのは、君の『願い』を叶えると言うものだ。


「へ、へぇー……。確かに、変な夢ですね」

 明らかに回りくどい方法が、乙女の夢を破壊してしまったのか、話を聞くリズの意欲は『話し手がアリスだから』以外になくなってしまいそうだ。

「そう。変な夢よ」

 アリスに変な夢と称されるのは、『願い』が叶うからというよりも、その回りくどさにある気がする。

 結果として一つの『願い』を叶えるのなら、初めから「あなたの願いを叶えましょう」と言えば良い所なのだ。

 にもかかわらず、「あなたの『願い』を叶えると言うのが、私の願いです」と婉曲的に言うのには、何か理由でもあるのだろうか。まあ、都市伝説だから面白さに期待はしないけれど。

「でも先輩、どうしたんですか急にそんな話を」

 話の発端を辿ったのか、リズが不自然さに気付いてしまった。こうなると、対処はすべてアリス任せになってしまう。

 どうしてその話題を持ち出したのか、僕には知る由もないのだから。

「そうね。最近、十五歳になった人が近くにいたからかしら?」

「ルーのことですね! さすがアリス先輩! オチをつけるのも上手いです!」

 策士(アリス)が感情的な理由だけでそんな話をするとは思えなかったけれど、場の空気は結構落ち着いてきたので、一先ずは胸を撫で下ろせる。



 一呼吸置けと言わんばかりのタイミングで、僕たちのオーダーしていたものが運ばれてくる。



 店内を明るく照らすシーリングライトとスタンドライトの組み合わせは、ノートに映ってしまう自分の影を打ち消してくれるので勉強が捗りそうだけど、今日照らしているものはしっかり黒いままだった。

「イカ墨~♪」

『パスタのお店のイカ墨パスタ』がテーブルの上で黒く衒っているのを見て、妹の表情は段違いに明るくなる。リズは結構、食べることが好きだった。

 続いてアリスの目の前に配膳された『店長特製ドリア』は、これでもかというほどの湯気を立てていて、その熱さが非情であることを物語っている。しかし、熱で蕩けたチーズのアトランダムなうねりを見ると、他人の物であるにもかかわらず食欲が掻き立てられてしまう。

 ただ、いくら夏の終わりとはいえ、寒くなったわけではない。

「あ、温かそうね」

 アリスは暖かいものが好きなのかもしれない。

「『蕎麦風パスタとパスタ風蕎麦の境界』になります」

「あ、はい」

 読み上げられた商品名を考察すると、パスタでも蕎麦でもない麺類という分類になる。

 僕がオーダーしたかった料理は、所謂『和食』と言うやつだったのだけれど、洋食店に『和』を求めてもいい答えは返ってこない。

 そう諦めかけていた僕の視界に飛び込んできたのが、これ『蕎麦風パスタとパスタ風蕎麦の境界』だった。

 ただでさえ謎のジャンルである和食を好き好んで食べる者は、この国では好事家と呼ばれることになる。ある哲学者が『和食』のことを『平行世界の遺物』とまで言っていたことは、和食を好む好事家たちの間では、あまりに有名で共感に値する噂である。

 その理論に共感を示せる人間を好事家と言わず何と言えようか。それは表現的な意味で。

 よくされる「何が謎なのだ?」という愚問には、「すべてが」という一言で返すに尽きる。

「境界って言ってたけど、それ、和食なのかしら?」

 アリスはスプーンを手に取りながら、物好きの感性を疑う。

 僕は自信を持って、その疑念を払いたい。

「蕎麦は和食!」

 もっと具体的に言えば、僕が和食と思う物は『和食』だ。

 箸という食事道具を探したけれどなくて、その代わりに、我慢の限界を超えてイカ墨パスタを食べ始めているリズを見つける。

 一口、また一口と頬張るごとに、口の周りがイカ墨で染まってゆく。その黒に比例して拭いてあげたくなってくる。しかし、『遠い方』に来ていることを思い出して、手が出せなくなる。

「ぁむ……。お、美味しいわ、あっ、熱くて」

 こちらでも、すでに食べ始まっていた。

 いただきます、とか言わないのが流行っているのか。

 仕方ないので、僕もフォークを使って食べ始めることにする。

 ご飯を食べれば大抵の不満は忘れてしまう、というような話をよく聞くけれど、本当にそうだと思った。



 喉越しで感じる特殊過ぎる芳香が、クセになる。これは確か……『seuyu』という名前のソースの匂いだった。

 そのソースは流動性に優れているために、啜るだけで麺と麺の間に良く絡むので、風化して味が落ちることがない。パスタは時間が経つと乾燥して味が落ちるから、すぐ食べなければならないが、蕎麦の場合はその心配はなかった。

 それどころか、時間が経つと麺が『seuyu』を吸って柔らかくなるので、塩梅の整った味そのままに、また違った食感を楽しむことができるのだ。

 そんな洗練された料理『和食』は、蕎麦だけの話ではない。

 そもそも『和』というのは……



「ちょっとルー。洋食店なんだから、あんまり啜って食べちゃだめなんだよー」

 感慨に浸っていると、口の周りを黒くした年下の女の子に注意されてしまった。

 反駁の余地があり過ぎて、逆に罠なのではないかと、疑いたくなる。

 だから、あえて「ごめん」と謝ってみれば、立場が逆転している事に気が付く。

 実は罠など最初からなくて、空いている深い穴に自ら入ってしまったパターンだった。

 僕は、自業自得の落とし穴から抜け出すべく、足掻いてみる。

「食べるの早いね、リズ」

「え。そ、そうかな? ――はっ!」

 リズは隣に座っている人物を一瞥して、何かに気付いたようで、突然行儀よくなる。

 そして、テーブルに備え付けられた紙ナプキンで仰々しく口を拭うと、微笑みを一つ作って、話を逸らそうと努めた。

「さ、さっきの話の続きなんですけど、先輩は将来の夢とかあるんですか?」

 せっかく収束した危惧の念が、再度形を帯びてくる。

 でもそれは、受験という人生の岐路に立たされた僕たち三年生に対して、一年生であるリズが疑問で然るべきことなのかもしれない。

「それは叶えたい『願い』とか、そういう話……ではないわよね」

 質問の意図を理解したのか、アリスはリズと視線を合わせないようにして、何か考え始めた。

 すぐに答えが出せないのは、リズの納得を得られそうな解答が浮かばないからか、具体的な将来像がないからだろう。

 流れ的に、僕も言わなければいけないだろうから、他人事ではなかった。

『どこのアカデミーを受験しますか?』という具体的な質問ですら消去法で答えを出している僕が、『将来の夢は何ですか?』のような抽象的な問いに、誰かを納得させるような答えを出せるはずがないのだ。

「あたしの将来の夢……。そうね、多分、医師とか弁護士とかになると思うわ」

「へぇー! お医者さんですか! やっぱりアリス先輩はすごいですね!」

 アリスの言った『多分』や『なると思う』という曖昧な表現には、アリスらしからぬ覇気の無さが、確かに見て取れた。

「そんな素晴らしくなんかないわ。あたしはただ、言われたことを言われた通りにやるだけよ。そんなものより、リズのご両親の仕事の方がよほど生産的で素晴らしいと思うわ」

 コーヒー園経営者と文学者を持ち上げて、医者と弁護士を謙って言う。話しているアリスの表情は、戒律正しい仕事とは質を異にするものを、どこか羨望しているようにも見える。

 アリスの本当の夢は医師や弁護士じゃない?

 だとしたら、どうしてそんなことを言ったのだろうか。

 問いを投げかける前に、僕へとパスが回ってくる。

「そ、そうだわ。あなたはどうなのよ。三年生なんだから、将来の夢くらいはあるでしょ?」

「ぼ、僕は……」

 いまだ正体の掴めない違和感と、アリスの表情と言葉、それから腑に落ちない不安要素の対処に手一杯で、自分のことを考えるのが蔑ろになっていた。

 適当な解答をすればアリスにツッコまれるだろうし、妹の面前なのでカッコつけていたいという気持ちもある。それに、沈黙を作るのも怖い。

 穴の空くほど瞳を凝らして僕を見つめている二人から、さりげなく視線を逸らして、薄らと店内を見渡してみる。

 店員が慌ただしく蠢く統率の取れたキッチンルーム、値段以上に多種多様なセルフバイキング、自身の緑を強く主張する観葉植物。これほど周囲を見渡している人は、十数人いる客の中でも僕くらいだ。

 もし今、何か一つでも合点がいく答えを見つけることができれば、その不条理さや理不尽性を無視して、僕はそれを自分の答えとしてしまうのだろう。

 でも、順序としては間違っていないのかもしれない。

 どれだけ平仄が合わない決断であったとしても、それは自分がした決断に変わりはなくて、後になって考えてみて悔いが残るのなら、またやり直そうと努力すればいいのだ。もし、成功したのならば、その時は両手を上げて喜べばいい。



「――っ!?」



 ふと視界に飛び込んできた狂気に、僕は息をのむ。

 同時に、感じていた違和感が、仄かな恐怖へと形を変え始めている事に気付く。

「アリス。リズ。今すぐここを出よう」

 期待していた答えと違ったようで二人ともとても不満そうだったけれど、結局、納得の解答が浮かばなかったのだから、仕方がなかった。

 しかし、今は浮かんでいたとしても同じ答えを返しただろう。

「えー……。どうしたの急にー。まあ家でも聞けるからいいかー」

「もっと焦った方がいいと思うのだけど」

「気付いてたの!?」

 アリスは首を横に振って「今気づいたのよ」と言った。

 いつも通りの冷静で鋭い声色なはずなのに、僕の心は不安なままだ。

「え? なになに? どゆこと?」

 周囲をキョロキョロと見回して首を傾げ、イマイチ状況が掴めていない様子だ。

 ならば、掴めていないままの方が善策だろう。

 まだまだ子供のリズに、現状を伝えて混乱させる方が悪い結果になる気がする。

「なんでもないわ。これからショッピングする予定を立てていたのを思い出しただけよ」

 これから、というと確実に夕食に間に合わなくなる気がするけれど、アリスの言うことならリズは都合よく解釈してくれる。

 そこに引け目を感じている暇はなかった。

「と、とにかく! ここを出よう!」

 今なら、会計を済ませて、安全に脱出することができる。

 下手に刺激するより穏便に事を構えた方が、僕たちとしても冷静にいられるはずだ。

 脱いでいた制服を着て、会計の伝票を持って、忘れ物がないか確かめて、二人の手を引くようにして、出口付近にある会計場所に急ぐ。

 この際、二人の手を引くだけでもよかった。

「かかかか、会計、お願いします!」

「そんなに緊張しなくても……、っていうかここは私が奢るんだからね!」

 割り込んでくるリズに、少しばかり苛立ちを覚えるけれど、ここは従った方が早く済みそうなので黙って奢られることにする。「会計は全員分まとめてお願いします!」と元気に発音する姿を見るに、まだ気づいていないらしかった。

「か、かしこまりました」

 一方、店員の方は視線の先だけあってさすがに気付いて、萎縮している。

 そして、背後を取られる形となった僕は、手の震えが収まらず足も落ち着いて地面を捉えてくれない。生きた空もない思いをしているのは、僕の左腕に必死にしがみついているアリスも同じだっただろう。

 会計を終えたリズが「どうしたの?」と訝し気に尋ねてくると、圧倒的な温度差を感じた。

 しかし。


「あ……」


 そこにあった温度差が急激に縮まって、一気にゼロになる。いや、マイナスかもしれない。

 リズは恐怖を体現化したような表情のまま、一歩、また一歩と後ずさる。リズが離れていかないよう、僕もリズを追うように二歩前進する。自然、アリスもついてくる。

 会計場所の長机に凭れかかるように、僕たち三人は身も心も縮こめて戦々恐々する。

 恐怖を目の当たりにしているからか、リズの顔からは徐々に色が抜けていっている。このままでは死人のように白くなってしまう。

 そして、一瞬、リズの体がビクッと反応する。

 何に反応したのか、推測は必要なかった。

「ひっ!!」

 僕の目の前で、同じ圧力を感じていた店員が、声を上げてその心情を露わにした。そして、逃げるという行為によって、自分の『願い』を叶えようとする。

 すっかり密着しているおかげで、二人の心臓の音が聞こえてくる。それは僕と同じく「助けて」と音を上げ、弱く、そして早く拍動していた。



「金を出せっ!!」



 学校の先生が熱弁する時なんかよりも明らかに野太くてどすの利いた声。透明感が無く焼け枯れているせいで耳障りなのが、逆に頭に残って気持ちが悪い。

 客の中には悲鳴を上げる者もいたが、数秒後には沈黙の空間の一部となって、ただただ恐れ戦いているだけだった。そこに生まれた一体感は、何よりも頼りがいがなかった。

 その一体感に飲み込まれるように不動沈黙でいた僕は、眼を瞑ってただただしがみついてくるアリスの期待に応えようと、策を練るのに必死だった。

 でも。

 極度の緊張と、これ以上ないくらいの後悔が、僕の思考回路をシャットダウンしてしまう。その度に僕はゼロから考え直すけれど、打開できるような策など一つとしてありはしなかった。

 どうしよう!

 どうもできない。


 〈奇跡でも起こらない限り……、僕たちはもう……〉


 奇跡を祈っていた矢先、僕にかかっていた重さが、まるまる一つ取られる。否、盗られる。

「きゃ!! いやっ、やめて!!」

 重さの正体は、妹のリズだった。

 僕は、思わず振り返った。恐怖を超える『何か』を感じたせいだ。

 僕のそばにあるはずだったリズは、どうしてか見知らぬ男の腕の中にある。

 強引に首元に添えられたナイフが、ちらちらとこちらを挑発するように反射光を浴びせてくる。あと一センチでも動いたら、雪のような白さに不純で穢れた赤が表れてしまうだろう。

『何か』を感じていた僕は、考えるより先に言葉を放っていた。


「やめろ!!」


 〈やめろ! 妹に触れるな!〉

 そう思った。

 僕は、他でもない憤りを――『憤怒』を感じていたのだ。それが恐怖に打ち勝った。

 普段、大きな声を使うことがないので、自分で自分の声に驚く。

 でも、一度閾値を超えれば、次の行動までは時間がかからなかった。


「離せ!!」


 文になっていない言葉。ただの命令文句。

 こんなにも強い言霊の籠ったセリフを、こんなにも弱い僕が言えるとは思っていなかった。

 でも、言えた。

 これはリズのためだから。

 そう思うと、勇気が湧いてくる。


 〈もしかしたら、返り討ちにできるかもしれない!〉


「それはだめよ!!」

 アリスの悲痛な叫びが耳に入ったかと思えば、刹那、僕の視界はやけにローアングルになっていた。アイレベルを上げようと試みるも、下腹部に強烈な痛みが走って起き上がれ……ない? どうして? 地面に寝そべっている場合じゃない……のだけれど、頭も打っているようで視界が不均一に歪む。

「大人を舐めるなよ!?」

 気味の悪い声が耳に入ると、防衛反応で視界の歪曲が一気に調整される。そして僕は、理解する。

 どうやら僕は、僕が思うより先に(・・)、行動に移してしまったようだ。

「くっ……。うぅ……」

 どれほどの力を下腹部に受けたのか。

 それは、自分が店の外まで飛ばされていることを考えれば、痛いほどわかった。こうして、確かに痛いし。

 でも、そんな痛みは耐えなければならなかった。耐えて、二人を救わなければなかった。

 アリスというもう一人の人質を手に入れたその男は、店内に向かって再度「金を出せ!!」と凄む。そして今度は「さもないと、こいつらの命は無い!!」と条件を足した。

 困る。やめろ。ふざけるな。絶対に許さない。

 思いがいくら募ろうとも、それらが腹部の激痛を癒してはくれない。

 尚も、動けない。

 痛点を大雑把に押さえて、涙が溢れてしまわぬよう奥歯を食いしばる。それしかできない。

「くそっ……! ぅ……ぐっ……」

 形は違えど、これは人生の岐路なのではないだろうか。

 叶えられない『願い』がいくらあっても、現実、叶えるべく努力するための願いを決めることは難しい。


 ――今助かるという奇跡を願うのは簡単だけど、現実、僕が立ち上がって二人を救うのは難しい。


 勝手な変換をした自分の思考回路に腹が立つ。それでいて道理に外れないその理論に、また、腹が立つ。今、立ち上がれない自分に、一番、腹が立つ。

 例え無駄でも、例え無意味でも、例え無価値でも。

 今自分が立たされている運命に抗えないことに、狂おしいほどの『憤怒』を覚える。目の前に目的が――光が見えているのに掴めないもどかしさに、僕はこれ以上ない怒りを感じてしまう。

「おい!! 誰も持ってないってことはないだろう? ええ?」

 頑として沈黙を貫く店内の反応の無さに痺れを切らした男は、「それならこうするだけだぞ?」と脅迫し、同時にナイフの刃でアリスの首を軽く撫でた。

「――っ」

 アリスはいつものプライドに満ちた明るい微笑と正極にある険しい表情を見せる。

「お? この女、無反応かよ。我慢しなくてもいいんだぞ、俺は若い女の喚く声がたまらなく好きなんだ! ほら、ほら!!」

 一つ、また一つと赤い雫が重力の働くままに首を伝って、制服の襟で堰き止められる。雫が通過した後には赤黒いラインが浮かんで、痛々しさを周囲に知らしめる。

「い、痛っ! や、やめなさい、よ!」

「ア、アリスお姉ちゃん! お願いやめて!」

 くそ。

 僕が助けないと。僕が助けないと。

 ……だめだ。

「お腹が……、くっ……」

 叫んで助けを呼べば或いは。

 でも。

 さっきの様に声を張ろうにも、痛みのせいで腹部に力が入らない。

 ならば、だれかの近くまで行けば、この異常事態に気付いてくれるかもしれない。

 洋食店の前は大きな廊下になっていて、向かい側にはこじゃれたインテリアショップが設置されていた。人も何人か確認できる。

 この際、一般人でも構わなかったけれど、その中に一人。

「……お姉ちゃん、大丈夫!? しっかりして!」

「へ、……気よ」

 かろうじて店内の音が聞こえる。男はまだ僕に気付いていないらしい。

 これなら。

「へえ。似てない姉妹だな。髪色も違うし、どっちかと言えばさっきの――」

 男の話し声が止んだ代わりに、足音が近づいてくる。

 もう、気付かれてしまったか。

 でも。

「き、君! 大丈夫かい!?」

「は、はい。何とか」

 慣れない地を這っての移動に酸素を使ったせいで、脳にまで十分な量の酸素が届いていないらしく、正常な意識を保つことができない。どことなく視界も白んできた。

 朦朧とする意識の中、僕は伝えなくてはいけないことを伝える。

「妹が……妹と友達が、大変なんです!!」

「大変!? 大変ってどういうことだい? もう少し詳しく教えてくれ!」

 防衛用の装備を整えた警備員と話していれば、ナイフを持っていたあの男もそう簡単に手は出せないだろう。

 僕を追って来たとしても、警備員に返り討ちにされるのがオチだ。

「妹を、アリ……ス、を……。二人を……」

「ちょ、ちょっと! 大丈夫かい!」

 よかった。

 これで二人とも助かる。

「助けて、くだ……」

 苦痛を堪えて立ち向かうとか、潔く諦めるとか、そういう正攻な選択ではなく、命題の揚げ足を取るような、頓智を利かせたような、そんな途轍もなく脇道にそれた選択肢だと、僕は思う。

 でも、それで誰かが笑ってくれるなら。


 僕の好きな人が笑顔でいてくれるのなら。


 僕はその選択を、後悔しない。

 

 

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