婚約破棄と、未払いの人生
シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に落ちて砕けている。
王立学園の卒業を祝う夜会。その壇上で、私の婚約者は高らかに宣言した。
「メリア・オルコット伯爵令嬢! 私は本日をもって、お前との婚約を破棄する!」
ヘンリー王太子殿下。金の髪を撫でつけ、胸を張り、まるで英雄譚の主人公のような顔で。その隣には、若草色のドレスの男爵令嬢シャロン様が、庇われるように寄り添っていた。
「お前は地味で、可愛げがなく、顔を合わせれば金の話ばかり! 私はもう疲れた! 真実の愛はここにある!」
会場がどよめく。何百という視線が、壇の下に立つ私ひとりに突き刺さる。
ああ、と思った。
七年間、殿下のために積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。極度の緊張で目の前が白くなって、膝から力が抜けて――
その瞬間だった。
頭の奥で、何かが弾けた。
――横断歩道。青信号。春の朝。
スーツは下ろしたてで、鞄には辞令交付式の案内状。私は浮かれていた。第一志望だった大手会計事務所の、内定式の朝だったから。
歩きながら見ていたのは、株を買おうと目をつけていた企業の決算資料。営業利益率よし、自己資本比率よし、これは買いだ、初任給が出たら――
クラクション。
振り向いた先に、トラックのバンパー。
……思い出した。私、死んだんだ。
二十二歳。内定式の、まさに当日に。
『あー!! あの優良企業の株、買えてないじゃん!! っていうか仕事!! 私まだ一円も稼いでない!!』
走馬灯の最後に叫んだ言葉まで、はっきりと思い出した。ひどい遺言もあったものだ。
そして今、私はメリア・オルコット。十八歳の伯爵令嬢。前世ごと数えるなら、魂の年季はもう少し上。
膝の震えが、止まっていた。
なるほど、これが二度目の人生。そして目の前には、七年分の投資を踏み倒そうとしている債務者がいる。
「……ふ、ふふ」
「な、なんだ、笑うとは無礼な――」
「承知いたしました、殿下」
私は背筋を伸ばし、扇を閉じて、にっこりと微笑んだ。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。つきましては――婚約期間七年分の精算をお願いいたします」
「……は?」
「ソフィ、あれを」
控えていた私付きの侍女が、心得たように進み出る。栗色の髪の小柄な彼女が両腕で抱えているのは、紐で綴じられた羊皮紙の束。その厚み、三十八枚。
「お、お嬢様、本当に配るんですか、これ」
「もちろん。今夜のために七年かけて作ったんだもの」
(ほんとは夜会の後、これからの話をするためにまとめたものだけど…少し早めにお見せするだけよ。念のため多めに作っておいてよかった♡)
困惑する来賓の方々に、一部ずつ。国王陛下の名代でいらしている宰相閣下には、特に丁寧に。
「殿下への婚約支度金、金貨八千枚。王家への献上品ならびに社交費、七年累計で金貨一万二千枚。学園での殿下の……そうですね、『学業補助』に費やした私の時間、市場価値に換算して金貨六千枚。その他明細記載の通り、合計・金貨三万枚。利息は温情でお付けしておりません」
「な……なん……」
「なお三ページ目以降は、殿下がこの七年で王家の予算から支出された『用途不明金』の一覧です。宝飾店グランドールでの支払い、劇場の貸し切り、南の離宮の改装……お相手のご令嬢のお名前で領収書が切られているものには、印をつけておきました」
シャロン様の顔から、すうっと血の気が引いた。
(そりゃそうよね。用途不明金に身を包んでいらっしゃるのですから)
会場のどよめきが、先ほどとは違う種類のものに変わる。羊皮紙をめくる音が、さざ波のように広がっていく。
「わ、私を誰だと思っている! 王太子だぞ!」
「はい。ですから王家の帳簿は、いずれ国の帳簿。国の帳簿は、民の血税でございます。――私、お金の話ばかりする女ですので」
地味で、可愛げがなくて、結構。
前世の私は、働く前に死んだ未練の塊。積み上げた簿記も、監査論も、内定通知書も、何ひとつ使わないまま!
だったら今世でやることは、ひとつでしょう。
(この人生で未収金は、まとめて回収させていただきます!)
真っ赤になって言葉を失う殿下と、震えるシャロン様。宰相閣下が無言で額を押さえるのが見えた。
――と、そのとき。
ふと、視線を感じた。
会場の隅。柱の陰。夜会だというのに飾り気のない黒い礼服の、背の高い男の人が、配られた明細を読んでいた。
笑うでも、囁き合うでもなく。一枚、一枚、頁を繰って。私が七年かけて組んだあの数字の森を、一枚も飛ばさずに。
男の人が、顔を上げた。
氷みたいな色の瞳と、目が合う。
……誰?
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「婚約者に裏切られて、知らない花婿と結婚したら、なぜか幸せです」完結もよろしければご覧ください。




