第4話:マドンナと嫉妬の幽霊
「……やっぱり、ダメか。物理法則には勝てないのかな」
日曜日の午後。僕は玄関の三和土で、膝をついて深いため息をついた。
目の前では、お菊さんがまるで見えない透明な壁に弾き返されるように、玄関のラインで「おっとっと」と不格好にたたらを踏んでいる。
彼女の装いは、今日も相変わらずハイカラだ。大胆な幾何学模様が施された銘仙の着物に、レースの半襟。頭には臙脂色のベレー帽をちょこんと乗せ、腰にはビロードのリボン。八十年前の銀座か原宿を闊歩していたであろうそのモダンな姿は、この埃っぽい昭和のアパートの玄関にはあまりにも不釣り合いで、そしてどこか儚い。
「もう! なんなのよ、この部屋! 敷金も礼金も払ってないのに、なんでこんなに私を離してくれないのよ! 若い娘を閉じ込めておくなんて、文明開化に逆行してるわ! この偏屈アパート!」
お菊さんは悔しそうに頬を膨らませ、何度も見えない壁をポカポカと叩いている。彼女が外へ一歩踏み出そうとするたびに、空気がパチパチと静電気を帯びたように弾け、彼女の青白い輪郭がテレビのノイズのように激しく乱れるのだ。
彼女は自分が死んでいる自覚が薄い。だから、この現象を「霊的な拘束」ではなく、物理的な「ドアの立て付けの悪さ」か何かのように捉えて憤慨している。
「お菊さん、落ち着いて。……たぶん、君の存在そのものがこの部屋の空気と同化しちゃってるんだと思う。八十年もここにいたら、部屋の一部になっちゃうのも無理はないよ。だから、君を構成している『記憶』や『霊体』を一時的に移し替える器が必要なんだ」
「器? 私を茶碗か何かに閉じ込める気? 冗談じゃないわよ。私はおしゃれなカフェで、あの『たぴおか』って飲み物を飲みたいの。茶碗の中で揺られてる場合じゃないわ」
僕は苦笑しながら、昨日、部屋の隅の畳の隙間から見つけた「古い手鏡」を取り出した。銀の装飾が施されたアンティークな手鏡。磨き上げると、驚くほど澄んだ鏡面が、僕の顔とお菊さんのモダンな姿を同時に映し出した。
「これ、お菊さんのものじゃないかな。掃除の時に見つけたんだ。君と同じ、あの甘ったるい白粉の匂いがする」
お菊さんはその鏡をまじまじと見つめると、懐かしそうに目を細め、細い指先でそっと鏡面に触れた。
その瞬間、鏡が淡い桜色の光を放ち、お菊さんの姿がシュンと吸い込まれるように鏡の中へと消えた。
『……あら? なんだか、すごく落ち着くわ、ここ。……一馬、聞こえる?』
声は、僕の脳内に直接響いてくる。鏡を覗き込むと、そこには鏡の中の反転した世界を珍しそうに歩き回る、手のひらサイズの小さな「お菊さん」が映っていた。
「聞こえるよ。……お菊さん、そのまま、僕のリュックのサイドポケットに入ってて。今から玄関を越えてみるから」
僕は鏡をリュックのポケットに差し込み、一歩、外の世界へ踏み出した。
……パチパチという火花は散らない。振り返っても、お菊さんが引き戻される気配はない。
『……一馬! 外よ! 本物の土の匂いと、花の匂い……それに、あのおしゃれな建物の匂い! 私、本当に出られたのね!』
お菊さんの歓喜の声が脳内で爆発する。
こうして、僕とお菊さんの、誰にも言えない「秘密の大学生活」が始まったのだ。
月曜日。大学の大講義室。
教授が淡々と「需要と供給のバランス」について説く中、僕のリュックからは絶え間なく小言が漏れ聞こえてくる。
『ねぇ一馬さん、あのおじいちゃん教授、さっきから同じことばかり。それに周りの人は寝てばかり……私の時代なら、居眠りなんてしたら竹刀で叩かれて廊下に立たされたわよ。今の若者は気合が足りないわ』
「(……静かに。あれは経済学の教授だよ。それに今どき竹刀なんて持ち込んだら、即、SNSで炎上して警察沙汰だ)」
僕は教授の書くグラフを追うふりをして、手元を隠しながら小声で返した。
すると、お菊さんがリュックの隙間から、ふわりと上半分だけ身を乗り出してきた。
「(……っ!?)」
不意に視界に入ってきたのは、銘仙の生地越しでも分かる、柔らかそうな「女の子の肩のライン」だった。お菊さんは僕の左肩に顎を乗せるようにして、講義室を見渡している。至近距離から漂う白粉の香りと、首筋に感じる氷のような冷気。相手は幽霊だと分かっていても、僕の網膜が捉えているのは、紛れもなく「可憐な女の子の肉体」そのものだった。
『退屈だわー。あ、見て一馬! あの左前の席の男の子、鼻から大きなちょうちん出てるわよ! 傑作ね、絵に描いたようなマヌケ面だわ!』
「(……見るな。前を見てろ。あと、あんまり身を乗り出すな。僕の肩が凍傷になりそうだ)」
『いいじゃない、指定席よ。……あら? ねぇ、あの子、あっちの席に座ってる女の子。さっきから一馬さんのこと、チラチラ見てるわよ。視線が、なんだか「熱い」わねぇ』
お菊さんの視線を追うと、三列ほど前の斜め前に座っている白鳥さんと目が合った。
学部のマドンナ、白鳥沙織。誰もが振り返る美貌を持つ彼女が、僕と目が合うと、パッと顔を赤らめてノートに視線を落とした。
『……ふーん。あの子、あんたに気があるわね。幽霊の直感は、生きてる女の勘よりも一〇〇倍鋭いのよ。あんたみたいなパッとしない男のどこがいいのかしらね』
「(気のせいだよ。……それより、お菊さん、ちょっと落ち着け。リュックがガタガタ揺れてるぞ)」
『面白くないわ。あんた、今、鼻の下が三ミリは伸びたわね。私と部屋で二人きりでいる時より、一兆倍くらい嬉しそうな顔をして……不潔だわ、エロ馬!』
お菊さんの声に、明らかな「トゲ」と、凄まじい「冷気」が混じった。
それと同時に、僕の手元でノートをとっていたシャープペンシルが、ガタガタと勝手に震え出した。
「(おい、ポルターガイストはやめろ! ペンが自走し始めたら、明日から変人扱いだろ!)」
『知らないわよ! あんたの下心が私の霊力を乱すのよ! 反省しなさい、この浮気者!』
「(浮気じゃないって……!)」
講義終了のチャイムが鳴り響いた。僕は逃げるようにリュックを背負い、足早に教室を出ようとした。しかし。
「あの……佐藤くん!」
背後から鈴の音のような声に呼び止められた。
振り返ると、そこに白鳥さんが立っていた。近くで見ると、その肌の瑞々しい透明感、柔らかいフローラルの香り。お菊さんの「ひんやりした美しさ」とは決定的に違う「生命力」という圧倒的な光がそこにはあった。
「その……佐藤くん、最近なんだか雰囲気が変わったね。すごくミステリアスというか、何か隠し事をしてるような……。もしよかったら、この後、学食で一緒にお茶しない?」
『ミステリアスですって!? ただの寝不足で顔色が土気色なだけでしょ! 断りなさい! 今すぐ「私には心に決めた幽霊がいます」って叫んで割腹しなさい!』
脳内でお菊さんが絶叫し、リュックが「ドカドカ」と内側から蹴られているかのように不自然に揺れる。
だが、二十年間の人生で一度も女子に誘われたことのない僕にとって、学部のマドンナからの誘いを断るという選択肢は、この宇宙のどこにも存在していなかった。
「……ああ、いいよ。ぜひ」
『一馬さんの……大バカーーーーー!!』
学食のテラス席。
白鳥さんは楽しそうに、最近ハマっているというオカルトスポットやスピリチュアルの話をしていた。
「私、目に見えない不思議な力が大好きで。……ねぇ、佐藤くん。なんだか今日、君の周りだけ空気がゆらゆら揺れてない? まるで、誰かがそこに座っているみたいに」
「あ、はは……気のせいじゃないかな。ただの陽炎だよ」
気のせいではない。お菊さんが僕の左隣の椅子に陣取り、白鳥さんに向かって精一杯の変顔をしながら「べーっ!」と全力で威嚇しているのだ。
彼女が座っている周辺だけ、明らかに気温が五度ほど下がっている。
『一馬のバカ! 浮気者! ご先祖様が草葉の陰で三転倒立しながら泣いてるわよ! 私というものがありながら、こんな生気の塊みたいな女とデレデレして!』
「(浮気じゃないって……友達としてお茶してるだけだろ)」
「佐藤くん? どこか具合悪いの? さっきから虚空を見てブツブツ言ってるけど……」
「あ、いや! ちょっと今日の経済学の内容を復習してただけだよ!」
「ふふ、熱心なんだね。……「白鳥さん」じゃなくて、下の名前で呼んでくれてもいいんだよ? 沙織、って」
『その「沙織」っていう呼び方が気に入らないのよ! 「白鳥氏」とか、いっそ「そこの哺乳類」って呼びなさいよ!』
白鳥さんは、僕が困ったように苦笑いしているのを「影のあるミステリアスな態度」と好意的に勘違いし、ますます身を乗り出してくる。
「佐藤くん……肩こりが酷いの? なんだか左肩がすごく重そう。私が揉んであげようか?」
白鳥さんが椅子から立ち上がり、その柔らかな、体温の宿った手を僕の肩に伸ばそうとした、その瞬間だった。
――パリンッ!!
乾いた音と共に、テーブルの上に置いてあった白鳥さんのアイスティーのグラスが、粉々に砕け散った。
「きゃっ!?」
お菊さんの嫉妬が暴発したのだ。
周囲の学生たちの視線が一斉に集まる。白鳥さんは服に飛んだ飛沫に驚き、呆然としている。
お菊さんは、自分のしでかしたことに一瞬目を見開いて驚き……それから、とても悲しそうに、唇を噛み締めた。
『……最低。一馬の大バカ。……もう知らない! 消えてやる!』
お菊さんの気配がスウッと消え、鏡の中へと引きこもっていくのが分かった。
「白鳥さん、ごめん! ……これ、僕の体質のせいなんだ。今日はもう帰るよ。本当にごめん!」
僕はパニックになりながら、後片付けをすると呆然とする白鳥さんを残して、逃げるように学食を後にした。
夕暮れの四畳半。
僕はサイドポケットから手鏡を取り出し、畳の上に置いた。
鏡の表面は、まるでお菊さんが中で泣いているかのように、白く結露していた。
「……お菊さん。出てきてくれ。僕が悪かった。謝るから」
しばらくの沈黙の後、お菊さんが鏡からノロノロと這い出し、畳の上に体育座りをした。
お気に入りのベレー帽は床に落ち、乱れた黒髪の間から見えるその瞳は、深い悲しみと絶望に濡れていた。
「……一馬。あなた、わかってないわ。幽霊っていうのはね、忘れられたら消えちゃうのよ」
彼女の震える声と共に、部屋の窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げた。
「あんたが他の子に夢中になって、実体のある温かさに絆されて……私の存在を頭の隅っこに追いやったら、私の形はどんどん崩れて、ただの空気になっちゃうの。……死んだ時より、もっと怖いのよ。誰にも見られず、誰にも触れられないまま、霧みたいに消えるのは……!」
彼女の咆哮に呼応するように、部屋中の空気が凍りつく。
嫉妬の根底にあったのは、醜い独占欲などではなく、永い孤独が生んだ「消滅への恐怖」だった。
「ずっと……ずっと誰もいないこの部屋で、自分の名前すら忘れそうになりながら、誰かがドアを開けてくれるのを待ってた私の気持ちなんて、あんたにはわからないでしょ!? やっと見つけてくれたのがあんただったのに……!」
「……ごめん。本当にごめん」
僕は彼女の隣に座り、震えるその肩に手を伸ばしかけて――今度は迷わず、その冷たい肩を引き寄せた。
物理干渉ができる今の彼女は、驚いたように肩を揺らしたが、拒絶はしなかった。
「忘れるわけないだろ。……忘れる暇なんてないだろ……コンビニスイーツの新作を誰と共有すればいいんだ? 誰に毎朝、小言を言われればいいんだ? ……」
僕は彼女の隣に座り、少し距離を保ちながらも、はっきりと言った。
「……本当? 私のこと、ちゃんと見ててくれる?」
「ああ。君が誰なのか、何を待っていたのかを思い出すまで……いや、思い出した後だって、僕は君を忘れない。僕が、君がここにいたことを証明し続けるから」
お菊さんはようやく、涙を拭って小さく微笑んだ。
彼女の放つ氷のような冷たさは、今、僕に「彼女が確かにここにいる」という事実を、どんな温もりよりも強く実感させた。
「……ふん、一馬のくせに生意気ね」
二人は目を合わせてはに噛み合った。
その日の深夜。
ようやく静まった四畳半に、不気味な音が届いた。
――ガシャリ、ガシャリ。
それは、アパートの廊下から響く、重厚な金属の擦れる音だった。
隣の「一〇二号室」のドアが開く音がする。
お菊さんが、かつてないほど険しい顔で身を乗り出した。その瞳には純粋な「戦慄」の色が宿っている。
「……ねぇ、一馬。起きて。来たわよ……あれは、すごく『面倒くさい』やつだわ」
お菊さんの顔から笑みが消え、戦国時代のような剥き出しの殺気が部屋に満ち始める。
一馬と、お菊さんの、そして謎の隣人の。
混沌とした新生活の本当の幕開けは、すぐ隣の壁の向こうまで、音を立てて迫っていた。




