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第82話 電話④

「はい、お水」

「あ、ありがと……」


 香澄さんに渡された水を一気に飲み干し、カウンターにグラスを叩きつけるようにして置く。この時期にこれだけの汗をかくなんて、いったい何年ぶりだろうか。

 補給したそばから溢れ出す汗。最初に飲んだものがコーヒーだったのなら、この汗の色は黒褐色だったはずだ。


「どうしたの?そんなに慌ててさ。なんかあったの?」


 目を輝かせて、身を乗り出す香澄さん。これは退屈を持て余して、娯楽を求めている顔だ。俺の話を消費して、バイトの時間を乗り越えようという魂胆だろう。


「そっちが期待するようなことはないよ」


 香澄さんが期待するのは、俺が咲良に対して何かへっぽこな失敗をした話なのだろうが、残念だが今日の俺は完全なる自滅。提供できるような話は何もないのだ。


「えー、じゃあ夏祭りのこと聞かせてよ。あの後どうなったの?2人共浴衣だったし、良い雰囲気くらいにはなったんでしょ?」

「えーっと、それは……」


 良い雰囲気になる絶好の機会だった時、俺は俺自身と戦いを繰り広げていた。しかし、そんなことは口が裂けても言えない。香澄さんから感じる圧が尋常ではないのだ。ここで下手なことを言おうものなら、この店の敷居を2度と跨がなくなるかもしれない。

 香澄さんを恐ろしいものを見る目で見ながらコーヒーを出してくれたマスターを見ると、そう思わずにはいられないのだ。


「ふ、2人で写真撮ったよ」

「それは知ってる」

「えっ、知ってんの?」


 帰り際に校門で撮ったツーショット。このデータは俺と咲良しか持っていないもののはず。まさか、誰かに見られていた?いや、あの時間、あそこに知り合いはいなかったはず。……となると、結論は1つだ。


「咲良が見せてくれてね。仲がよろしくて私としても大満足なんだけれども、もっと!こう!あるでしょうが!あんた達何歳の恋愛やってんのよ!」


 あぁ、咲良もこうして迫られたのだろう。これは振り切れない。


「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか。それしかないんだから」


 俺は恋愛1年生。香澄さんに言わせれば幼稚園児かもしれない。体はすっかり大人だが、恋愛面については初心者マークすら貰えない仮免状態なのだ。いきなり大人の恋愛なんて出来るわけがない。


「はぁ……」


 香澄さんは、肩を落として意気消沈気味。溜息をつきたいのはこちらの方だ。

 期待しなかったと言えば嘘になる。俺だって男なのだから、そういう気持ちはある。


 カウンターに置いていた、すっかり振動することを忘れたスマホを眺めるとやるせない気持ちになってしまう。相手に期待しすぎるのも良くないと望が言っていたことがあったが、それは場数を踏んだ人間だからそう言えると、そう思わざるを得なかった。


 コーヒーをひと口含み、心を落ち着かせる。店内に流れる哀愁漂うサックスの音が今の俺にぴったりだ。


 カップが空になるまでに何組か客の出入りはあったが、いつまで経ってもスマホは鳴らない。充電は100%近くあるはずなのに。


 接客を終えてカウンター内に戻ってきた香澄さんを見て1つ思いついた。

 咲良と友達の香澄さんなら、何か事情を知っているかもしれない。プライベートなことに踏み込むことは、あまり良い気分はしないが、いつまで経っても鳴らないスマホに痺れを切らしていた俺は

、自分の衝動を抑えられなかった。


「あの……香澄さん。聞きたいことがあるんだけど今良いかな?」

「良いけど、私とお話しするのは高いよ〜。せめてコーヒーお代わりくらいしてもらわないと」

「……まぁ、それくらいなら」

「まいどありぃ!じゃあ、ちょっと待っててね」


 そう言い残して、奥にいるマスターの所へ小走りで行ってしまった。噂では、すっかり商店街のアイドル的な存在になっているらしい。それが原因か定かではないが、夏祭り実行委員会長は、この店に近づきたがらないとか。誘い文句も慣れたものである。


「お待たせしましたご主人様。愛情は注入しますかぁ?」


 カップを置いた香澄さんが、猫のポーズで可愛らしく誘惑してくる。なんなんだそのポーズは。


「いつからここはメイド喫茶になったんだ?」

「お客様のニーズに応えるのがプロってもんでしょうが」

「とりあえず腕下ろそうよ」

「……落ち着いて対応されるのってシンプルに傷つくなぁ」


 1年前の俺だったら、メロメロのアヘアヘになっていただろう。そう考えると少しは成長したと言えるのか。いや、一瞬でも新しい扉を開きそうになったから、まだまだ修行が足りないぜ。


 さて、盛大に話の腰を折られてしまったが、もう1度勇気を振り絞らなければ……と思ったのだが、ここで臆病風に吹かれるのが、俺という男。


「あの……さ。い、いや!やっぱりいいや!」

「なにそれ?くじくじしてないで、早く言いなさいな」


 我ながら情けない人間だと思う。自分で踏み出した話題だ。いい加減覚悟を決めろ。


「さ、咲良……さんのことなんだけどさ。最近、大学で見かけないんだけど、何か知らない?」

「え?咲良から何も聞いてないの?」


 ビンゴ。やはり咲良は事情があって俺に会ってくれないのだ。だが、何故それを俺に伝えてくれないのか。


「電話はしてるけど、特に何も聞いてないけど?今日は繋がらないみたいだけどさ」

「はぁ……あの子は本当に……」


 香澄さんが頭を抱えて項垂れている。一瞬、何かを躊躇った様子を見せたが、話す気になったようで、体を起こした。


「夜も眠れなくなりそうって顔してるから教えてあげるけど、咲良は今、宮城県に行ってるみたい」

「え!?な、なんで!?」

「理由は知らないけど、旅行って言ってたけど?」

「いや、そんなはずは……」


 そうか。親の実家の件について、香澄さんは知らないのか。しかし、この時期に宮城に帰る理由はなんだ?急に里心が付いたってことはないだろう。


「その旅行っていつから?」

「そうね……確か大学が始まって少ししてからかな」


 なるほど。大学内で見かけないのも頷ける。それに電話に出られないのも移動中だからかもしれない。我ながら楽観的な考えだと思うが、咲良が俺に伝えるまでは知らないふりをしておくべきか。


「ありがとう香澄さん。すこーしだけ楽になったかも」

「そう?あ!このこと咲良には黙っててよ。あの子なりに考えて、旅行のこと話してないんだろうし」

「うん。分かってる。もう少し待ってみようと思う」

「そうしてあげて。でも、教えてあげたんだから、進展があったら報告しなさいよ」

「考えとくけど、その時もコーヒー注文しないとダメ?」

「もちろん」


 2度と会えない訳じゃないんだ。余裕を持つことが大人の恋愛って気もするし、その内会える日も必ず来るだろう。咲良との関係は自他共に認める進展具合。何も恐れるものなどないのだから。

 次回更新は、11月26日(土)の予定です。

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