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第32話 雨宿りの夜④

 その後もいくつか質問を受けて咲良さんは、「ふむふむ……」と頷いている。ひと通り眺めた後は、座って紅茶を飲んでいる。さっきまでとは打って変わり、すっかりリラックスしているようだ。


「……あのー。咲良さん?」

「はい、なんでしょうか?」


 咲良さんは、食べた最中の欠片を唇につけたまま、とぼけた顔でそう答える。いやいや、いろいろと聞かれて何もないのはモヤモヤするぞ。


「さっきの質問は、どういう――」

「ひ・み・つです!」


 悪戯っぽく笑う彼女に食い気味で会話をシャットアウトされてしまった。俺の個人情報はいったいどのような使い方をされてしまうのだろうか。まさか、咲良さんがハロファクの衣装を着るなんてイベントが発生する可能性が……!?想像するだけで胸の高鳴りが止められないぜ!


「……雨まだ止みませんね」


 その言葉で我に帰る。咲良さんは雨が止むまでここにいると言った。このまま雨が止まなかった場合、どうなるんだろう。仮に三日三晩降り続けたら、それはもう同棲と言っても良いのではないだろうか。意識するとそわそわして地に足がついていないような気分になる。


「そ、そうだね。あ、紅茶お代わり飲む?」

「……いただきます」


 この場の空気に耐えきれず、一時撤退だ。お湯が沸くまでの間に気持ちを落ち着かせるんだ。1度深呼吸をして、振り返る。咲良さんがテレビを見ている様子が視界に入った。

 慌てて視線を戻して、ティーパックが入っている袋を下の棚から取り出す。しかし、腰の高さまで持ち上げたところで落としてしまった。自分では落ち着いてると思っているが、そうでもないらしい。拾い上げてお茶を淹れる準備に取り掛かった。


 こんなことならお高い茶葉でも用意しておけば良かった。先日、実家から支援物資が送られてくる時に断ったのは失敗だった。香典返しのお茶だろうが、1個あたり10円もしないこれよりはマシだったろう。


 間もなくお湯が沸く。この数年で、だいぶ使い込んだ電気ケトルだ。音でなんとなく分かるのだ。ふと、彼女の様子が気になって、再び振り返ると今度は目が合った。それはもうしっかりと。ちらちら見ていて気持ち悪いと思われたらどうしよう。


『それでは、エンディングのお時間です。出演者の皆さん――』


 テレビからMCの男性の声が聞こえてきた。テレビの画面には、ハロファクのメンバーも映っていることだろう。咲良さんの視線はテレビに戻った。好きなアーティストでもいたのかもしれない。おかげで助かったぜ。


「お待たせしました〜。こちら紅茶になりますぅ」

「ありがとうございます。何から何まですみません」


 俺の渾身のカフェ店員モノマネはスルーされる。隣町の外れにある小さなカフェだ。知らなくても無理は無いか。ごほんと咳払いをして、気持ちを誤魔化す。俺ってば空回り。


 音楽番組が終わったテレビには、海外のよくわからない地方の紹介番組が映し出されている。話題の種にもならなそうなので、チャンネルを何度か変えてみるが、他局では報道番組しか放送していない。やむ無く元の番組に戻す。小難しいニュースよりは、まだましだ。それに音がない方が耐えられなさそう。


 ぼんやり見ていた番組に7188のマスターらしき人物が映り込んでいたことで、会話が弾んだように思う。しかし、それでも目に見えない境界線を越えることはない。

 すでに用意したお菓子は食べ尽くした。だからと言って、何度も席を外すのは彼女に余計な気を使わせる結果になることは目に見えている。


「雨止まないね」


 話題に窮した俺は、外から聞こえる音を頼りにそう切り出した。咲良さんも同じだったかもしれないと気づき、少しだけ申し訳なく感じた。

 雨は、勢いこそ先程までのそれではないが、風に煽られた雨粒が窓を叩いている。この様子だと、たとえ傘をさしていたとしても濡れてしまうだろう。


「……終電なくなっちゃいそうですね。今朝見た予報では、この時間くらいには晴れることになってたんですが」

「天気予報も100%じゃないからな。俺のことは気にしないで、晴れるまでここにいなよ。さっきやってた天気予報では、明日は晴れるみたいだしさ」

「傘を使うようなことにならなければ良いです」

「……?そうだね。晴れの日の方が元気が出るし!」


 だいぶ夜も更けてきた。咲良さんにも明日の予定があるのだろうが、この天気の中帰すのは可哀想だ。

 だが、彼女がこの空間にいるという非日常的な出来事に対して、俺の頭はショート寸前なのも、また事実として受け止めなければならない。俺の恋心がフルマラソンを走っているような状態なのだ。


 そんな気持ちも空腹には勝てない。特製カツカレーを食べ損ねた俺の腹の虫はぺこぺこだ。お菓子は食べたものの、食べ盛りの俺には質より量の時もある。


「これ下げちゃうね」

「私、後で洗うので置いておいてくださいね。それくらいはさせてください」

「いいって、立ったついでだからさ」


 流し台へマグカップを置いて、ビニール袋の中へ手を突っ込む。そして、腹を満たすために和菓子を口へ放り込んだ。この時間に口にするには罪な味だが、良い感じに腹が膨れる。おやっさん良い仕事するなぁ。

 ついでに用も足して、今日はそろそろ寝てしまおうか。あれ、そもそもこの家って布団が1組しかないのでは?いやいやいやいや、まさか同じ布団で眠るなんて、僕達には早すぎますよ。

 げへげへと不気味な笑みを浮かべながら、コップに水を汲む。口に残った甘さを洗い流すと、下衆な気持ちも落ち着いたようだ。


「清隆さん……っ!」


 ひと息ついて戻ろうと振り返った矢先、咲良さんが胸に飛び込んで来たではないか。待て待て待て、こんなフラグ管理をした覚えはないぞ。何か理由があるはずだ。そうでなければ俺の理性がショートしてしまうから。


「どどどどうした?」


 高く上げたまま空を掴んでいる両の手をなんとか降ろす。抱き締めるにはまだ早い。きちんとした手順を取らなければいけないはずだ。

 咲良さんは黙って、ついさっきまで自分が座っていた辺りを指差す。そこには黒い点のようなものが空中に浮いているように見えた。事故物件だなんて聞いてないんですけど。

 

「……く、く」

「九九?」


 俺も小さい頃は風呂場で暗唱した記憶はあるが、なぜこのタイミングで?咲良さんの専攻はたしか教育学だったはずだから、そのことに関係しているのかもしれない。それにしても、俺に抱きついている理由にはならないが。


「く、蜘蛛が……!私、蜘蛛だけはどうしたもダメで……」

「蜘蛛?」


 あらためて凝視すると確かに8本の足がウネウネと動いていた。なんだ蜘蛛か。


「なるほど。ここで待ってて」


 何度も頷く咲良さんを体から引き離す。ほっとしたようながっかりしたような気持ちで、電子レンジの上に置いていたティシュペーパーを1枚取り出すと蜘蛛に向かって一直線だ。


「ほら、戻ってくるんじゃないぞ」

 

 蜘蛛をティッシュで優しく包んだ俺は、ベランダから逃してあげた。昔はダンゴムシやトンボを手づかみで捕まえまくっていたが、今では考えられない。万能梱包紙ティッシュペーパーがなければやられていたかもしれないな。


「……もう大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。もう外に行ったから」


 咲良さんが戸を盾にするように半開きにして、こちらの様子を伺っていた。なんとも可愛らしい仕草に胸が熱くなるが、ぐっと堪えて元の位置に座るように促す。彼女にとって最大の脅威になり得るのは俺なのだから、紳士的な行動を心がけなければ。


 未だ落ち着かない様子の彼女にもう一杯紅茶を出してあげると、ゆっくりと飲み始めた。よほど蜘蛛にトラウマでもあるのだろう。件の山で迷った時かもしれないと思ったが、口にするのはやめた。わざわざ確認するようなことではない。


 その後は、特に何を話すでもなく静かにテレビを見ていた。しかし、俺の思考は俺という体を離れ無限大な妄想に勤しんでいた。今の俺は、言ってしまえば危機から救ったヒーロー。ヒーローには美女のパートナーがいるものだ。


 勝手な妄想を膨らませ、現実世界に舞い戻ると何やら音が聞こえてきた。出所を探して周りを見渡すといつの間にか体を横にしている咲良さんを見つけた。


「すぅ……すぅ……」

「ね、寝てる」


 彼女も彼女なりに気を張っていたのかもしれない。俺がそうなのだから。今思えば先ほどまで勤しんでいた妄想も夢か現実か自信がない。


 起こすのも可哀想なので、そっと毛布をかけてあげた。決して触れることを恐れたわけではないと弁明しておこう。


「さて、俺も寝るか……そのまえにっと」


 悪いとは思いつつ、咲良さんの寝顔を堪能させていただいてから、咲良さんとテーブルを挟み込む形で、俺も床へ体を横たえた。

 

 明日の天気はどうなることやら。

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