葬送曲
今までずっと一緒に暮らしてきた家族がいない。どういうことかと言われても、そのままだ。僕の人生には人が現れては消えていく。その間隔が、人よりも少し短いだけだ。消えていった人のことは、めったに思い出さない。
いなくなった人のことは、覚えていられない。ただでさえ、脳味噌は容量を超えて働いている。記憶に割くメモリーは、常に不足している。大切な思い出さえ、反芻しておかないと、すぐにあやふやになって、音をなくし、色をなくし、気持ちをなくし、消えていく。水でふやけた紙のような欠片が残れば、まだ良い方だ。その味気無さと舌に残る不快感に顔をしかめながら咀嚼することに努められる。
しっかり覚えておくように命令を出しているはずなのに、夢と現の可能性に紛れて、正しい記録はすぐに曖昧になる。自分の頭が信用できないのに、それでも思い出を預けられるのは、そこしかないから、僕は隙間だらけの倉庫に、それらを丁寧に拾い上げて置いておく。
姉と一緒に暮らしたのは、結局、僕が生まれてから十年と少しの間だけだった。
一番古い記憶は、幼稚園の階段の踊り場で泣いている記憶。気の強くていじわるな女の子に何かいやなことを言われて泣いていた、んだろう。あんまりかわいい子でもなかったし、気分の悪くなるようなことばかり言う子だったから、僕はその子が嫌いだった。けれど、小さいときの僕は今(別に大きくなって気性が荒くなったわけでも口が悪くなったわけでもない。ただ言いたいことは言えるようになったというだけだ)の性格が嘘のように、おとなしく、思ったことをうまく言えずにすぐ泣く弱虫だったので、いつも、何を言い返せるわけでもなく、ただ彼女がやってこない年長組のフロアの階段の下に潜り込んで膝を抱えて座っていた。
小さい頃の僕にとって、姉はヒーローであり、勇者であった。ヒーロー、は、少しかわいそうか。姉は、弟である僕の贔屓目を抜いても、なかなかにかわいらしい顔の女の子だったから。まあ、小さい頃は、垢抜けない短髪で、男勝りで、怒ると怖かったけれど。
その気の強さで、姉は僕の障害になるものをたくさん打ち払ってくれた。同級生との不和や、教師の不平等や、母の過干渉。それが、母にとっては憎らしくてならなかったのかもしれない。僕は、姉と離ればなれになる。母のいやな視線と言葉を一身に受けるようになって、姉がどれだけ僕を庇ってくれていたのかがわかった。
僕の人生を一番見ているのは僕の筈なのに、未だに僕は自分の扱い方がうまくわかっていない。あまり気分の上下が激しくない、らしい。昔はそうでもなかったと思うのだけど。
あまり物事に関心がなさそうでもあるらしい。そんなことはないと思うのだけど。
姉はピアノを弾くひとだった。小学校中学年を超えた頃からは何度もコンクールで入賞し、簡素だがすらりとしたブラウスとスカートに身を包んで、今から思えばあんなに細かった体から、驚くほどの熱量を持つ演奏を聞かせてくれた。僕は音楽にはとことん興味がなかったのだけど、姉がピアノを弾いているのを横で見ているのは好きだった。
母との諍いがあると、必ず、姉はピアノを弾いた。楽器に怒りをぶつけることは、彼女はしなかった。ただ、そういうときの音色は、後悔と悲哀を綴ったつらい音だったから、それを聴いた母はいつも涙を流していた。姉は何も言わず、表情もなくただそれを見ていた。そういうときの姉は、近寄りがたかった。梨紗は、僕にぶつける破片を一つたりとも持っていないとわかっていても。
「今の、なんていう曲?」
気の済むまで弾き終わったところを見計らって、姉にそう尋ねると、姉は、憑き物が落ちたような笑顔でこう答える。
「知らない」
「知らないって、どういうこと?」
「名前のない曲。名前のつけられない曲」
「……ええ? 梨紗が作ったの?」
「……本当に私のこと、おねえちゃんって呼ばないなぁ」
あきれた顔。あんなに激しくピアノを弾いていたものと同じに思えないようなやさしい手つきで、僕の頭を撫でる。僕が梨紗のことを呼ぶと、彼女はいつもそう言った。いつもの言葉で、誤魔化されている。
「さっきのタイトル、何て言うんだよ。姉ちゃん」
「あ、やっぱりなし。今さらそう言われてもなんか困るね」
逃げ方も同じ。なら、言わなきゃ良いと思うのに、そうはいかないらしい。
レースのカーテンが僕に纏わりついて、それがおかしかったのか、梨紗は小さく声をあげて笑った。皆は、梨紗のことを、温度のない冷たい人形みたいな顔だというが、やっぱり姉は短調なんかじゃなくて、長調のひとだと思う。
「明日は、ピアノだから、一緒に帰ろう」
学校のほか、週に一度のピアノ教室に通うために外に出ることは許されていた。姉は、その行き帰りにあるファーストフード店に僕を連れていくのをひとつの楽しみとしていた。父から少しだけ渡されるらしい小遣いは、ほとんどが僕のために使われた。僕はそれを当たり前と思えるほど傲慢ではなかったが、毎度素直に礼を言えるほどかわいくもなかった。やっぱり。
「わかった。駅で待ってるよ」
姉にはその頃、一緒に学校から帰宅する友人もいなかった。
一人ぼっちだった。誰かのせいで。
棺の中に、花を投げ入れて、目を瞑ったその顔を見る。花と同じ色をした腕は、絶望するぐらい痩せ細っていた。
あんなに怖かったのに、あっさり死ぬんだ。そう思った僕の隣で、梨紗は泣いていた。
優しい人だ。




