水底線
姉が死んだ。
一人で家にいるときに、ガス漏れに気づかず、中毒死したらしい。
僕はそのとき高校の寮にいた。どうにも気が乗らず断ったカラオケに、行けばよかったと思っているときに、電話がかかってきて、訃報を聞いた。
転勤の多かった父の影響で、彼女の母校から遠く離れた場所で行われたにも関わらず、たくさんの人が姉との最後の別れを惜しみに来た。僕のことを知っている人が、予想よりも多く、僕は名前も知らない人から励ましの言葉を受けた。
骨壺を抱えながら、それでも僕は泣けなかった。
ふと顔を上げると、あたりが真っ白だった。さっきまでいたはずの火葬場には誰もおらず、それどころかそこは火葬場ですらなかった。声を出そうとして、何かに塞がれたように口から音が出ないことに気づいた。聞こえるのは腫れた喉から辛うじて外に出てくる自分のひゅうひゅうという息だけ。
「博紀」
どこかで聞いたような声。いつの間にか現れていた一人の男は、ゆっくりと僕に近づく。僕の名前を知っていた。でも僕にはお前が誰なのかわからない。背の高い男だ。顔はよく見えない。滲んだ水彩の絵の具のように輪郭はぼやけている。壊れたカメラが軋むような音で、脳の末端が、お前はこの男を知っていると叫ぶ。
知らない。
男はこの数日ですっかり見慣れてしまった、ありがちな黒服に包まれた腕で、僕の抱える骨壺に手を伸ばす。その拍子に、わずかに僕の手と彼の指が触れた。
瞬間、閃くような痛みが額を刺し、思わず目をつむった。いつも瞼の裏で蠢いている蛍光はそこにない。煩雑に投げ込まれる見覚えのない写真が処理できないスピードで入れ替わっていく。見知らぬ景色、見知らぬ人。だがそれらは記憶する間もなくたちどころに別のものにかわってしまう。痛みのおかげで声が出るようになったのか、微かな呻きが喉から漏れた。
「梨紗に、死んでほしくない?」
やはりどこかで聞き覚えのある声で、男は姉の名を呼んだ。親しかった友人のうちの一人だろうか。僕と姉の人生は、接していた時期と乖離していた時期との繰り返しだった。下の名前を呼ばせているということは、近しい間柄だったのかもしれない。その声音は、するりと出てきたようだった。あくまで平坦だった。
何を言うのだろう。もうこの人は死んでいるんだ。取り返しがつかないんだ。僕は泣けないんだ。大事なことはひとつも言ってない気がするだけで、今目の前に姉が起きたとして、きっとありきたりなことしか言えないんだ。
目の前の男が、黒ずくめなのに顔だけが白いのは、誰かに似ているような気がした。
「死んでほしくない。おれは、死んでほしくなかった」
言ったところで、魔法とか超常能力とかなんかは使えるはずもない。
「死んでほしくないよ」
花のにおいが、誰かの泣き声が、白い音が、声が、うるさい。
「そうだね。なら、戻してあげる」




