幕間1クリスの決意
クリスはイライラと時計を見た。
ウォーレンがお茶をしてくると執務室を出てから二時間近く経とうとしている。
これは遅い。
普段、「お茶など時間の無駄」と言い放ち、部下の(主にクリスの)お茶休憩すら奪う主人が、である。
ご令嬢を囲った途端、これだ。
やはりあの噂は本当だったのか、とクリスは立ち上がった。
横暴だが、有能でもある主を昼間から淫行に走らせてはならない。
――よりによって、あの淫乱令嬢だなんて。
クリスの靴音は自然、荒くなる。
ウォーレンが選んだのは、ワイズリー侯爵令嬢・ソフィア。
彼女は淫乱だとの噂がある。
クリスが懇意にしている貴族の女性が、あの舞踏会の最中、そっと耳打ちしてきたのだ。
夫も子供もありながら、クリスとの関係も楽しんでいる御夫人が言うか? とは思ったが、クリスは自他共に認める優秀な侍従である。
主人の名前に傷をつけてはならないと、飲み物を届けたついでに、ウォーレンに話したものの、全く取り合ってもらえなかった。
そして、あの、ワイズリー侯爵夫人の発言である。
何故、自分の娘をそこまで、あの場で貶めたのかはクリスには理解不能だが、確かに夫人は言い、ソフィア自身も己が処女でないことを認めた。
やはり噂に違わぬ淫乱なのか、とクリスはがっかりした。
見た目はお世辞にも女性らしいとは言えない体つきで、気弱そうな顔立ちの少女だった。長い髪を品良くまとめているのも、柔らかな光を宿した瞳も、清廉を通り越していっそ神々しいほどの美しさと慈愛を湛えているようだった。
だから、誰か別の女性と間違えて噂が伝わったのではないか、と。
何しろ、あの胸では男物の服を着たら少年でも通じるに違いない。彼女のどこに男を惑わすような色気があるというのか。
女性は豊満なほうが良いと思っているクリスには、あの令嬢の一体どこが良いのかさっぱり分からない。
謁見で見初めたらしいウォーレンから、令嬢のドレスに合う肩掛けを用意するように言われた時には驚いた。
確かに美しいが、あんなにも女性らしい丸みに欠ける令嬢を好むとは。
何しろ、今までウォーレンが興味を示した女性は皆、豊満で年上だったのだ。その誰とも関係を持つことはなかったが、クリスもジョシュアもミランダも、ウォーレンは年上の豊満な女性が好みだと信じていたのだ。
やはり、どこかにウォーレンを誘惑するような、淫らな仕草や合図があったのだろうか。見張っていたとは言え、用事でクリスが側を離れることもあった。
その時に、媚薬や何かを盛られたりしたのではないか。
ウォーレンの入れ込みようは尋常ではない。
恋人がいなければ、処女でなくてもいいなど。
それに、ウォーレンは、女性に対して不器用なところがある。ソフィアが噂通りの淫乱令嬢なら、女に不慣れな男を引っ掛けるなど簡単だろう。
全く、いかにも女で遊んでいそうな容姿をしていて、確かに引く手数多なのに、よりによって。
クリスは頭を振ってため息を追い出した。
ウォーレンの機嫌を損ねないように、何とかあの二人を別れさせなくてはならない。なかなか難しい問題に、クリスは解決策を出しあぐねていた。
ウォーレンは王位継承権を持つ王族だ。本人には王位を狙う野心など欠片もないが、女にたぶらかされて仕事を疎かにしたなどと言われてはたまらない。こんなことが外部に漏れたら、ウォーレンを快く思わない連中の思う壺だ。
「ジーナ?」
ソフィアの側を離れないようにと配置した侍女頭が廊下に立っているのを見て、クリスはついに廊下を走った。
「殿下は?」
「中に。ソフィア様とおられます。外せと言われました」
早口に言うべきことを全て言い切ったジーナは変わらず無表情だ。
確かに、ウォーレンから外せと言われたらジーナに居座る選択肢はない。ないが。
「貴女が外に出てからどれぐらいになりますか?」
「一時間ほどでしょうか」
ジーナが言い終わると同時にクリスはソフィアの部屋の扉をノックし、扉を開け放った。
ソファに座ったソフィアに、ウォーレンが抱きついて、その手がまさに今、ドレスの裾から中に入ろうとしているところだった。
「これからだったのに」
舌打ちと聞こえてきた言葉に、額を押さえる。
クリスの小言を適当に聞き流し、ウォーレンが立ち上がる。
「ソフィア、続きはまた後で」
聞いたこともない甘い声で囁くウォーレンは、もう今までのウォーレンではない。
この女が、聡明で誰よりも強いウォーレンをこんな軟弱に変えてしまったのだ。
ソフィアがこちらの悪意に気付いたのか、目を向けてきた。思わず、目を逸らす。
そのまま、ウォーレンと共に部屋を出る。
「ああ、もうこんな時間だったのか。すまなかったな、クリス」
ウォーレンが軽く謝罪を口にする。
「いえ、殿下のせいでは」
「ならば、誰のせいだと?」
ウォーレンの声が一段と低くなり、クリスは己の返答が正しくなかったことに気付く。
「先程もソフィアに対して礼を失している態度だったが」
「 申し訳ありません」
「ソフィアの何が気に入らない? わがままで侍女を困らせることも、新しいドレスも宝石も、何も欲しがらない女の、何が気に入らない?」
「それは、」
ためらったのは一瞬だった。
「お言葉ですが、ソフィア様にまつわる良いお話を、わたくしは存じ上げません」
「なに?」
「火のない所に煙は立ちません。ご本人も、己の非を認めていらっしゃったではありませんか」
何とかしてウォーレンに目を覚ましてもらいたいと、一心にそれだけを願い、クリスは訴えた。
「ソフィアは淫乱だと、おまえはあの下種な話を信じるのか?」
「殿下、女性は悪意なく人を騙すものです」
頬に熱を感じて、クリスはそのまま廊下にひっくり返った。とっさに受け身を取ったらしく、痛むのは頬だけだ。
見下ろしてくるウォーレンを見て、どうやら頬を張られたようだと気付く。
部屋の扉が開き、ジーナとソフィアが出てきた。ソフィアはさっとクリスの側に膝を着き、顔を覗き込んできた。
ソフィアの目が涙で潤んでいる。
昨夜、書庫で泣いていたソフィアを見た。
ウォーレンがひどく狼狽えて、泣き止ませようと必死になっていた。
きっと、あの時のウォーレンはこのような気持ちだったのだ。
最後までこちらを気にしながら部屋の中へ戻ったソフィアを見送って、クリスは立ち上がり、ウォーレンに頭を下げる。
「口が過ぎました、申し訳ありません」
ウォーレンはソフィアの前では決して見せない表情で、クリスを見た。
「クリス、ソフィアが処女を捧げた相手を調べろ。いつ付き合っていたのか、どこで知り合ったのか、全てだ。他に付き合った男がいるのなら、それもだ」
「かしこまりました」
「おまえの下種な好奇心に期待している」
吐き捨てられた台詞にクリスは唇を噛み、それを見られないように頭を下げて「仰せの通りに」と呟く。
大股で執務室へ向かうウォーレンを追い掛け、クリスは小走りになったが、ウォーレンは一度立ち止まり、廊下の窓からひょい、と外へ手を伸ばした。
白いマーガレットの花を一輪、手折る。
ほんの少し微笑んだウォーレンがタイをほどくのを見て、クリスは気付かれないように拳を握った。