第38話 「三日目」
二日目の、夜。
村の、広場。
ノアは、帳面の山に、囲まれていた。
五百人分の、名簿。
一年かけて、書き溜めたものだ。
名前。
出身地。
家族構成。
「……全部、写します」
彼女は、言った。
「……何に」
ミアが、聞いた。
「……布です」
ノアは、答えた。
「……白い布に」
彼女は、続けた。
「……大きく、書きます」
二
「……なぜ、布なんですか」
エマが、聞いた。
ノアは、答えた。
「……読み上げは、五時間かかります」
彼女は、続けた。
「……でも、布なら」
ノアは、言った。
「……一目で、読めます」
「……なるほど」
バルドが、頷いた。
「……声は、止められても」
彼は、続けた。
「……文字は、止められません」
「……はい」
ノアは、頷いた。
「……そう思っています」
三
作業が、始まった。
ミアが、墨を、擦った。
リナが、大きな筆を、作った。
レンが、布を、張る枠を、組んだ。
そして。
人が、集まってきた。
避難民たち。
村人たち。
元盗賊たち。
そして。
「……あの」
声が、した。
振り返ると。
西の、指揮官が、立っていた。
ハルト・ヴェイル。
四
「……手伝わせて、もらえないか」
彼は、言った。
「……ハルトさん」
ノアが、言った。
「……私の、部下も」
ハルトは、続けた。
「……全員、手が、空いている」
彼の、後ろに。
四百人の、兵士が、立っていた。
武器は、持っていない。
「……いいんですか」
バルドが、聞いた。
「……ああ」
ハルトは、頷いた。
「……どうせ」
彼は、言った。
「……私たちは、もう、任務に、戻れない」
五
四百人が、加わった。
墨を、擦る者。
布を、押さえる者。
そして、字の、上手い者が、筆を、取った。
「……ここ、ザンド村の、ケラー家です」
トビアスが、言った。
彼は、自分の、家族の名を、書いていた。
「……父、ゲオルク」
彼は、呟いた。
「……母、アンナ」
「……妹、リーゼ」
一文字ずつ。
丁寧に。
そして、その布は。
誰よりも、大きな字だった。
六
夜が、更けた。
作業の、合間に。
ハルトが、ノアの隣に、座った。
「……一つ、話しておきたい」
彼は、言った。
「……はい」
ノアは、答えた。
「……師団長の、命令書の、ことだ」
彼は、続けた。
「……昨日の朝」
ハルトは、言った。
「……全将校が、集められた」
「……はい」
「……そして、師団長が」
彼は、続けた。
「……読み上げた」
七
「……内容を、覚えていますか」
ノアは、聞いた。
「……ああ」
ハルトは、頷いた。
「……一字一句」
彼は、言った。
「……聞かせてください」
ノアは、言った。
ハルトは、目を、閉じた。
そして、暗唱した。
「……『第一師団長ダグラス・ヴァインに命ず』」
「……『進軍路上のフェアウッド村を制圧せよ』」
「……『住民の処遇は貴官に一任する』」
八
ノアの、手が、止まった。
「……もう一度」
彼女は、言った。
「……え?」
ハルトは、聞き返した。
「……三行目を」
ノアは、続けた。
ハルトは、繰り返した。
「……『住民の処遇は、貴官に一任する』」
ノアは、その言葉を、聞いた。
そして、しばらく、動かなかった。
「……ノアさん?」
ハルトが、聞いた。
「……いえ」
彼女は、言った。
「……わかりました」
九
ノアは、バルドを、探した。
そして、見つけた。
彼は、地図を、前に、考え込んでいた。
「……バルドさん」
「……はい」
「……矛盾は」
ノアは、言った。
「……矛盾では、ありませんでした」
バルドは、顔を、上げた。
「……どういう、意味ですか」
「……三十年が、間違いでないこと」
彼女は、続けた。
「……そして、今回だけは、違うこと」
「……はい」
「……両方、成り立ちます」
十
ノアは、説明した。
ハルトから、聞いた、命令書の文言を。
そして、その三行目を。
バルドは、それを、聞いた。
そして、目を、見開いた。
「……処遇は、貴官に、一任する」
彼は、繰り返した。
「……はい」
ノアは、頷いた。
「……つまり」
バルドは、言った。
「……命令そのものが」
彼は、続けた。
「……師団長に、判断を、求めている」
十一
「……はい」
ノアは、頷いた。
「……師団長は」
彼女は、続けた。
「……『命令を、解釈したくない』と、言いました」
「……はい」
「……でも」
ノアは、言った。
「……これは、解釈では、ありません」
彼女は、続けた。
「……書いてあるんです」
バルドは、その論理を、噛みしめた。
「……命令に、従うなら」
彼は、言った。
「……判断しなければ、ならない」
「……はい」
ノアは、頷いた。
十二
「……三十年」
バルドは、呟いた。
「……はい」
「……あの人は、ずっと」
彼は、続けた。
「……命令の、文字通りに、動いてきた」
「……はい」
「……なら」
バルドは、言った。
「……今回も、文字通りに、動けばいい」
彼は、続けた。
「……文字は、『判断せよ』と、言っている」
ノアは、頷いた。
そして、言った。
「……三十年は、間違いでは、ありません」
彼女は、続けた。
「……そして、今回も」
ノアは、言った。
「……同じ、やり方で、いいんです」
十三
バルドは、しばらく、黙っていた。
そして、言った。
「……ノアさん」
「……はい」
「……すごいです」
彼は、続けた。
「……いえ」
ノアは、首を振った。
「……ハルトさんが、覚えていてくれたからです」
彼女は、言った。
「……そして」
ノアは、続けた。
「……聞き逃さなかったのは」
彼女は、言った。
「……バルドさんが、前に、言ったからです」
「……僕が?」
「……『みんなじゃなくて、聞いて』と」
十四
その夜。
十六人が、集まった。
そして、バルドが、言った。
「……問題が、一つ、あります」
彼は、続けた。
「……これを、師団長に、伝える方法です」
「……手紙は」
トムが、言った。
「……読まないと、思います」
バルドは、言った。
「……はい」
彼は、続けた。
「……そして」
バルドは、言った。
「……兵に、聞かせるのも、無理です」
十五
「……なぜ」
リナが、聞いた。
バルドは、答えた。
「……あの人は」
彼は、続けた。
「……耳を、塞がせる、はずです」
「……え?」
「……西の、四百人が」
バルドは、言った。
「……声で、崩れたことを」
彼は、続けた。
「……知っています」
トムが、頷いた。
「……なら」
彼は、言った。
「……同じ手は、二度と、食わない」
「……はい」
バルドは、頷いた。
十六
「……では」
ミアが、言った。
「……どうやって」
バルドは、答えた。
「……直接、会うしか、ありません」
彼は、続けた。
「……師団長本人に」
「……行ったら」
ガルドが、言った。
「……捕まるぞ」
「……はい」
バルドは、頷いた。
「……殺されるかも、しれません」
「……だったら」
「……だから」
バルドは、言った。
「……誰が行くかが、大事です」
十七
沈黙。
そして。
「……私が、行きます」
声が、した。
エリスだった。
彼女は、広場の、端に、座っていた。
「……エリスさん」
エマが、言った。
「……駄目です」
彼女は、続けた。
「……九分しか、持ちません」
「……はい」
エリスは、頷いた。
「……戦いに、行くのでは、ありません」
十八
「……話しに、行きます」
彼女は、言った。
「……でも」
バルドが、言った。
「……危険です」
「……はい」
エリスは、答えた。
「……ですが」
彼女は、続けた。
「……あの人が、聞く、可能性が、一番高いのは」
エリスは、言った。
「……私です」
「……なぜ」
バルドは、聞いた。
エリスは、答えた。
「……私は」
彼女は、続けた。
「……八百人を、殺した人間だからです」
十九
十六人が、息を、呑んだ。
エリスは、続けた。
「……あの師団長は」
彼女は、言った。
「……三十年、命令に、従ってきました」
「……」
「……私は」
エリスは、言った。
「……命令では、なく」
彼女は、続けた。
「……自分で、選んで、殺しました」
「……」
「……だから」
エリスは、言った。
「……私にしか、言えないことが、あります」
二十
バルドは、しばらく、黙っていた。
そして、言った。
「……エリスさん」
「……はい」
「……一つだけ、約束してください」
彼は、続けた。
「……なんですか」
エリスは、聞いた。
バルドは、答えた。
「……剣を、抜かないでください」
エリスは、微かに、笑った。
「……最初から、持っていきません」
彼女は、言った。
十六人は、驚いた。
「……持たない?」
リナが、聞いた。
「……はい」
エリスは、頷いた。
「……私の、剣は」
彼女は、続けた。
「……もう、人を、斬りません」
二十一
その頃。
村の、台所。
ココと、老婆が、鍋を、囲んでいた。
「……ばあちゃん」
ココが、言った。
「……なんだい」
「……明日の、飯」
彼女は、続けた。
「……何にしよう」
老婆は、少し、考えた。
そして、言った。
「……匂いの、強いのが、いいね」
「……匂い?」
「……ああ」
老婆は、頷いた。
「……あの、斥候の子が」
彼女は、続けた。
「……言ってたじゃないか」
二十二
「……『飯の匂いを、嗅いだ』って」
老婆は、続けた。
「……あれは」
彼女は、言った。
「……効くよ」
ココは、その言葉に、目を、輝かせた。
「……そっか!」
彼女は、言った。
「……耳は、塞げても」
「……鼻は、塞げない」
老婆は、笑った。
「……そういうことさ」
ココは、鍋を、覗き込んだ。
「……じゃあ」
彼女は、言った。
「……『はじめて』を、作る」
二十三
「……いい名前だね」
老婆は、言った。
「……リオが、つけたの」
ココは、答えた。
「……あの子」
老婆は、続けた。
「……泣いたんだってね」
「……うん」
ココは、頷いた。
「……はじめて、泣いた日の」
彼女は、言った。
「……味なの」
老婆は、鍋に、香草を、入れた。
そして、言った。
「……ココ」
「……なに」
「……あんた」
老婆は、続けた。
「……いい料理人に、なったね」
二十四
明け方。
夜が、白んでいく。
村の、北側に。
二十枚の、大きな布が、掲げられた。
白い、布。
そこに、黒々と。
五百の、名前が、書かれていた。
出身地。
家族。
そして、探している、人の名。
「……できた」
ノアが、呟いた。
「……はい」
バルドが、答えた。
「……夜通しで」
彼は、続けた。
「……ありがとうございました」
二十五
同じ頃。
第一師団の、野営地。
ダグラスの、天幕。
一人の、兵士が、跪いていた。
西方部隊の、伝令だった。
「……ハルト・ヴェイルより」
彼は、言った。
「……書簡を、預かって、きました」
「……読め」
ダグラスは、言った。
伝令は、読み上げた。
「……『西方部隊四百、任務遂行不能』」
二十六
「……『全員、村にて』」
伝令は、続けた。
「……『家族と、面会中』」
「……」
「……『処分は、私が、受ける』」
「……以上です」
ダグラスは、その報告を、聞いた。
そして、しばらく、黙っていた。
そして、言った。
「……了解した」
副官が、驚いた。
「……師団長」
「……なんだ」
「……脱走です」
彼は、言った。
「……そうだな」
ダグラスは、頷いた。
「……処分は」
彼は、続けた。
「……戦闘の、後だ」
二十七
「……そして」
ダグラスは、立ち上がった。
「……全軍に、告げる」
彼は、言った。
「……今日が、最終日だ」
副官は、頷いた。
「……日没までに」
ダグラスは、続けた。
「……村を、制圧する」
「……はい」
「……ただし」
彼は、言った。
「……一つ、命令を、加える」
二十八
副官は、その言葉を、待った。
ダグラスは、言った。
「……全員」
彼は、続けた。
「……耳に、綿を、詰めよ」
天幕が、静まり返った。
「……師団長」
副官が、言った。
「……それでは」
彼は、続けた。
「……号令が、聞こえません」
「……知っている」
ダグラスは、答えた。
「……では」
「……旗がある」
彼は、言った。
二十九
「……旗、ですか」
副官は、聞いた。
「……そうだ」
ダグラスは、頷いた。
「……三十年」
彼は、続けた。
「……旗で、動けるように」
「……鍛えてきた」
ダグラスは、言った。
「……私の、師団は」
彼は、続けた。
「……声が、なくても、動く」
副官は、その言葉に、何も、言えなかった。
「……西方部隊が、崩れたのは」
ダグラスは、続けた。
「……声のせいだ」
彼は、言った。
「……ならば」
ダグラスは、続けた。
「……声を、断つ」
三十
朝。
第一師団の、陣。
六百人の、兵士が、並んでいた。
そして。
一人ずつ。
耳に、綿を、詰めていく。
「……見てください」
シルフィが、言った。
「……皆さん」
彼女は、続けた。
「……耳に、何かを」
「……ああ」
バルドが、頷いた。
「……予想通りです」
彼は、言った。
「……ノアさん」
ノアは、頷いた。
三十一
「……テオさん」
バルドが、言った。
「……はい」
テオが、答えた。
彼は、村の、物見台に、いた。
隠れて。
「……観測を、お願いします」
「……了解」
テオは、言った。
そして、双眼鏡を、覗いた。
「……全員、耳栓です」
彼は、続けた。
「……六百名」
「……旗は」
バルドが、聞いた。
「……赤と、白と、黒」
テオは、答えた。
「……三色、使用」
三十二
「……赤が、前進」
テオは、続けた。
「……白が、停止」
彼は、言った。
「……黒が、撤退です」
「……なるほど」
バルドは、頷いた。
「……簡単ですね」
「……はい」
テオは、答えた。
「……ただし」
彼は、続けた。
「……旗を、見ないと」
テオは、言った。
「……動けません」
バルドは、その言葉に、微かに、笑った。
「……そうですね」
彼は、言った。
「……では」
三十三
「……旗を、見てもらいます」
彼は、続けた。
十六人が、彼を、見た。
「……どういう、意味」
リナが、聞いた。
バルドは、答えた。
「……兵士は」
彼は、続けた。
「……旗を、見るために」
バルドは、言った。
「……前を、向いています」
「……」
「……その、前に」
彼は、続けた。
「……私たちの、旗を、立てます」
三十四
「……私たちの」
トムが、言った。
「……はい」
バルドは、頷いた。
「……名前の、布です」
彼は、続けた。
「……師団長の、旗の、代わりに」
バルドは、言った。
「……兵士の、目に、入ります」
「……なるほど」
トムは、笑った。
「……耳は、塞げても」
彼は、続けた。
「……目は、塞げない」
「……はい」
バルドは、頷いた。
「……そして」
彼は、言った。
「……鼻も、です」
三十五
ニナが、風を、読んだ。
「……南風」
彼女は、言った。
「……正午まで」
「……村から、あっちへ」
バルドは、言った。
「……はい」
ニナは、頷いた。
「……匂いが、行く」
彼女は、言った。
「……ココさん」
バルドが、叫んだ。
「……はい!」
ココが、答えた。
「……煮込みを」
彼は、言った。
「……お願いします」
三十六
午前。
太陽が、高く、昇った。
そして。
赤い旗が、上がった。
「……来ます」
テオが、言った。
六百人が、前進を、始めた。
整然と。
音もなく。
いや。
彼らには、音が、聞こえない。
だから、自分たちの足音すら、わからない。
「……!」
兵士たちは、前を、見ていた。
旗を、見るために。
そして。
その先に。
白い、布が、並んでいた。
三十七
兵士たちは、それを、見た。
白い布。
大きな、黒い文字。
そして。
そこに、書かれた、名前。
「……」
最前列の、兵士が。
足を、止めた。
「……あれ」
彼は、呟いた。
声は、自分にも、聞こえなかった。
しかし。
口は、動いていた。
そして、その視線の先には。
『ザンド村・ケラー家』
という、文字が、あった。
三十八
「……トビアスの、家か」
別の兵士が、呟いた。
彼らは、聞こえなくても。
読める。
そして、次々と。
兵士たちが、足を、止めた。
一人。
十人。
百人。
「……あれは」
「……俺の、村の」
「……ミルナ村、の」
「……ハイゼ家」
旗が、揺れる。
赤い旗が、前進を、命じる。
しかし。
足が、動かない。
三十九
「……師団長!」
副官が、叫んだ。
しかし。
その声は、誰にも、届かない。
彼自身も、耳栓を、していたからだ。
そして。
彼は、気づいた。
自分が、叫んでも。
兵士たちには、聞こえないことに。
「……」
彼は、振り返った。
ダグラスは、馬の上にいた。
耳に、何も、詰めていなかった。
そして、無表情で、その光景を、見ていた。
四十
「……テオさん」
バルドが、聞いた。
「……状況は」
テオは、答えた。
「……左翼三列、停止」
彼は、続けた。
「……中央五列、減速」
「……右翼は」
バルドは、聞いた。
「……前進中」
テオは、言った。
「……ただし」
彼は、続けた。
「……歩幅が、不揃いです」
四十一
ダグラスは、馬を、進めた。
ゆっくりと。
前線へ。
兵士たちの、間を。
そして、彼らが、見ているものを、見た。
白い布。
名前。
出身地。
そして、探している、人の名。
彼は、それを、読んだ。
最初から、最後まで。
馬の、上で。
誰も、彼に、声を、かけなかった。
かけられなかった。
四十二
「……師団長が」
シルフィが、言った。
「……前に、出ました」
「……はい」
バルドは、頷いた。
「……来ます」
彼は、言った。
「……エリスさん」
エリスは、立ち上がった。
そして、白い、外套を、羽織った。
背には。
白い翼の、紋章。
「……行ってきます」
彼女は、言った。
「……はい」
バルドは、頷いた。
四十三
エリスは、柵の、崩れた場所から。
外へ、出た。
一人で。
武器は、持っていない。
そして、まっすぐ。
ダグラスの、方へ。
兵士たちは、その姿を、見た。
「……あれは」
「……白い、翼」
「……白翼の、エリス」
八百人を、殺した女。
その名は、兵士全員が、知っていた。
そして。
誰も、動けなかった。
四十四
ダグラスは、馬を、降りた。
そして、エリスと、向かい合った。
二十メートル。
十メートル。
五メートル。
そして、三メートルで。
エリスは、止まった。
「……ダグラス・ヴァイン師団長」
彼女は、言った。
「……エリス・ヴァレンティアです」
「……知っている」
ダグラスは、答えた。
四十五
「……何の、用だ」
彼は、聞いた。
「……お話を、したいと」
エリスは、言った。
「……私に?」
「……はい」
エリスは、頷いた。
「……耳を、塞げと、命じたのは」
彼女は、言った。
「……兵に、聞かせないためですね」
「……そうだ」
ダグラスは、答えた。
「……ですが」
エリスは、続けた。
「……あなたは、塞いでいません」
四十六
「……当然だ」
ダグラスは、言った。
「……指揮官が、聞けなければ」
彼は、続けた。
「……判断が、できん」
「……はい」
エリスは、頷いた。
「……だから、あなたに」
彼女は、言った。
「……お話しします」
ダグラスは、しばらく、彼女を、見ていた。
そして、言った。
「……聞こう」
彼は、続けた。
「……ただし」
ダグラスは、言った。
「……短く、だ」
四十七
「……では、短く」
エリスは、言った。
「……私は」
彼女は、続けた。
「……ホルム砦で、八百人を、殺しました」
「……知っている」
「……命令では、ありません」
エリスは、言った。
「……誰も、命じていません」
「……」
「……私が、選びました」
ダグラスは、黙っていた。
四十八
「……そして」
エリスは、続けた。
「……私は、その、八百人の」
彼女は、言った。
「……名前を、全員、言えます」
「……」
「……ヴァレス・ゴード、三十四歳」
エリスは、言った。
「……妻と、娘が、二人」
「……トム・ハルバー、十九歳」
彼女は、続けた。
「……マルク・エイデン、五十一歳」
四十九
ダグラスの、目が、動いた。
「……なぜ、それを」
彼は、聞いた。
「……選んだ、からです」
エリスは、答えた。
「……選んで、殺した者は」
彼女は、続けた。
「……名前を、忘れられません」
「……」
「……命令で、殺した者は」
エリスは、言った。
「……忘れられます」
五十
「……三十年」
エリスは、続けた。
「……あなたは」
彼女は、言った。
「……何人の、名前を、覚えていますか」
ダグラスは、答えなかった。
「……答えなくて、いいです」
エリスは、言った。
「……ただ」
彼女は、続けた。
「……『命令だったから』は」
エリスは、言った。
「……楽な、言葉です」
五十一
ダグラスの、拳が、握られた。
「……お前に」
彼は、言った。
「……何が、わかる」
「……わかりません」
エリスは、答えた。
「……私は」
彼女は、続けた。
「……あなたの、三十年を、知りません」
「……」
「……ですが」
エリスは、言った。
「……一つだけ、知っています」
五十二
「……何だ」
ダグラスは、聞いた。
エリスは、答えた。
「……今回の、命令書の、文言です」
ダグラスの、動きが、止まった。
「……誰に、聞いた」
「……ハルト・ヴェイルさんに」
彼女は、答えた。
「……暗唱して、くれました」
「……」
「……『進軍路上のフェアウッド村を制圧せよ』」
エリスは、言った。
五十三
「……『住民の処遇は』」
彼女は、続けた。
「……『貴官に一任する』」
ダグラスの、目が、見開かれた。
「……それが、どうした」
彼は、言った。
「……三行目です」
エリスは、言った。
「……『一任する』」
彼女は、続けた。
「……これは、解釈では、ありません」
エリスは、言った。
「……書いて、あります」
五十四
「……形式だ」
ダグラスは、言った。
「……軍の命令書には」
彼は、続けた。
「……そう、書き添える」
「……そうでしょうか」
エリスは、聞いた。
「……なぜ、書き添えたのですか」
彼女は、続けた。
「……形式なら」
エリスは、言った。
「……『殲滅せよ』と、書けば、よかった」
「……」
「……書かなかった」
彼女は、言った。
五十五
「……あなたの、命令書は」
エリスは、続けた。
「……あなたに、判断を、求めています」
「……」
「……あなたは、三十年」
彼女は、言った。
「……命令の、通りに、動いてきました」
「……そうだ」
「……今回も」
エリスは、言った。
「……通りに、動いて、ください」
ダグラスは、彼女を、見た。
「……通りに?」
「……はい」
エリスは、頷いた。
「……『判断せよ』と、書いてあります」
五十六
沈黙。
風が、吹いた。
そして、南風に乗って。
煮込みの、匂いが、流れてきた。
香草と。
甘い、実と。
温かい、何か。
兵士たちが、鼻を、動かした。
そして、遠くで。
誰かが、腹を、鳴らした。
ダグラスは、その匂いに、気づいた。
しかし、何も、言わなかった。
五十七
「……副官」
彼は、言った。
しかし。
副官は、耳栓をしている。
聞こえない。
ダグラスは、手を、挙げた。
そして、旗手に、合図した。
白い旗が、上がった。
停止。
そして、もう一度。
「……命令書を、持て」
彼は、言った。
副官が、気づいて、走ってきた。
そして、書状を、差し出した。
五十八
ダグラスは、それを、開いた。
そして、読んだ。
一行目。
二行目。
三行目。
『住民の、処遇は、貴官に、一任する』
彼は、その行を、見つめた。
長い、時間。
エリスは、何も、言わなかった。
風が、書状を、揺らした。
そして。
ダグラスが、呟いた。
「……三十年」
五十九
「……私は」
彼は、言った。
「……命令の、文字を」
ダグラスは、続けた。
「……読んで、いた、つもりだった」
「……」
「……読んで、いなかったのかも、しれん」
エリスは、その言葉を、聞いた。
そして、静かに、言った。
「……それは」
彼女は、続けた。
「……間違いでは、ありません」
ダグラスは、顔を、上げた。
「……何?」
「……三十年の、中で」
エリスは、言った。
「……文字通りの、命令も、あったはずです」
六十
「……そのときは」
彼女は、続けた。
「……文字通りに、動いて、正しかった」
「……」
「……今回は」
エリスは、言った。
「……文字が、判断を、求めています」
彼女は、続けた。
「……だから」
エリスは、言った。
「……同じ、やり方で」
「……違う、答えに、なるだけです」
ダグラスは、その言葉を、聞いた。
そして、書状を、握りしめた。
六十一
長い、沈黙の、後。
ダグラスは、口を、開いた。
「……お前は」
彼は、言った。
「……何を、望んでいる」
エリスは、答えた。
「……何も」
「……」
「……ただ」
彼女は、続けた。
「……村の、人たちが」
エリスは、言った。
「……私と、同じに、ならないことを」
六十二
「……同じに?」
ダグラスは、聞いた。
「……はい」
エリスは、頷いた。
「……名前を、覚えて、生きることに」
彼女は、続けた。
「……つまり」
エリスは、言った。
「……奪った、側に」
「……ならないことを」
ダグラスは、その言葉に、動かなかった。
そして、書状を、見た。
もう一度。
そして、言った。
六十三
「……判断する」
彼は、言った。
エリスは、息を、止めた。
「……判断には」
ダグラスは、続けた。
「……材料が、要る」
「……はい」
「……あの、布を」
彼は、言った。
「……全部、読んだ」
「……はい」
「……五百の、名前だ」
ダグラスは、続けた。
「……そして」
彼は、言った。
「……私の兵が、どう、動いたか」
六十四
「……全軍」
ダグラスは、旗手に、命じた。
「……停止」
白い旗が、掲げられた。
六百人が、止まった。
「……現在位置で」
彼は、続けた。
「……待機」
黒い旗が、上がり、そして、白に、戻った。
兵士たちは、それを、見た。
そして、動かなかった。
ダグラスは、エリスを、見た。
「……一つ、言っておく」
六十五
「……はい」
エリスは、答えた。
「……私の、判断が」
ダグラスは、言った。
「……『制圧』であれば」
彼は、続けた。
「……明朝、全力で、行く」
「……はい」
エリスは、頷いた。
「……それで、構いません」
彼女は、言った。
「……判断するなら」
エリスは、続けた。
「……それが、あなたの、答えです」
ダグラスは、彼女を、見つめた。
そして、微かに、頷いた。
六十六
エリスは、背を、向けた。
そして、柵の方へ、歩き出した。
一人で。
ゆっくりと。
その背中に。
六百人の、視線が、注がれた。
そして。
誰かが、呟いた。
声は、聞こえない。
しかし、口の動きは、読めた。
「……ありがとう」
エリスは、振り返らなかった。
ただ、歩いた。
六十七
村に、戻ると。
十六人が、迎えた。
「……エリスさん!」
エマが、駆け寄った。
「……大丈夫です」
エリスは、言った。
「……戦っていません」
「……でも」
エマは、彼女の手首を、取った。
そして、顔色を、変えた。
「……脈が」
彼女は、言った。
「……乱れています」
「……少し」
エリスは、笑った。
「……緊張しました」
六十八
「……座ってください」
エマは、言った。
エリスは、座った。
そして、深く、息を、吐いた。
「……バルドさん」
彼女は、言った。
「……はい」
「……判断を、保留に、させました」
エリスは、続けた。
「……明朝まで」
「……はい」
バルドは、頷いた。
「……聞こえました」
「……そうですか」
エリスは、言った。
「……ですが」
彼女は、続けた。
「……判断が、どちらに、出るかは」
エリスは、言った。
「……わかりません」
六十九
「……はい」
バルドは、答えた。
「……それで、十分です」
彼は、続けた。
「……一日、稼げました」
「……明日」
トムが、言った。
「……四日目だ」
「……はい」
バルドは、頷いた。
「……先生が」
彼は、続けた。
「……間に合うかは」
バルドは、言った。
「……まだ、わかりません」
七十
日没。
三日目が、終わった。
六百人は、その場に、野営した。
動かずに。
そして、夜になって。
初めて、兵士たちは。
耳の綿を、外した。
そして、風に乗って。
村の方から、声が、聞こえてきた。
笑い声。
歌。
そして、誰かの、名前を、呼ぶ声。
「……ケラー!」
「……トビアス!」
兵士たちは、その声に、顔を、上げた。
七十一
同じ夕刻。
王都の、門。
一人の騎士が、街道を、近づいてきた。
その後ろに。
縄を、かけられた、一人の男が、歩いていた。
「……止まれ!」
門番が、叫んだ。
騎士は、止まった。
「……何者だ」
門番が、聞いた。
「……第二師団長、ロラン・デュヴァル」
騎士は、答えた。
「……大賢者を、捕縛した」
七十二
門番は、その言葉に、凍りついた。
そして、縄をかけられた男を、見た。
質素な、服。
穏やかな、顔。
そして、人相書きの、顔と、重なった。
「……本物か」
門番は、呟いた。
「……ああ」
ロランは、答えた。
「……陛下に、お引き渡しする」
「……し、しばらく」
門番は、言った。
「……上に、確認を」
彼は、走った。
七十三
十分後。
門番が、戻ってきた。
その顔は、青ざめていた。
「……お通しせよ、との」
彼は、言った。
「……ご命令です」
ロランは、眉を、上げた。
「……早いな」
彼は、言った。
「……はい」
門番は、答えた。
「……実は」
彼は、続けた。
「……三日前から」
門番は、言った。
「……陛下は」
彼は、続けた。
「……お待ちです」
七十四
ロランは、大賢者を、見た。
大賢者は、何も、言わなかった。
ただ、門を、見上げていた。
高い、門。
四十年前と、同じ。
「……行きましょう」
ロランは、言った。
「……ああ」
大賢者は、答えた。
そして、二人は、門をくぐった。
王都の、石畳に、足音が、響いた。
そして。
最上階の、窓から。
一人の、老人が、それを、見下ろしていた。
白い髪。
痩せた体。
「……来たか」
彼は、呟いた。
「……ライナス」
第38話終了。




