第2話 「剣士がやって来た」
一
春の雨は、フェアウッド村に静かに降り続いていた。
村の南側の小高い丘に、一軒の建物が立っていた。かつての代官所を改築した、その建物は、村の古い記憶を背負っていた。
大賢者が塾を開設してから、三週間が経ちました。
その間、村人たちは何度もこの建物の前を通った。新しく張られた「賢者塾」の張り紙を見て、訝しんだ。誰が来るのか。何をするのか。そして何より、このような山里の塾に、本当に誰かが来るのか。
大賢者は、毎日、塾の前に立った。
朝。昼。夕方。夜。
いつ来てもいいように。
いつ誰が来てもいいように。
彼は、塾の中で、教材を作り、カリキュラムを組み、部屋を整えた。
来るはずのない弟子たちのために。
来るかもしれない若者たちのために。
春の雨は、絶えることなく降り続いていた。
二
レオン・グランツは、村の北側の小さな家に住んでいた。
十八歳の彼は、父親を失い、母親と二人で暮らしていた。父親は、かつて領主の護衛兵だった。剣術の達人として知られていた。
しかし、十年前、領主が暗殺されたその夜に、レオンの父親も殺された。
その後、レオンの母親は、レオンに剣術を教えた。
「お前には、お父さんの力が、必ず受け継がれている」
母親はそう言った。
レオンは、必死に剣術を学んだ。
毎日、毎日。
朝から晩まで、木刀を握り続けた。
しかし、何かが違った。
父親は、剣を持つと、まるで風のように動いたという。村人の話では、父親の剣さばきは、敵さえも幻を見たほどだと言った。
しかし、レオンは違った。
剣を握ると、バランスを失った。
数度の素振りで、彼は地面に倒れた。
母親は、何も言わなかった。ただ、黙って見守った。
やがて、母親は病で倒れた。
重い病だった。
村の医者は、「直らない」と言った。
レオンは、剣を握るのをやめた。
母親の世話をした。夜通し、彼女の側にいた。
そして、一か月前、母親は亡くなった。
レオンは、その時、初めて自分の人生を考えた。
父親のように、強くはなれない。
母親も、もういない。
自分には、何があるのか。
自分には、才能があるのか。
答えは、なかった。
三
レオンが、フェアウッド村で「賢者塾」の張り紙を見たのは、母親の葬儀の後、五日目のことだった。
彼は、村の広場で、その張り紙の前に立った。
「才能がない」と評価された若者たちへ。
その言葉が、彼の目に入った。
才能がない。
その言葉は、レオンそのものだった。
本当に、才能がない者たちを集めるのか。
本当に、そのような者たちを育てるつもりなのか。
それは、可能なのか。
レオンは、張り紙を読み返した。
何度も、何度も。
そして、三日考えた。
四日考えた。
五日考えた。
そして、決めた。
行ってみよう。
最悪、何も得られなくてもいい。
だが、もしかしたら。
もしかしたら、自分の中に、見つけられない何かがあるかもしれない。
その可能性だけが、彼を前に進ませた。
四
朝方の雨の中、レオンは塾の前に立った。
建物は、静かだった。
外見上は、古い代官所のままだ。ただし、壊れた屋根は直され、腐った木材は交換されていた。玄関のドアも、新しくなっていた。
レオンは、ドアをノックした。
「どなたですか」
内側から、静かな声が聞こえた。
「あ、あの…」
レオンは、言葉が出なかった。
「張り紙を見た…のです」
「わかりました。中へ」
ドアが開いた。
立っていたのは、灰色のローブの男だった。
レオンは、その男を知らなかったが、何か異常な雰囲気を感じた。
それは、圧倒的な力の雰囲気ではなく、むしろ深い静けさの雰囲気だった。
「おいでください」
男は言った。
「名前を聞かせていただけますか」
「レオン…レオン・グランツです」
「レオンですね。私は、賢者です。この塾の主です」
男は、レオンを塾の中へ導いた。
五
塾の中は、意外と広かった。
かつての代官所の造りがそのまま生かされていた。天井は高く、柱は太く、床は磨かれていた。
男は、レオンを一つの部屋に導いた。
室内には、簡単な机とイスがあった。壁には、本が棚に並べられていた。床には、修行用の練習具が置かれていた。
「座りなさい」
男は、レオンに言った。
レオンは、イスに座った。
男は、その向かい側のイスに座った。
「まず、簡単なことをお聞きします」
男は、静かに言った。
「なぜ、ここに来たのですか」
レオンは、答えた。
「張り紙に…『才能がない』と評価された若者たちへ、と書いてありました。自分は…自分には、才能がないと思っていて…」
「なるほど」
男は、うなずいた。
「では、何があなたに才能がないと思わせるのか、教えていただけますか」
レオンは、深呼吸をした。
そして、話した。
父親のこと。母親のこと。剣術が下手なこと。何をやっても失敗すること。
「つまり、あなたは『剣術が下手だ』と思っているのですね」
「はい」
「では、剣術を見せていただけますか」
男は、塾の奥の部屋へレオンを導いた。
六
部屋は、かなり広かった。
かつての代官所の舞踏室だったのだろう。床は木製で、ピカピカに磨かれていた。天井は高く、壁には何もなかった。
「では、剣術を」
男は、一本の木刀を、レオンに渡した。
レオンは、木刀を握った。
左足を前に出し、右足を後ろに。
父親から教わった、基本の構え。
木刀を腰の高さに持つ。
そして、素振りを始めた。
一振り。二振り。三振り。
四振り目で、レオンは転んだ。
バランスを失い、彼は床に倒れた。
木刀は、彼の手から転がり落ちた。
レオンは、立ち上がろうとした。
しかし、その前に、男の声が聞こえた。
「素晴らしい」
レオンは、顔を上げた。
男は、そこに立っていた。何か、笑っているようにも見えた。
「え…?」
レオンは、戸惑った。
「どこが…素晴らしいんですか…?」
「その転び方です」
男は、答えた。
「見てください」
男は、レオンに木刀を渡した。
「もう一度、素振りをしてください。ただし、今度は私に向かって」
レオンは、言われた通りにした。
四振り目で、レオンは転んだ。
しかし、その瞬間。
転倒の方向が、まるで計算されたかのように、完璧だった。
もし、敵がいたとしたら。
その転倒は、敵の攻撃を完全に躱す動きになっていた。
「わかりますか」
男は、言った。
「あなたは、転んでいるのではなく、特殊な回避をしているのです」
「え…?」
「あなたの身体は、無意識のうちに、バランスを失うことで、予測不能な動きを作り出しています。これは、多くの剣士が、生涯かけても習得できない技術です」
レオンは、理解できなかった。
「つまり…?」
「つまり、あなたには、才能がある。それが見える形でないだけです」
男は、レオンの目を見つめた。
「あなたの欠点は、実は才能です」
七
レオンは、その言葉の意味を、完全には理解できなかった。
しかし、何か。
その言葉の中に、光があったことは、確かだった。
「自分の才能を、本当に見つけたいですか」
男は、聞いた。
「はい」
レオンは、答えた。
「では、ここに来てください」
男は、レオンを改めて塾へ招いた。
「部屋を用意しています。ここに住み、毎日、剣術を学びなさい。そして、あなたの『転び方』の本当の意味を、一緒に探しましょう」
「本当に…ですか」
「はい。だから言ったでしょう。『才能がない』と評価された若者たちへ、と」
男は、微かに笑った。
「あなたは、才能がある。ただ、その才能が何なのかを、自分で気づいていないだけです」
レオンは、その時、初めて感じた。
この男は、本当に自分を見ている。
自分の中に、何かを見ている。
「ありがとう…ございます」
レオンは、涙ぐんだ。
「名前を聞いてもいいですか」
「私は、賢者です。これからあなたが見つけるであろう才能を、一緒に育てるために、私はここにいます」
男は、答えた。
「さあ。部屋を見せましょう」
八
その夜、レオンは、この塾で最初の夜を過ごした。
塾の二階に、彼のための部屋が用意されていた。
布団。机。ろうそく。
シンプルだったが、温かみがあった。
レオンは、窓から、フェアウッド村の夜景を眺めた。
村の灯火が、春の夜に揺らいでいた。
そして、月が、高く、上っていた。
「父さん…」
レオンは、呟いた。
「俺、やってみるよ」
「もしかしたら…俺には、道があるのかもしれない」
その時、一階から、男の声が聞こえた。
「レオンよ」
レオンは、耳を澄ました。
「明日からの訓練は、きつくなるだろう。だが、あなたの才能を見つけるためには、それは必要です。あなたの『転ぶ』ことの本当の意味を理解するために」
「わかりました…」
レオンは、窓から身を乗り出した。
一階の暗闇の中に、賢者の姿が見えた。
彼は、夜の空を見つめていた。
「多くの者たちが、自分の欠点に気づき、そこで諦めてしまいます。しかし、あなたは、ここに来た。その勇気が、すべてです」
「ありがとう…ございます」
「いいえ。これからが、本当の始まりです」
賢者は、静かに言った。
「明日、別の者たちも、来るでしょう。あなたが来たのと同じように、張り紙に導かれて。その時、あなたは、その者たちの最初の『同志』になるのです」
レオンは、その言葉の意味を、まだ完全には理解できなかった。
しかし、何か。
大切なことが、始まるような気がした。
九
その翌日。
朝の雨が止んだ頃、塾の前に別の人物が現れた。
一人の少女だった。
十六歳ほどだと思われた。
灰色のドレス。不安げな表情。
彼女は、張り紙を見つめていた。
「学費が、いるのだろう」
彼女は、呟いた。
「実家は…貧しい」
彼女の名は、ミア・ルーンといった。
彼女は、この村に住む魔術師の家の娘だった。
しかし、彼女には、致命的な欠点があった。
魔力が、ほとんどなかったのだ。
父親は、何度も訓練した。
「もっと、魔力を引き出せ」
しかし、ミアは、ほんのわずかな魔力しか引き出せなかった。
それでも、父親は諦めなかった。
「いつかは、お前も魔力が目覚める。待つんだ」
しかし、十年待った。
ミアは、今、十六歳だ。
魔力は、目覚めなかった。
父親は、最後に言った。
「お前には、才能がない。申し訳ない」
その言葉が、ミアを塾へ導いた。
ドアをノックした時、ミアは呟いた。
「…駄目でもいい。何か、やってみたい」
ドアが開いた。
「いらっしゃい」
賢者の声が聞こえた。
その瞬間から、ミアの人生も、変わっていったのだ。
十
三日後、別の人物が現れた。
ガルド・バルガス。
二十歳。がっちりとした体格。
しかし、彼には、大きな欠点があった。
すぐに疲れてしまうのだ。
体力がない。
それなのに、彼は武闘家志望だった。
父親が、かつて、領主の護衛だったからだ。
その父親の期待を、ガルドは果たせずにいた。
一撃のパンチは強いが、その後、息切れする。
何度も試した。訓練した。
しかし、変わらなかった。
「お前には、武闘家の才能がない」
村の武術家に、そう言われた。
ガルドは、塾に来た。
最後の望みをかけて。
その夜、賢者は、ガルドに言った。
「あなたは、何度もの訓練で、学んだはずです。あなたは、『一撃で倒す』力を持っているということを。それが、本当の才能です」
ガルドは、涙した。
そして、翌日。
別の人物が現れた。
十一
春の一か月の中で、次々と若者たちが塾を訪ねるようになった。
最初のレオンから始まって。
二番目のミア。
三番目のガルド。
四番目は、爆発を起こしてしまうリナ・ボムレット。
五番目は、人と目を合わせられないノア・ベル。
六番目は、料理の味が独特なココ・フライパン。
七番目は、血を見ると気絶するエマ・メディカ。
八番目は、力が強すぎるドグ・ハンマー。
九番目は、目を閉じて弓を射つシルフィ・アロー。
十番目は、犬しか召喚できないポチ・ワンデル。
十一番目は、何もかも普通なトム・ノーマル。
十二番目は、方向音痴のニナ・マヨイ。
十三番目は、ほとんど喋らないシオン・ダンマリ。
十四番目は、指示が混乱するバルド・アワアワ。
十五番目は、建物が傾くレン・ナナメ。
十六番目は、植物を枯らしてしまうモモ・タネマキ。
十六人。
全員が、「才能がない」と評価された者たちだった。
全員が、世間から落ちこぼれと呼ばれていた。
しかし、賢者は、全員を迎え入れた。
「素晴らしい」
その言葉を、何度も何度も繰り返した。
最初は、その言葉の意味が、わからなかった。
しかし、やがて、彼らは気づくようになるのだ。
賢者の目の中に、何が見えているのかを。
賢者の言葉の中に、どのような想いがあるのかを。
そして、物語は、本当に、始まるのだ。
終
春は、やがて夏へ向かっていった。
フェアウッド村の小高い丘に立つ一軒の塾。
その塾の名は、「賢者塾」。
その塾の主は、一人の賢者。
その塾の弟子は、十六人。
十六人の落ちこぼれたちが、ここに集まったのだ。
彼らは、まだ、自分たちの本当の力を知らない。
しかし、やがて、彼らは知ることになるのだ。
欠点は、欠点ではなく。
失敗は、失敗ではなく。
落ちこぼれは、落ちこぼれではなく、ただ別の場所に落ちた、光なのだということを。
そして、その光たちが、やがて、世界を変えることになるのだ。
物語は、これから、始まるのである。
第2話終了。




