第1話 「大賢者、王に呼ばれる」
一
朝焼けが王都エスティムの石造りの建物を血色に染めていた。
宮廷魔術師ルイスは、召喚魔法の書物を抱えて、急ぎの足で城門に向かっていた。空が明け始める時間だというのに、もう何人かの廷臣が出入りしている。朝方の城の雰囲気は、いつも落ち着かない。何かが起きた時は、こうも急きこむのだろうか。
この時刻に陛下から呼び出しを受けるということは、通常ではない。
ルイスは廷臣仲間の剣術指南役オルベルトと廊下で出くわした。
「ルイス、お前も呼ばれたのか」
「ああ。君は?」
「私もだ。何か起きたのだろう。最近、南西の領地からの報告が不穏だという話を聞いたが…」
二人が玉座の間へ向かう廊下を歩いていると、様々な職の廷臣たちが集まっているのが分かった。武官、文官、魔術師、錬金術師、狩人。普段は別の部署で働く者たちまでもが、同じ方向に向かっている。
朝の光が高い窓から差し込み、石造りの床に長い影を作っていた。
「迎賓の門が開かれている」
オルベルトが呟いた。確かに、普段は閉ざされている迎賓の門が、今日は珍しく開かれていた。それは、外国からの客人を迎える時にしか開かれない。
しかし廷臣たちの話に、外国からの使者という言葉は聞こえてこない。
ルイスの頭の中で、いくつかの仮説が浮かぶ。南西領地の不穏。迎賓の門。そして、この朝の緊急招集。
「―――まさか、帝国か」
オルベルトが呟いた。
ルイスは返答しなかった。その推測が当たっているなら、今から始まる王の言葉は、この王国の歴史を大きく変えるものになるだろう。
二
玉座の間は、広大だった。
高い天井から、工芸品の水晶が光を反射させ、床一面を淡く照らしていた。通常、この間に集う者は数十人が限度だが、今日は百人を優に超える廷臣が集められていた。
王座には、王アルヴァレスが座していた。
彼は五十代中盤の男だった。灰色の髪は短く刈られ、顔には歳相応の皺があったが、目は鋭く、王としての威厳に満ちていた。王妃は傍らに立ち、世子は一段低い席に。
しかし、ルイスの目はすぐに別の人物に釘付けになった。
玉座の間の、最も目立たない場所―――奥の影の中に、一人の人間が立っていた。
薄汚れた灰色のローブ。裂け目のある左の袖。右肩には何かの傷があるのか、生地が焦げている。足元の靴は、泥で汚れており、かかとは擦り減っていた。
明らかに、王城にそぐわぬ出で立ち。
その男は、四十代後半だと思われたが、顔は淡く、目だけが異様に澄んでいた。まるで、何か遠い場所を見つめているような、そんな眼差しをしていた。
「廷臣たちよ」
王の声が響いた。全員が正面を向き、玉座の王に視線を集中させた。
「朝の緊急招集に応じてくれたこと、感謝する。本日、我が国に一人の来客がある」
王は、奥の影の中にいる男を指した。
「このお方は、南西領地の盗賊団『血狼』を、たった一晩で壊滅させた人物である」
玉座の間に、どよめきが走った。
血狼。それは、この国で最近数年間、最も危険とされていた盗賊団だった。小規模な領地一つを支配下に置き、その周辺を脅かしていた。王国軍も何度か討伐に向かったが、何度も失敗していた。その集団を、一晩で壊滅させたというのか。
「さらに」
王が続けた。
「その後、『北方森の魔獣討伐』の依頼を受けた。我が国で最も凶暴とされる森の主と呼ばれる魔獣。これを、わずか半日で狩り上げた」
ルイスは息を呑んだ。
北方森の魔獣討伐。それは、この王国の魔術師組合が五年前に放棄した案件だ。つまり、この国の最高峰の魔術師たちですら達成できなかった任務である。
「そのお方の名を、私は知らない」
王が続けた。
「何者かも、どこから来たのかも、なぜこれほどの力を持つのかも。しかし、その成果は疑いようもない。盗賊団の首領の死体は『血狼の根城』で発見され、魔獣の遺骨は北方森で確認された」
王は立ち上がった。
それだけで、場は静まり返った。王が座から立つことは、極めて稀だ。
「故に、我は今、この玉座の名において、その方に問う」
王は、影の中の男に向かって声をかけた。
「その方の名は、何か」
三
影の中の男は、ゆっくりと前に出た。
一歩、また一歩。足音は静かだが、確かに玉座の間の床に響いていた。
男が光の中に出た。
年代は四十代後半。顔には、風と日光の痕跡が刻まれていた。左頬に古い傷がある。目は淡い灰色。その視線は、不思議と何かを見つめているようでもあり、何も見ていないようでもあった。
男は膝をついた。
「私は、賢者です」
その声は、静かだった。だが、玉座の間の奥まで、その言葉は届いた。
「名前はありません。かつて、多くの国々に仕え、多くの場所を旅してきました。いずれの国からも、いずれの場所からも、名前を捨てることを選びました。しかし、多くの仕事の中で、人々は私を『賢者』と呼ぶようになりました」
王が身を乗り出した。
「『賢者』というのは、単なる呼び名か」
「はい。その通りです」
「では、我がこれより、その方に『大賢者』の称号を与えようと思う。これを受けるか」
玉座の間に、再び息を呑む音が響いた。
『大賢者』。
それは、王国が与える最高位の称号の一つだ。国家最高の知識人、あるいは最高の戦士に与えられるその称号は、金銭や爵位よりもはるかに高い価値を持つ。
「……承知します」
男は答えた。
「では、その誓いを示すため、ここに我が宮廷の者たちの前で、その力を示してはくれまいか」
王が身振りで部屋の端を指した。
そこには、王城で最も強いと言われた剣士たちが、何人か立ち上がって準備を始めていた。
大賢者は、ゆっくりと立ち上がった。
四
王城の訓練場は、朝の光で満たされていた。
ルイスと他の廷臣たちは、訓練場を囲む石造りの壁に立ち、その光景を見守っていた。
訓練場の中央には、大賢者。
そして、向かい合うのは、王城の剣士たちだった。最初は一人。王城の戦闘要員の中でも、最強と言われている『獅子剣のグラド』。身長は二メートルを超え、その腕は一般人の脚ほどもある、巨漢だ。
グラドが、剣を抜いた。
長さ一メートルを超える大剣。その剣を、片手で持ち上げた。訓練場の床が、微かに揺れた。
「来い」
グラドが、大賢者に構えた。
大賢者は、剣を抜かなかった。
ただ、立っているだけだ。その手は下ろされたまま。身構えることもない。
グラドが動いた。
走る。その足音だけで、訓練場の床が鳴る。大剣を高く掲げて、大賢者に向かって突進した。
大剣が、空を切った。
大賢者は、動いていなかった。グラドの剣は、彼の肩をかすめただけで、その後ろの空を切った。
グラドは勢いを失わず、すぐに転身して、次の一撃を放った。これは横払い。大賢者の首を狙うような角度だ。
大賢者は、頭を傾けた。一インチもない距離で、剣は彼の髪の毛をかすめ、その後ろの空を切った。
グラドは、三撃目を放つ。下からの斬り上げだ。大賢者は、片足で跳んだ。グラドの剣は、彼の足元の床を切った。石の床に、確かに傷が刻まれた。
ルイスは、息を呑んでいた。
グラドは、王城の中でも最高の実力を持つ剣士だ。彼が本気で放つ剣撃は、鎧を貫く。だというのに、大賢者はそれを、剣すら抜かずに躱している。
グラドが、怒鳴った。
「抜け!」
「必要ありません」
大賢者が、初めて言葉を発した。
その声を聞いた瞬間、グラドの動きが止まった。わずかな隙。その隙を、大賢者は逃さなかった。
大賢者が、歩いた。
つまり、歩いただけだ。左足を出して、グラドに向かって一歩。ただそれだけ。
グラドが、後ろに下がった。
そして、彼は膝をついた。
「私の負けです」
グラドは、剣を下ろした。
訓練場は、静寂に満たされた。
次に、二人の戦士が出た。同時に大賢者に向かった。大賢者は、剣を抜かずに、その攻撃をすべて躱した。不可思議な軌跡で。なぜか、二人の剣は必ず大賢者の身体をかすめるだけで、大賢者は微動だにしない。
三人目の魔術師が、火の玉を放った。大賢者は、その炎を両手で受け止めた。炎は、彼の手の中で、消える。
四人目の矢の名手が、五本の矢を放った。すべての矢が、大賢者の間を通り過ぎた。大賢者は、目を瞬かずに、矢をよけた。
次々と、王城の強者たちが現れ、次々と敗れていった。
そして、最後に一人が出た。
王城の魔術師長である、年老いた魔術師だ。彼は、本気で大賢者に向かった。
光の魔法。風の魔法。地の魔法。火の魔法。氷の魔法。
あらゆる魔法を、老魔術師は放った。
大賢者は、それらをすべて躱した。
もしくは、受け止めた。
もしくは、消した。
もしくは、反射した。
その戦いは、見事だった。不可思議だった。
そして、不気味だった。
なぜなら、大賢者は、一度も剣を抜かず、一度も魔法を放たず、一度も声を上げず、ただ淡々と、敵の攻撃を躱し、受け止め、消していたからだ。
五
訓練場での示現は、一時間で終わった。
結果は、大賢者の圧勝だった。
玉座の間に戻った王は、大賢者に向かって、正式に『大賢者』の称号を授けた。その時、王は何か言葉を続けようとしたが、大賢者の視線を見て、口を閉ざした。
その眼差しの中に、何かがあったのだ。
「大賢者よ」
王は、改めて問うた。
「そなたは、なぜこの王国にきたのか」
大賢者は、答えた。
「盗賊団の討伐と、魔獣の狩猟の依頼を受けたためです」
「では、それが終わったとすれば、この王国を去るのか」
大賢者は、一瞬、沈黙した。
その時、何かが彼の中で、動いたのかもしれない。
「いいえ」
大賢者は、静かに言った。
「実は、陛下にご相談させていただきたい事柄があり、この王国に留まることにしました」
「何か」
「私の知識と技術を、次の世代に伝える方法についてです」
王は、訝しんだ。
「そなたほどの力があれば、官位を与えて、宮廷に置くこともできるが」
「存じております」
大賢者は答えた。
「しかし、私は権力には興味がございません。官位も、富も、名誉も」
「では、何に興味がある」
「他人を成長させることです」
その言葉は、玉座の間に響いた。
「私は、長い旅の中で、多くの者たちに教え、多くの者たちが成長する過程を見てきました。その時の喜びが、何よりも大きいのです。故に、私の知識と技術が、この王国の若き者たちに伝わることを願っておりました」
王は、その言葉を聞いて、考えた。
「では、宮廷の学師として、ここに留まるのか」
「いいえ」
大賢者は、首を横に振った。
「宮廷の出世や、爵位を求める者たちではなく、本当に学びたいと望む者たちに教えたいのです」
「つまり」
王は、理解した。
「そなたは、自分の塾を、この王国のどこかに建てるつもりか」
「左様です。可能でしたら、王都から遠く離れた、田舎の場所に。才能がないと思われている、誰も見向きもしないような若者たちを集めて、彼らの中に隠れている才能を見つけ、育ててみたいのです」
大賢者の言葉は、続いた。
「人間には、誰もが才能を持っています。ただ、その才能が目に見える形でないだけで、世間から『ない』と評価されてしまう。そうした若者たちに、機会を与えてみたいのです」
王は、沈黙した。
長い、長い沈黙。
やがて、王は、大賢者の目を見つめた。
「わかった」
王は、言った。
「我は、そなたにこの王国の土地を与えることを許可する。好きな場所を選べ。そこで、好きなだけ、若者たちを育てるがいい」
「ありがとうございます」
大賢者は、深く礼をした。
「では、さっそく王国を見て回り、最適な場所を探させていただきます」
「そうするがいい」
王は、微かに笑った。
「そなたの『才能を見つける塾』とやらが、どのような若者たちを育てるのか、興味がある。また数年後、我にその様子を見せてくれ」
「必ずや」
大賢者は、誓った。
六
その日の夜、王城の宴会場では、大賢者を歓迎する宴が開かれた。
ルイスは、その宴の片隅で、大賢者を眺めていた。
大賢者は、宴の中でも、相変わらず静かだった。誰かが話しかけても、短く答えるだけ。多くの廷臣たちは、敬意を払いつつも、距離を置いていた。その圧倒的な力の前では、親密な関係を築きにくかったのだ。
しかし、ルイスは、大賢者の瞳の奥に、何かを見た気がした。
それは、何か。
寂しさだろうか。
もしくは、希望だろうか。
ルイスは、グラスを手に、大賢者のところへ歩いていった。
「大賢者どの」
ルイスが声をかけた。
大賢者は、顔を上げた。
「訓練場での戦いは、見事でした。特に、火の玉を素手で受け止めたあの瞬間。どのような魔法を?」
「魔法ではなく、技術です」
大賢者が答えた。
「炎の熱を、体外へ流す方法です。魔法で対抗するのではなく、炎そのものの性質を理解して、その流れを変える。すると、ダメージなく対処できます」
「なるほど」
ルイスは感嘆した。
「それは、私たちが修得していない知識です。もしよろしければ、王城にお留まりになった際に、その技術を教えていただけませんでしょうか」
大賢者は、ルイスを見た。
その時、大賢者の目が、一瞬、輝いたように見えた。
「それは、喜びです」
大賢者は言った。
「知識を求める者に教えることほど、価値のあることはありません。いつでも、来てください。技術の全てを、教えましょう」
ルイスは、その言葉に、大賢者の心の奥底に何があるのかを、一瞬だけ見た気がした。
それは、本当に「他人を成長させたい」という純粋な願いだった。
権力も、名誉も、富も、それらすべてを超えた場所にある、シンプルな願い。
「感謝します」
ルイスは、頭を下げた。
大賢者は、微かに笑った。
七
三日後。
大賢者は、王城を出発した。
王から与えられた地図と、いくつかの支援物資を持って、彼は王都から西へ向かった。
その旅の中で、大賢者は多くの村を見た。
栄えている村。衰退している村。戦争の痕跡が残る村。平和な村。
彼は、すべての村を眺め、考えた。
最終的に、彼が選んだのは、王都から五日の距離にある、小さな村だった。
名前は、フェアウッド村。
人口は、わずか三百人。
周辺には、小さな魔獣が出没するため、討伐の仕事もあった。
それでも、決して栄えている村ではなく、むしろ衰退していく村だった。
しかし、大賢者は、その村に塾を建てることを決めた。
なぜなら、ここにこそ、自分が育てたい「才能のない」と言われた若者たちが、集まっているはずだったから。
大賢者は、村の中央に、古い廃屋を見つけた。
かつては、領主の代官所として使われていた建物だ。今は、誰も住んでいない。
大賢者は、その廃屋を修復し始めた。
一人で。
その作業は、三週間続いた。
壊れた屋根を直す。腐った木材を交換する。床を張り直す。壁を補修する。
その間、村人たちは、この奇妙な男を見守っていた。
どこから来たのか。何をしようとしているのか。
やがて、大賢者は、村の広場に告示板を立てた。
その上に、一枚の張り紙をした。
「才能がない」と評価された若者たちへ。
ここに、「賢者塾」が開塾します。
年齢、性別、出身、身分は問いません。
王国の法に反さない限り、誰でも入塾できます。
学費は、必要ありません。
ただし、学ぼうとする気持ちが必要です。
本当に学びたい者だけが、来てください。
張り紙を見た村人たちは、訝しんだ。
誰が来るのか。
誰が、こんな山里の塾に来るのか。
しかし、大賢者は、焦らなかった。
彼は知っていたからだ。
才能を求めている者たちは、必ずやってくる。
たとえ、世間から「ない」と言われた者たちでも。
たとえ、自分たちで「ない」と思い込んでいる者たちでも。
本当に、学びたいと望む心を持つ者なら。
必ず。
大賢者は、塾の前に立ち、静かに待った。
春の雨が、小さな村に降っていた。
第1話終了。




