【Cruel】声の重なる場所
どこからか金木犀の甘く切ない香りが漂ってきて、鉄朗ははっと顔を上げてその樹を探した。だが、辺りをぐるりと見回しても、あの愛らしいオレンジ色の花は見つけられず、そのままパーカーのフードをかぶり直す。
ポケットからスマホを取り出して時間を確認するが、三十分過ぎても「遅れる」の一言も届きやしない。だったら初めからそのつもりで来ればよかったと顔をしかめる鉄朗の前に、息を呑むほどのイケメンが姿を現した。
「よっ」
「みっ……」
待ち合わせ場所に現れた水斗を見て、鉄朗は思わず大声を出しそうになる。なぜ渋谷のハチ公前だなんていう、年中多くの人が行き交うスポットを指定され、それに応じてしまったのかと、自分のバカさに嫌気が差した。
「ちょっとみなちゃん、変装くらいしてよ!」
「誰も見てねえよ。みんな彼氏待ってんだろ」
帽子さえかぶらない水斗と慌てて肩を組み、咄嗟に予備のマスクを取り出してその美しい顔を隠した。つけろとジェスチャーをすると仕方なくといった感じで従う水斗は、自分の立場がいまいちわかっていないようだ。
「早く行こ。ばれないうちに」
「あ」
「キャアアァァァッ、ミナト!?」
「うそっ、どこ?」
二人は一瞬で女性たちに囲まれ、シャッターの嵐を浴びる羽目になる。もっとも、水斗を前に鉄朗は気づかれていないようで、黄色い悲鳴をあげる女たちの波によって押し出され、文字通り蚊帳の外だ。
だから言わんこっちゃない。鉄朗の落胆と焦燥をよそに、水斗は両手を振ってカメラから逃れようと足掻いている。まずはこの状況から逃れなきゃ、SNSで拡散される前にどうにかしなきゃ、明日マネージャーに怒られるだけじゃ済まない。
「握手してください!」
「サインいいですか?」
譲り合うはずもない彼女たちは、我先にと水斗に近づこうとし、次第にあちこちで喧嘩を始めた。その隙をついてスマホに保存してあったサイレンを大音量で鳴らした鉄朗は、女の輪の中から抜け出す水斗の手を取って全速力で走り出す。
「ミナトッ、ミナト、待って。行かないで!」
「なになに、何かの撮影?」
トップアイドルという非現実が急に「手の届く」ところに舞い降りたのだ。彼女たちが混乱し叫ぶのも無理はない、一般人に紛れようとしない水斗が悪いと、鉄朗は半ば憐れみながら自分たちを追う声に耐える。
「あははははは!」
「みなちゃん、笑いごとじゃないから!」
どこまで行くのか、走れば逃げ切れるのか、それすら曖昧だが、水斗とスリルを味わうのは楽しいと思った。すれ違ったサラリーマン風の男性まで水斗をみとめて驚くのに、鉄朗は改めて自分たちの知名度の高さを感じていた。
案内された個室に入ってソファに腰を下ろすと、すぐに楽曲の検索を始める。サードシングルまでしか出していないCruelは、カップリングと合わせても四曲しかヒットしないが、デビュー曲『Claw』はいまだにランキング上位に君臨している。
「みなちゃん『Claw』歌ってよ」
「いきなりかよ。まずは得意な曲歌わせろっつの」
「俺は歌わなくていいからさ。みなちゃんのソロライブなんて贅沢~! あ、タンバリン用意しよ」
言いながらマイクやカスタネットの入ったカゴを持ち上げ、鉄朗が古びたタンバリンを手に取る。左右に揺らすとシンバルがシャンシャンと音を立て、エコーを受けては狭い室内に反響した。
「順番に同じ曲歌おうぜ。一人じゃつまんねえよ」
「やめてよ、公開処刑みたいなもんじゃん! 俺だって音痴ではないけどさ!」
「じゃあ俺らの曲だけでもいいよ。そんで、気になるところは直してこう」
「うーん、じゃあ、みなちゃんが五曲歌ったらね」
自分は歌わないつもりで来たカラオケ店だったが、水斗の提案を無下には出来ず、鉄朗は妥協点を示したうえで頷いた。水斗があげた手のひらに自分のそれを合わせ、タンバリンをそっと膝に置く。
Cruel結成からもうじき一年、メンバーとはほとんど毎日顔を合わせている。その中で水斗とはつかず離れず、ちょうどいい距離感を保てている自覚があり、鉄朗はいつしか彼の隣に居心地の良さを感じていた。
デビュー当時は感じの悪かったりくともチームになれたし、圭介は素直で初めから話しやすかった。自由奔放すぎる桃丸の言動に冷汗をかいたこともあったが、リーダーとしてそつなくこなして来たと言えるのではないかと自負している。
一番頭を抱えたのが悠弥だ。正直悠弥との間には、いまだに高く厚い壁があるように思う。数ヶ月前のりくのみたいに、他のメンバーを蔑みはしないものの、これほどまでに感情が読み取れない人がいるものかと恐怖すら覚えた。もちろん、所詮は仕事の仲間でしかないのだ。表舞台に立つ時だけグループとして成り立っていれば、誰もとやかく言う権利はない。だが鉄朗は、健気にがんばっている圭介のためにも、Cruelをまとめたいと願っていた。ばらばらなままでいい。事務所も個性を大事にしてくれている。でもせめてデビュー記念日には、本物の笑顔をファンに届けてあげたいと。
なぜ水斗の歌は、こんなにも人の心を掴むのだろう、いとおしいのだろう。水斗の歌声に包まれながら、鉄朗はそんなことを考えていた。
水斗が五曲目に選んだのは、女性ミュージシャンの人気ナンバーだ。発売からもうじき十年が経つが、毎年カラオケの年間トップ100にランクインしているらしい。女性ボーカルの曲でもすんなりと耳に馴染む水斗の声は、あの悠弥が「世界に通用する」と評価した宝物だ。水斗を「国宝級イケメン」などと陳腐な言葉で持ち上げるメディアは山ほどあるが、水斗はそんなことに興味はない。あるのはただ、自分の歌で多くの人を魅了する、それだけ。
「ヒューヒュー、みなちゃんさいこー!」
タンバリンを鳴らして盛り上げていると、ようやく店員がドリンクを運んできた。水斗に気づくと目を大きく見開いたが、軽く礼をしてそのまま個室を出ていく。
「SNSに投稿しないといいけど」
「さすがにしねえだろ。パニックになったらどう責任取るんだっつの」
「んー、でも、お店は儲かるんじゃない?」
「ただのバイトじゃん、たぶん。まぁ、どっちにしろ長居は無用だな」
薄いジンジャーエールを一口飲み、水斗がいよいよ『Claw』を入れようとする。ふいにその手を制した鉄朗は、水斗と視線を合わせると急に照れ臭くなって俯いてしまう。
「あっ……、ごめん」
「なんだよ、俺の歌に惚れたか?」
「それは今に始まったことじゃないし」
「おっ、ヒビテツ、今日はやけに素直じゃん」
「俺はいつも通りだよ!」
そうは言ったものの、どこか神妙な様子であるとは、自分でもわかっていた。水斗に「買い物に付き合ってほしい」と誘われたとき、嬉しいと同時にほっとしたのを思い出す。他のメンバーには芽生えない感情の変化や戸惑いを、鉄朗は隠すつもりもないのだ。友達じゃなくていい。トップアイドルのメンバー同士として、ちょっとだけ仲良しでいてほしい。水斗に求めるのはそんな些細な幻だけだ。
「みなちゃんてさ、なんでそんなに歌うのが好きなの?」
いつか女性誌の取材で答えたこともあったかもしれない。だが鉄朗は、デビューから数ヶ月を駆け抜けたいま、水斗がどういう言葉を選ぶか興味があった。
「……わかんねえ。物心ついた時から歌ってて、たぶん、それを聴いた母さんが笑ってくれたからだと思う。うちって両親の仲があんまりよくなくてさ、父親はいつも帰りが遅いし、母さんは疲れた顔をしてることが多かった。何歳だったか、母さんが俺と弟をディズニー映画に連れてってくれたんだ。帰ったあとにその主題歌を歌った。母さんはそれまで見たことのない晴れやかな顔で俺を抱きしめて、弟は手を叩いて喜んでた。いつの間にか歌うことが俺の当たり前になって、歌手になるんだと信じてた」
ゆっくりと、記憶を手繰り寄せるように目を閉じながら水斗が言う。水斗に年の離れた弟がいるのは知っていたが、そんなエピソードがあったとは初耳だ。
「そっか。あやちゃんだっけ。あやちゃんは、みなちゃんの活動を応援してる?」
「もちろんしてくれてるよ。いつも友達とライブにも来てるし、母さんはグッズも買い込んで毎日楽しそう。でも俺はさ、アイドルじゃなくてアーティストになりたかったんだよね。事務所の手違いっつうか、顔がいいからアイドル部門に回されたんだろうけど、だいぶ遠回りさせられてる感じ。でも、それでもミッシングを選んだのは俺の判断だからさ。文句言ってねえで結果で殴ってやらねえとな」
「自分で『顔がいい』って言っちゃうあたり、さすがみなちゃんんん」
「ヒビテツももっと自信持てって。そうじゃなきゃ長く続けらんねえぞ」
「うーん、そもそもCruelって長く続くの?」
メンバーに桃丸がいるという点からしても、事務所がCruelに何をさせようとしているのかいまいち不明だ。短期間に死ぬほど働かせて、ファンから金を巻き上げ、活動休止という名目で事実上解散させるつもりなのか、それとも延々と「アイドル」をやらせるのか。先輩グループを例にあげるなら、だいたい三十代半ば頃になると解散の文字がちらつくようだが、Cruelが十年も十五年ももつとは思えない。
「ねぇみなちゃん。俺たちっていつかばらばらになっちゃうのかな」
今まで何度も脳裏をちらついた。リーダーだからと胸にしまっておいたはずの弱音が、水斗を前に口をついて出てしまう。
「あんまり先のことまで考えない方がいいぞ。俺たちに選択肢はない。ただ与えられる仕事をこなしていくだけだ。それがアイドルってもんだろ」
水斗の方がひとつ年下なのに、本当は音楽をやりたいんだろうに、自分よりよっぽどリーダーらしい。鉄朗は曖昧に頷き、すでに検索が済んでいた『Claw』を機械に送信する。すぐに百回以上は聴いているだろうイントロが流れ始め、水斗はモニターに近づくとマイクを取って鉄朗に渡した。水斗のパートはもちろん本人が歌うわけだが、りくの代わりなどつとまるはずがないと、鉄朗は困り顔だ。
「皆さん盛り上がってますか! まだまだだよね? もっと声出していきましょう!」
「今からお前ら全員幸せにしてやるよ」
「キャーーーーッ!」
「ヒビテツ、うるっせえ」
水斗が笑って、鉄朗も笑い返す。こんなに息がぴったりな二人なのに、六人揃うとなぜ不快感を伴う空気が蔓延してしまうのだろうと思う。それが未熟というものだとも、Cruelの個性だとも理解している。仲良しこよしのアイドル活動がしたいわけではない。ただ鉄朗は、とっくにCruelを愛し始めているからこそ、六人全員で成功したいという夢を捨てきれないのだ。
「みなちゃん」
カラオケ特有のチープなイントロが終わる頃、自分の耳にも届かないほど小さな声で名前を呼んだ。もちろん水斗はそれには気づかず、大きく息を吸って歌い出しに備えている。
「それまでずっと一緒にいようね」
りくのような甘く切ない歌声には到底及ばないが、水斗とデュエット出来るのは純粋に嬉しかった。そうだ、もっと。もっと騒げ。もっと高揚しろ。前の前にいるのは俺たちCruelだと、鉄朗はライブの興奮を思い出している。
曲が終わると採点が始まり、鉄朗としては過去最高の九十七点を叩き出した。鉄朗と水斗はハイタッチで喜び合い、角が丸く傷んだドリンクメニューをテーブルに広げた。




