【BABYLON】猫は幸福を知っている
アラームを手探りで止めて、二度寝をしようとしたところに、武蔵の爪が容赦なく振り下ろされた。よりによって顔に傷を負ったが、それは今に始まったことではないし、そもそも自分のせいなので、寝ぼけ眼をこすりながら笑う。
仕事ならもちろん遅れは許されないが、今日は珍しく一日休みが与えられている。もう少し一緒に寝ようよ、と布団に招き入れようとしたが、武蔵はさらにみつるに鉄槌を下した。
「むさっ、痛い! 爪尖ってる! 痛い!」
「何やってんの~?」
みつるが大げさに痛がるので、昼食のメニューを考えていた加奈子が部屋に入ってきた。ところが、武蔵は加奈子が来るとベッドから降りてその身体を脚に摺り寄せ、何でもなかったように振舞っている。
「また武蔵にやられました」
「ほんとに懲りないね。私に似てるわ」
「お母さぁん……」
加奈子に撫でられている武蔵は、喉をごろごろと鳴らして機嫌が良さそうだ。そこに小次郎と華もやってきて、斉藤家は一気にあたたかい空気へと変わっていく。
「あぁ……、猫ってなんてかわいいんだろう」
「わかる。猫っていいところしかない」
「神様、猫を創ってくれて本当にありがとう」
床に膝をついて、猫を順番に撫でながら親子でお祈りのポーズをする。武蔵は当たり前のように撫でられ、小次郎はみつるの手に頭突きをし、華は人間を素通りしてみつるの部屋の奥に進んでいく。
「華ちゃ~ん……」
エスパー猫の華は、チャイムが鳴る直前にそれを察知したのだろう。慌ててベッドの下に潜ると、やや緊張した面持ちで、耳を立てている。
「あれ、なんか頼んだんだっけな」
「通販?」
「うーん、猫のごはんはいつもスーパーで買ってるし……」
通販は毎日のように利用しているが、加奈子も今日に限っては覚えがないようで、首を傾げながらインターホンへと向かう。すると、そこに映っていたのは、グリーンの瞳が麗しい長身の男性だった。
「まっちゃん!?」
「宇治原亮ですぅ。みつるくーん?」
そうだ。すっかり忘れていた。玲司や伊吹は個人の仕事があるそうだが、今後一度あるかないかくらいのタイミングで亮と休みが重なったので、自宅に招待していたのだ。いや、だったらもう少し早い時間にアラームをかけなければならなかったのだが、もう相手が来てしまっているもの、玄関で待たせるわけにもいかない。みつるはパジャマ姿のままドアを開け、毎日のように会っている亮の顔を見て、情けない表情をした。
「……えっ、みつるくん、寝てた?」
「ウン……、つい数分前まで」
「出直そうか?」
「いや、まっちゃんがよければ、入って。次なんていつ来るかわかんないし」
「えっと、じゃあ、お邪魔しまー……」
亮が靴を脱ぎかかっているところに、武蔵と小次郎がやってきた。武蔵はサバ白の王様、小次郎は武蔵と違ってチャーミングなキジ白という印象だ。
「わぁ、本物かわいい! 初めまして、まっちゃんでーす」
握手を求めるように手を差し出すが、もちろん犬のようにしつけられているわけではない。武蔵は微動だにせず、小次郎は亮の指の匂いを嗅いで鼻先をこすりつけた。そして室内では、宇治原亮が来るなどとは聞いていなかった加奈子が、低いジャンプを繰り返している。
「あ、みつるくんのお母さん、初めまして。宇治原亮です」
「あ、ま、まっちゃんだ~! 斉藤加奈子です!」
自分から亮の手を取って固い握手をし、加奈子は興奮気味に自分の名前を言った。BABYLON結成から八年目、子供の頃のメンバーとしか会ったことがなかった加奈子にとって、すでに宇治原亮は「画面の中の存在」なのだった。
「いる! ていうかうちにいる! まっちゃんが! えっ、どうしよう。えっ? みつるはどこ!?」
「洗面所でーす。お母さん、まっちゃんにお茶出してあげてね」
「そこはお茶立てなくていいのかなぁ!」
「あの、お母さん。ただのまっちゃんですから」
特別亮のファンというわけではないが、みつるを含めてBABYLON箱推しの加奈子は、いま目の前で起こっている現実に頭がついていかない。お茶、お茶……と呟きながらキッチンへ入ると、テンションもそのままに裏返った声を出す。
「まっちゃん、コーヒー、紅茶、お茶、どれですか!」
「あーっと……、じゃあ期待を裏切らずにお茶で」
「はい、喜んで!」
「お母さん、ノリいいなぁ」
そういえば、コンサートの関係者席で見たことがあると、亮は思い出した。五人分のうちわを胸に抱き、一緒に歌って踊ってくれる女性の姿は、「関係者」であっても嬉しいものだ。そうだ、次回は関係者席にもファンサしなければと亮が考えていると、やっと支度を整えたみつるがテーブルに案内してくれた。加奈子は亮だけのためのお茶を用意しようとして、分量を間違えたらしい。
「まっちゃん、お母さんがごめんね」
「いや、休日もアイドル出来てうれしゅうございます」
「ははっ、ならよかった」
休日に出掛けたことなら何度かあったが、一人暮らしでないみつるの家に上がったのは初めてだった。亮は今日、特に三匹と交流を深めるためにここへ来たのだ。
「あれっ? もう一匹いたよね?」
小次郎の許可を得て、大きなボディを抱っこしながら、亮がみつるに問う。みつるは自室のベッドの下に隠れている華に声をかけたが、案の定出て来る気配はみられなかった。
「うん、華ちゃん。お客さんが苦手でさ、やっぱりだめみたい」
「残念だけど、しょうがないね。怖がらせたらかわいそうだし」
「まっちゃん、お茶どうぞ!」
亮がみつると和んでいると、やっと加奈子がお茶を淹れてくれた。ちらちらと亮の様子を伺いながら湯呑を置き、自分は向かいの席に腰掛けて手ぶりで飲めと勧める。
「お母さん、ありがとうございます」
「とんでもないです! 一口飲んだらでいいので、とりあえずもう一回握手いいですか!」
「はい、もちろん。みつるくんと一緒に活動出来て楽しいです。今後ともどうぞよしなに」
差し出された手のひらを両手で包み込み、亮は加奈子に本音でそう言った。普段世話をしているのは玲司や伊吹だったりもするが、みつるのやさしさは、メンバー全員を癒す効果がある。
レギュラー番組の収録で、ちょっと恥ずかしいミスをしてしまった時。新曲がなかなか覚えられない時。最年長のみつるは、遅れを感じているメンバーをそっとカバーし、それを決して顔に出さない。完璧なリーダーとも言える玲司にだって、うまくいかない日もある。みつるにしか出来ない「とにかく自分ちの猫の写真を見せて笑ってもらおう」という、お決まりの励まし方は、結果的にメンバーに幸福感を与えているのだった。
「まっちゃん、お昼何にします!?」
「お母さん、俺も食べるよ。訊いてよ」
「好き嫌いないです。お母さんが作ろうと思ってたものでお願いします」
「わかりました。回鍋肉ですね」
「いや、無視かい」
みつると加奈子のコントのようなやりとりがおかしくて笑っていると、亮の前に武蔵が現れた。雑種とは思えないほど美しい顔や模様に、亮はつい見入ってしまう。
「武蔵くん、綺麗な猫だなぁ」
「でしょ? 綺麗なだけじゃなくて、性格も男前だよ。『うちの子が一番かわいい』のは当然だけど、それを抜きに客観的に見ても最高だと思う。シニアだけど毛もピカピカだし」
「わぁ、ほんとだ。黒い毛なんか濡れてるみたい。小次郎くんもかわいいよ」
「小次郎は華とは逆に、お客さん大好きだからね。ほら、またお腹見せてる」
さっきは亮の腕の中に収まっていた小次郎が、少し離れたところで仰向けになっている。みつるが名前を呼ぶと、目線を合わせて身体を左右にくねらせた。
「くぅ~っ、かわいい!」
みつるは小次郎の元に走ってお腹をくすぐり、亮は「失礼します」と声をかけてから武蔵の頭を撫でさせてもらった。加奈子は再びキッチンに入って、三人分の回鍋肉の準備を始めている。
「そういえばさ、今日って他のメンバーの仕事、なんだっけ?」
「まっちゃんが一日オフって珍しいよね。えーと、伊吹はソロコンのリハ、菊ぴーは女性誌の撮影、佳樹は知らない」
「またシャンプーとかドライヤーのCMかな?」
「もういっそモデルになればって感じだよね、佳樹。でも、ステージに上がった時のプロアイドル・速水佳樹も好きなんだよねぇ」
「わかる! つか、何よプロアイドルって。あー、でも、最近じゃVtuberなんかアマチュアアイドルみたいなもんかもね」
せっかく二人きりの休日なのに、気づくとメンバーの話をしている。共通の話題として最適といえばそうなのだが、亮はもっと猫について知識を深めたかった。
「ねぇみつるくん。武蔵くんと小次郎くんて、保護猫だったっけ?」
「ううん、一般のお宅でね、両親とも飼われてたの。その六にゃんきょうだいとして生まれたのが武蔵と小次郎! 二ヶ月母乳も飲んでたから健康で長生きしてくれてるよ」
「そうなんだ。じゃあ、華ちゃんは?」
「華ちゃんは保護猫。そろそろ妹がほしいと思って、地元にいくつかある保護猫団体さんのサイトから見つけたんだ。運命の子を」
みつるは亮に華を会わせたくて、うずうずと身体を動かしながらまた自室を見る。だが、チャイムが鳴った時からそのまま、華はまだそこで沈黙している。
「保護猫団体さん、里親が斉藤みつるでびっくりだな!」
「いや、お母さんだけの時にお迎えしたから。でも、お母さんがインスタやってるし……、あぁ、もちろん俺の母親だってことは隠してるけど、俺もたまに写真載せてるから、もしかしたらファンの人から聞いたかもしれないね」
ふふ、とみつるは嬉しそうに笑うが、それは身元がバレることに繋がらないのだろうか? まったく、みつるはぼんやりしてるから、などと心配していると、中華味噌のいい香りが近づいてきた。
「まっちゃん、みつる、回鍋肉お待たせしました!」
「あ、お母さんがやっと俺を認識した」
「お母さんて敢えて言うと誰推しなん? 俺でこの反応からして、推しが来たらすごいことになりそうなんだけど」
「佳樹くんです」
加奈子がなぜか低音イケボでそう言った。みつるは爆笑し、亮も次の言葉が決まらず固まっている。
料理をテーブルに置いた加奈子は、エプロンのポケットからスマホを取り出して亮に見せた。そこには、BABYLONのファンクラブ会員限定ページが表示されており、好きなメンバーの項目は「速水佳樹」を選択してあった。
「わぁ、ファンクラブまで。ありがとうございます」
「こちらこそ、いつも楽しませて頂いています」
「あの……、今度は佳樹、連れて来ましょうか?」
「いえ、あの美貌を生で浴びる勇気は私にはないので……! まっちゃんが一番です。また来てください」
ロボットのような動きで頭を下げ、加奈子は回鍋肉を三人分、取り皿に分けていく。それが終わった途端に席を立って、猫のご飯の用意もすると、二匹は匂いにつられてみつると亮のそばを離れた。
「……華ちゃん、ごはん食べなくていいのかな?」
「いや、お腹は空いてると思うよ。でもだめかなぁ。華ちゃん? ごはんだよ~!」
みつるがもう一度華を呼ぶが、一向に姿を現す気配はない。冷めないうちに、と自分たちは山盛りの回鍋肉をむさぼり始め、余計に華の空腹が気になってしまう。
「おいしいです!」
戻ってきた加奈子に言うと、もう亮には慣れたのか、ドヤ顔で親指を立ててくれた。三人でとる昼食はあたたかく新鮮で、亮はすぐにご飯のおかわりを頼んでしまった。
食後のお茶をすすり、お腹もいっぱいになって、昼寝をしたくなってきた。武蔵と小次郎は大きな猫ベッドにくっついて入っていて、寝顔を見ているだけで胸が締め付けられる。
「猫写真が癒されるって言う人が多いけどさ、俺はこう……、『かわいいっ!』ってなって苦しむのね。それって変態かな?」
「うん。変態だけど、猫好きはそれが正しいんだよ。だからまっちゃんに『真の猫好きで賞』あげる」
「『変態だけど』ってあっさり肯定されてら。いやでも、うん。ありがとう」
みつるといる時、亮は自然と笑顔になることが多いと気づく。もちろんBABYLONのメンバーはみんな大好きで大切だが、みつると過ごす時間の心地よさは、何にも代えがたいほどの充足感に満ちている。みつると、おいしいご飯と、そして存在感たっぷりの個性的な猫たち。次はいつ来られるだろうか、ともう未来に想いを馳せていると、いよいよお腹が空いたのか、みつるの部屋からそろそろと華がリビングまで歩いてきた。
「華ちゃん、ごはん?」
みつるがやさしく声をかけると、華はまっすぐに猫のご飯台へと向かった。少し時間が経ってしまったウェットフードのにおいを確認したあと、それではなくドライフードを口にする。カリッ、カリッといい音が聴こえてきて、三人は遠くから華を見守る。亮は、この距離からでも会えただけで嬉しいと、華の後ろ姿のかわいさに息苦しくなった。
「まっちゃん、晩ご飯も食べてく?」
「あー、いや、夕方から友達と遊園地に行く約束しちゃった」
「夜の遊園地、いいねぇ~! じゃ、あと一時間くらいかな」
「みつるくんちさえよかったら、今度は仕事帰りにでも寄らせてほしいよ」
小さい頃から犬猫などの動物は好きだったが、実際に家庭で愛されてる子たちを見て、ますます猫の魅力にハマってしまったと、亮は思う。他のグループで、猫を飼ってる奴はいなかったっけ……と目を閉じて考える。たしかCruelの立花圭介とPricklyの滝沢裕介は犬だったはずだ。
「あれ……」
みつるの声がして、亮は一瞬の眠りから目を覚ました。するとそこには、自分の脚に触れている華の姿があった。ゆっくりと椅子から立ち上がって、華の前に正座する。華はしきりに亮のにおいを嗅ぎ、最初は警戒しながらも亮の膝の上に落ち着いた。
「み、みつるくん……!」
「まっちゃん……!」
「まっちゃん!」
感動のあまり名前を呼び合うことしか出来ず、そして亮は、華が行ってしまわないように、ややきつい体勢をキープしている。武蔵にもそうしたように「失礼します」と小声で言い、艶やかで美しい毛皮を撫でさせていただく。
「にゃあ」
華は可憐な声で小さく鳴き、喉を鳴らし始めた。幸せな瞬間、光景のはずなのに、「真の猫好き」の三人の間には、華に快適に過ごしてもらわなければという、試練にも近い時間が流れ始める。
「あ~っと……、遊園地はキャンセルだな」
「ですね。じゃあ夜までどうぞ、ごゆっくり」
「お邪魔いたします」
「うちの子をかわいがってくれてありがとうございます」
みつるとの会話の中に、自然に加奈子も混ざってくる。亮は華が降りないよう、緊張しながらも居心地の良さを感じ、室内をぐるっと見回しながらそっと微笑む。
もしもいつか同居人が出来たら、保護猫を迎えたい。自分とその人だけの猫がほしい。いつ叶うのか、それとも夢のような話なのかは不明だが、亮はこの数時間だけで猫の魅力に堕ちてしまった。
優雅にグルーミングをしていた華が、ついに亮の膝の上で寝息を立て始める。そこに武蔵と小次郎がやってきて、華の頭がぐらぐらと動くほど、やさしく舐める姿に、三人の人間は悶絶しながらもこの日一番の笑顔を見せた。




