5───────────火災騒動
蕎麦屋の男の口元が、微かに上がった。
それは、冷たい笑みだった。誰もをゾクッとさせる、氷のような笑い方。
しかし、署の刑事たちは、男の表情になど全く気付いていなかった。空腹をようやく満たすことができる喜びに、彼らは危険など感じることはできなかったのだ。
男の正面にいたヨーコですら、デラックス天丼に眼を奪われていた。
だから、刑事たちは気付くのが遅れてしまった。男が蕎麦湯用のジャーから、どす黒い液体を撒き散らし始めたことに…────。
ツンとした刺激臭が鼻腔を襲って、ヨーコはようやく異変に気が付き、顔を上げた。そして、男がライターを投げたのを見た。
「あっ!」
叫んだが、もう遅い。
ライターの火は、床に撒かれた液体の上を瞬時に滑った。そして、あっという間にメラメラと炎が立ち上がった。
「なんだ!?」
刑事たちは、一斉に立ち上がる。角川が青ざめ、ヨーコの元に走ろうとした。
「桐原さん!」
炎は、ヨーコの目の前で燃え上がっていた。瞬時に、火柱は人の背丈程になる。今にも彼女に燃え移ってしまいそうな勢いだ。しかし、ヨーコの背後にあるのは刑事たちのデスクの列。逃げることなど、できそうにない。
「桐原さぁん!」
角川は、ヨーコを炎から守ろうと必死に声を張り上げる。しかし、デスク越しなので彼女に触れることすらままならない。
「桐原さんっ!!」
火災警報機がけたたましく鳴り響く。
しかし、ヨーコは落ち着いていた。クルッと角川を振り返ると、鋭い目をして叫ぶ。
「消火器を!早く!」
「しょ…しょうかき…?」
角川は一瞬ポカンとした。ヨーコを助けることしか考えていなかった彼の頭は、その単語になかなか反応しなかったのだ。
代わりに、素早くマドンナが動く。
「桐原さん!伏せて!」
合図と共に、マドンナが手にした消火器から、細かい泡が勢いよく吹き出た。しかし、強い炎の力に、泡はみるみる吸い込まれていく。
「これじゃ足りないわ!」
マドンナが声を上げるか上げないかのうちに、二本目の消火器が泡を吹いた。刑事たちによって次から次へと、フロアに設置していた全ての消火器が栓を抜かれていく。
「わゎっ!」
角川は、ザザが放った泡の直撃を受けて尻餅をついた。しかし、誰もそんなことに気をとめない。皆、火を消すことに全神経を注いでいる。
そんな中、ヨーコは、煙の向こうに走っていく「蕎麦屋の男」の姿を捉えた。
「待ちなさい!」
叫ぶが、煙や火に阻まれ、追いかけることはできない。
男の姿は、サッとヨーコの視界から消えていった。
「待ちなさい───!!」
ヨーコの声だけが、虚しく煙の向こうへと飛んでいく…。