30───────────文春発見と天使の過去
嵐。
雨。濁流。
そんな中、一艘のゴムボートが、葦原の一画に静かに止まった。
天使の館から下流に下ること約4キロ。
そこに、ユリアの供述通り、隠された犬小屋があった。
薄汚い赤い屋根。
泥で汚れた壁。
誰かが棄てて行ったとしか思えない、そんな風貌。
ヨーコはボートから飛び降り、ねちゃねちゃした湿地を小走りした。
雨で泥が跳ね、すでにボロボロになったスーツに染みをつけていく。
それでも構わず、ヨーコは真っすぐ犬小屋に走り寄った。
犬小屋の丸い扉は、廃材の木で十字に打ち付けられ、引っ張っても開けることはできない。
「俺がやるよ」
ヨーコの後からやってきた山川が進み出た。
*
「…私たち家族は、10年前までオーストラリアで暮らしてました」
ヨーコと山川が、文春を保護するために天使の館を出ていってしまうと、俯いたままユリアが話しだした。
岩波は無言でそれを見下ろし、角川が手帳にユリアの言葉を書き留めていく。
「幸せでした。父は商社マンだったので、家も裕福でした。
私と弟のタケルは、父の赴任先であるオーストラリアで生まれ育ち、何不自由なく育ったんです。
その頃は、家族で何度も海に遊びに行ったりしました」
「それは、この写真に映っている海か?」
岩波が、しわくちゃになった一枚の写真を差し出した。
先ほど、リビングに貼ってあった写真の裏から見つけたものだ。
砂浜。
幼い姉弟。
微笑む両親。
「…ええ」
ユリアが、かすかに笑みをもらした。
清楚な表情。
「でもこれが、家族で撮った最後の写真でした」
「え?」
角川がメモする手を止め、顔を上げた。
「最後?どうして…」
しかし、その言葉は手を挙げた岩波に遮られた。
「全て、話してくれるな?何故この事件を起こしたのか。すべて」
「はい…」
諦めきってうなだれたユリアが呟いた。
外では、雷が鳴り響いている。
*
山川がジーンズから取り出したのは、マイナスドライバーだった。
廃材の木と、犬小屋の扉の間にできた僅かな隙間にドライバーを差し込み、クルッと回す。
すると、隙間が不思議な程簡単に広がった。
あとは、そこに指を入れて廃材の板を引っ張るだけ。
バターン!
轟音を立てて廃材の板が外れた(はずみで、山川は後向きにひっくり返った)。ヨーコは山川に構うことなく、犬小屋に駆け寄り、その扉をパッと開く。
「文春くん!」
こんなに狭い小屋の中で、たった一人で閉じ込められて、どんなに怖かったことだろう。
どんなに心細かったことだろう。
幼い子供が半目を開いてうずくまっているのを見つけたとき、ヨーコの目に涙が浮かんだ。
「文春くん!」
呼び掛け、子供を小屋から抱きとるようにして出す。「文春くん、しっかりして!!」
必死に揺するが、文春の反応は無い。
まるで人形のように、揺すられるがままに動く。
「お願い!!目を覚ましてっ、文春くん!」
祈るように、ヨーコは叫んだ。
涙はぽろぽろと文春の頬に落ち、雨と交ざって伝っていく。
「文春くん!起きて!」
…ごめんね。
私が、あんなミスをしたばっかりに。
もっと早く助けてあげられたかも知れないのに。
ごめんね。ごめんね。
これから、償いの為に何でもするから。
だから、お願い…!
目を開けて!!
「文春くんっ…」
動かない文春を抱き締めたまま、ヨーコは地面に膝をついた。
「…起きて…目を開けて…っ」
ひたすら繰り返す。
山川も、文春の頭の傍にしゃがみこんだ。
泣き崩れるヨーコの背に、そっと腕を回す。
「ごめんな、文春…」
彼の呟きが、幼い子供の上に落ちた。
「ヨーコのミスの原因を作ったのは、俺だ…」
ヨーコが激しく首を横にふった。
雨粒が飛び散る。
「ちがう…私が、いけないのっ…全部、わたしがいけないのぉっ…」
「ごめんな、文春っ…」
雷鳴が轟く。
稲妻が、カッと空を走る。「ごめんね…!!」
ヨーコが、文春を更に強く抱き締める。
それと同時に、顔をゆがめながら山川がヨーコの肩を抱いた。
凶暴に吹き荒れる嵐は、おさまりそうにない。
*
「10年前…私が中学三年生の時です」
ユリアが話し始めた。
出張でたまたま日本に帰った時、ユリア達の父親は、突然逮捕された。
吉祥寺のアパートで女子大生が殺された事件の被疑者とされたのだった。
証拠として、アパートから採取された「オーストラリアの海岸の砂」が挙げられた。
『日本とオーストラリアでは、砂の質が違う。
オーストラリアの砂が見つかったということは、被疑者は最近オーストラリアから帰ってきた人物だ』
と、警察は発表した。
そして、ただそれだけの理由で、ユリアの父親は逮捕された。
知らせを聞いた時、ユリア達家族は愕然とした。
信じられませんでした。
父親は普段から清楚で、きちんとした人物だったからだ。
どんな間違いがあっても女子大生の部屋に押し入ったり、ましてや殺してなどいない。
そうユリア達は信じていた。
勿論、遠く離れた日本で、父親は無罪を主張した。
弁護士も、頑張って父の無罪を証明しようとした。
しかし、裁判は進み、決定的証拠も無いまま、父親は有罪判決を受けた。
ユリア達は、信じられなかった。
…どうして。
どうして、こんなことに。
あわてて帰国した一家を待っていたのは、さらに厳しい現実だった。
父親は商社を解雇され、収入がぱったり無くなってしまったのだ。
病気を患っていた母親は、無理をおして仕事につかなければならなかった。
また、ユリアとタケルは、転入した学校で酷い虐めを受けた。
「殺人犯の子供だから」という、ただそれだけの理由で。
日々が地獄だった。
住んでいた狭い家には、毎日のように嫌がらせの電話や脅迫状が届いた。
窓ガラスを割られることはしょっちゅうだったし、時にはゴミ捨て場に火を点けられた。
近所の人の目は冷たく、皆が一家を無視した。
まもなく、父は獄中で死んだ。
その知らせを受け取った母も、絶望のあまり卒倒してしまった。
もともと体調がすぐれなかったこともあり、母親も半年も経たないうちに息を引き取った。
姉弟は、たった2人で取り残された。
母の死亡保険金と、父が残してくれた財産があったので生活には苦労しなかったが、2人の心はボロボロだった。
嫌がらせを受けても、虐めにあっても、頼ったり甘えたりできる人はいない。
2人は住んでいた狭い家を引き払い、世間の目を逃れるように、この多摩川のほとりに家を建てた。
それが、この「天使の館」――。
「辛かったけれど、私たちは何とか大学も卒業できました。
私とタケルで、決めたんです。昔のことは忘れて、前を向いて生きていこうって…それなのに」
ユリアはそこで話を切り、岩波と角川を見つめた。
その眼は。
睨み付けるような、怒りに満ちた光をたたえている。
「先月。許せない出来事が起こったんです…」
稲妻が光った。
それに照らされたユリアの顔は、般若のように殺気に満ちていた。