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29───────────「おまえが逮捕しろ」


「き…きりはら…」


岩波は、思わずその場に硬直した。


その目線はヨーコから、倒れてはいるが生きている角川へと走る。


途端に、身体中の力が抜けていくかのような安堵感が岩波を襲った。


よかった。

角川は、殺されていない。よかった…。


一方で、ヨーコは息をつめてユリアの腕を捻りあげている。

「いゃあぁっ!」

悲鳴を上げ、ユリアがナイフを取り落とした。

カラン、と乾いた音を立ててナイフが床に転がる。

それを、横に控えていた山川が蹴り落とした。


ガラン、ガラン、ガラン…


ナイフは踊り場の柵から滑り落ち、階下へと見えなくなった。


「岩波さん!」

ヨーコが、ユリアをの腕を捕まえたまま叫んだ。

「逮捕してください!」


「!」

驚いた顔をしたのは、山川だった。

「…おいっ」

「何よ」

ヨーコがイラッと山川をにらみつける。

「なんか文句あるのっ!?」

「大アリだよ!」

山川が呆れた表情で言った。

「ヨーコが捕まえたんだろ。なんで自分で手錠かけねぇんだよ」

「そ…そうですよっ」

床に倒れた体勢のまま、角川も声をあげる。

「早く逮捕してくださいっ。その女、また何をしでかすかわかりませんよ!」

しかし、ヨーコは動かなかった。

彼女の目は、岩波だけに向けられていた。

「逮捕してください」

彼女は繰り返した。

「岩波さん。あなたじゃなきゃ、ダメなんです」

「バカ!」

山川が怒鳴った。

「しのごの言ってる時じゃねぇだろ!!」

「黙ってて!」

ヨーコがピシャッと怒鳴り返す。

同時に、外で雷がゴロゴロと音を立てた。

もうすぐ、嵐がくる。

桜を散らしてしまう、春の嵐が。

「岩波さん」

息を弾ませながら、ヨーコが呼んだ。

「私には、逮捕できません」

岩波の顔が、ピクッと引きつった。

ヨーコは続ける。

「この事件では、岩波さんが一番頑張ってきたんです。夜も寝ないで、怪我しても休みもしないで。

ずっと被害者の為を思って働いてたんでしょ?

私がミスした時も、私は岩波さんにしか謝らなかった。でも、岩波さんは真っ先に佐倉長官に謝りに行ったんですよね…昨日、筑摩さんから聞きました」

ヨーコの眼から、涙が一粒こぼれ落ちた。

「私は、岩波さんみたいに被害者のことを一番に考えたり、してませんでした。いつも自分のことばっかり考えて。

ミスした時だってそう。文春くんに危険が及ぶことよりも、私自身の刑事生命の方が大事だったんです」


山川は、思い出していた。散らかった部屋の中で、ヨーコが叫んだセリフを。


『もう、私には将来なんかなくなっちゃったの!』


「私は、本当に刑事失格でした」

ヨーコが囁いた。

「そんなヒヨッコの私が、佐藤ユリアまでも捕まえるわけにはいかないんです。誰よりも被害者のことを考えていた岩波さんが、逮捕するべきなんです…!」


涙はとめどなくこぼれ、頬を濡らしていった。

遠くで雷が鳴っている。

岩波が、一歩ヨーコに歩み寄った。

ヨーコは岩波を見上げ、その険しい表情を見つめた。


   バシィン!!


岩波の平手が、ヨーコの濡れた頬を直撃した。

「!」

山川も角川も、ユリアまでもが息を呑んだ。

ヨーコは反対側の壁まで吹っ飛び、頬を押さえてうずくまった。

「おいっ!」

山川が岩波に詰め寄った。「何してんだよ!」

怒鳴り声と共に、岩波の胸ぐらをつかむ。

ほっそりした山川だが、それでも十分な威圧のオーラを放っていた。

「お前何様のつもりだよ!」

山川は明らかに怒っていた。物凄い剣幕で岩波に突っかかった。

「ヨーコは、自分の手柄をお前に譲ってやろうとしてんだぞ!?

ヨーコがいなかったら、このちんまいのは殺されてた!それなのに、お前は今何をした?!」

「そうですよ!」

角川も、何とか立ち上がった。

山川に「このちんまいの」と呼ばれたので気分は良くないが、それでも岩波に抗議したくてたまらない気持ちだった。

「殴るなんて酷すぎます!」

しかし、岩波はたじろぐことは無かった。

山川を乱暴に突き放す。

「お前は、警察関係者ではないだろうが。ぇ?」

岩波が、逆に山川に詰め寄った。

その手がポケットに滑り込み、手錠を取り出したので、ハラハラしながら見ていたヨーコはギョッとした。「関係ねぇ奴が刑事の胸ぐら掴んだりすると、どうなるか知ってるか?」

岩波は、山川の鼻先で手錠をブラつかせる。

眼はギラつき、恐ろしい形相だ。

「公務執行妨害にしてやることだって出来るんだよ。…覚えとけ」

山川の顔は、蒼白だった。岩波への怒りと、逮捕への恐れが入り混じっているかのようだった。

岩波は動けないまま睨み付けている山川を再度突き放し、今度はヨーコの前に立った。

ヨーコは、震えながらも真っすぐ岩波を見つめた。

岩波は、それを見返した。2人の視線が、すれ違い続けてきた視線が、正面からぶつかった。

「本当に」

岩波が呟いた。

「本当に被害者のことを考えたいのなら、おまえが逮捕すべきだった」

「…」

「早く文春を見つけてやる為には、早くこの女を捕まえて居場所を問いたださなきゃならねぇ。

お前みたいに、誰が逮捕するとかにこだわってるようじゃ、時間がいくらあっても足りねぇよ」

また、雷が鳴った。

「お前はまだまだ失格刑事だよ」

吐き捨てるように言うと、岩波は呆然としているユリアをヨーコの前まで引っ張ってきた。

ヨーコは、涙を拭った。

岩波が乱暴に突き出した手錠を受け取り、立ち上がる。

そして、逃げる気力も無くして棒のように突っ立っているユリアを見据えた。

「殺人未遂の現行犯で逮捕します」

天使の細く白い手首に、ガシャンと手錠がかけられた。


雷が激しく鳴って、雨が降り出す音がした。


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