28───────────天使の本性
「やめて下さい!」
ユリアの手が、岩波の腕を掴んで引き止めた。
岩波は振り払おうとしたが、ユリアは頑として離れない。
「…いくら刑事さんでも、人の家に勝手に上がり込むなんて。失礼にも程があります」
そう言うと、彼女は唇を震わせ、岩波の腕にぎゅっと力を込めた。
岩波はため息をついた。
…面倒くせぇ。
彼の判断は素早かった。
ユリアが岩波を離す気配が無いと悟ると、すぐさま角川に向かって頷いてみせ、合図したのだ。
角川は、岩波が何を求めているか、即座に理解した。普段は鈍い角川だが、現場にいるという緊張感が刺激を与えているのだろう、彼の行動はスピーディだった。
ふらつく体で、それでも出来るだけ早くダッシュする。
岩波とユリアをやりすごし、角川は二階へと駆け上がった。
「!」
ユリアの表情が青ざめた。まさか、ここまで強引に家に入り込まれるとは思っていなかったのだろう。
彼女の動揺は、腕を通じて岩波にも伝わってきた。
岩波は、そのチャンスを逃さない。
ふっと力を緩めた彼女の手を振りほどく。
そして、一階でまだ調べていないリビングへと走った。
「やめて!!」
ユリアが叫んでいる。
しかし、彼女は追っては来なかった。
二階へ上がるらしい、パタパタという足音が聞こえてくる。
どうやら、「調べられては困るもの」は二階にあるらしい。
岩波は息を整え、手短にリビングを見回した。
…早く二階に向かわなければ。
普段の状態なら、角川だけでもユリア位止められるだろう。
しかし、今の角川は傷つき、弱っている。
ユリアが飛び道具でも出してきたら、ひとたまりもない。
岩波は、ササッとリビングを一周した。
大きな窓からは、泣き出してしまいそうな曇り空が見える。
ここには、文春の気配は感じられなかった。
しかし、岩波の目は、あるものに吸い寄せられていた。
…壁に貼られた、数枚の写真。
どこかの美しい海で泳ぐ、魚の大群。
そこに浮かぶ、シュノーケルをつけた人影。
それが、この事件の容疑者である、ユリアの弟の姿だと、岩波には解った。
今よりも幼い体格だ。
そして、その写真の後ろから、紙のようなものが数ミリはみ出していた。
それを指で挟んで抜き取ってみる。
すると、隠されていたもう一枚の写真が姿を現した。…家族写真だ。
海辺に4人家族が立っている。
2人の幼い子供――ユリアと、弟(容疑者)。
その後ろに、両親が立っている。
若い2人は、それぞれ子供の肩に手を置いている。
夏の日差しに照らされながら、みんな幸せそうに笑っていた。
岩波は、その写真から眼が離せなかった。
家族と共に笑う父親の顔に、見覚えがあったからだ。「まさか…」
岩波は呟いた。
…この事件は…。
*
角川は、ゼーゼーと息を切らして、二階の踊り場に倒れこんだ。
調子に乗って、走るんじゃなかった。
この家の螺旋階段は、想像以上に急な作りになっている。
それを登りきった今、弱っていた身体は、もう限界を迎えていた。
トントン、と階段を登る音がした。
次の瞬間、角川の視界に映ったのはユリアだった。
顔に表情は無い。
まるで能面だ。
「!」
何かそら恐ろしいものを感じ、角川の背筋に寒気が走る。
ユリアは何も言わない。
ただ黙って、手に隠し持っていたナイフを振り上げた。
「!!」
角川は目を見開いた。
空を切るように、まっすぐナイフの切っ先が迫ってくる。
ぴたりと心臓めがけて…。
*
「ぅわあああ…!!」
角川の叫び声が響き、ぷつりと途絶えた。
「角川!」
岩波は飛び上がった。
見つめていた写真を握り締めたまま、リビングを飛び出す。
脱兎の如く、きつい傾斜の螺旋階段を登る。
岩波は、唇を噛んだ。
…うかつだった。
早く二階に上がるべきだったのだ。
写真に気をとられている間に、何が起こったのか…。
眩暈がする。
それでも、歯を食い縛って登り続ける。
必死だった。
とにかく必死だった。
角川。
どうしたんだ!?
頼む。
無事でいてくれ…!
登りきった時、岩波の目に映ったのは、予想もしていなかった人物だった。
ユリアの腕は押さえられ、ナイフが角川の胸に刺さる寸前のところで止まっている。
角川は恐怖のあまり、細かく震えていた。
しかし、その表情にゆっくりと、安堵の色がさしてきた。
「桐原さん…」
ヨーコが、ユリアを捻りあげたまま、角川に微笑みかけていた。