第一節.出遭いの夜
夜の十時。住宅街を一人で歩く。半年前からこの街を騒がせている、『連続少年少女失踪事件』の影響からか、夜の街は不自然なほど静かだった。
「部活、遅くなっちゃったな......」
その日は一月の終わり。夜であるにも関わらず、やけに空気が生ぬるく、気持ち悪かった。
静かな路地を歩き、いつもの角を曲がった、その先。静寂を塗り潰すように、叫び声が響いた。
「……は。」
四足の獣。だが、知っているどんな動物とも違う。
歪に膨れた筋肉。異様に長い前脚。
そして何より——地面に、誰かが倒れていた。
まだ、生きている。その上に、獣が覆いかぶさっていた。噛み付く音。肉を引き裂く音。
喉が潰れたような、声にならない悲鳴。
——目が、合った。
それは、助けを求める目だった。
――助けないと。
一歩、踏み出そうとした。けれど、その足は地面と縫い付けられたかのように動かなかった。
目の前で、誰かが殺されている。それでも、動けない。呼吸が浅くなる。喉が締め付けられる。
俺が助けなきゃいけない。
そんな事は分かっているのに、その一歩が踏み出せなかった。
気付いた時には、体は獣から背を向け走り出していた。恐怖が体に纏わり、麻痺したように上手く動かせない。それでも、走った。怖い、逃げたい、でも助けないと、それでも死にたくない、どうかただの夢であれと様々な感情が脳を支配する。
聞こえてくる獣の息遣い、足音が今にも途切れそうな意識の隙間を埋めるように蝕んでいく。
ただ、死にたくないと幻想う。そんな、ささやかな現実逃避は、残酷な現実を以って打ち砕かれる。
「え、うそ」
逃げた先は行き止まり。それに気付いた時には遅い。地面を蹴る音が、遅れて聞こえた。次の瞬間にはもう、目の前にいる。
振り下ろされる前脚。避けられない。反射的に身を小さくする。
死ぬ、と理解した直後。
幾つもの光が、獣の胴体を貫いた。
「っと、ギリギリセーフ。大丈夫?怪我はないかな?」
間の抜けた声が、やけに現実的に耳に届く。
俯いた視線を上げるとそこには、月明かりの下一人の女が立っていた。煌めく星空を背に、風に揺れる長い髪が淡く光を反射する。その姿は、あまりにも現実離れしていて、さっきまでの光景と、うまく繋がらない。
場違いなほどに、綺麗だった。恐怖で強張っていた身体が、ゆっくりと緩んでいく。現実感が、追いつかない。
「君、立てる?」
「ありがとうございます。」
女の手を借り立ち上がる。自身の冷たく震えた手とは対照的に、差し出された手は温かかった。
「……あの」
一度、言葉が途切れる。
「……さっきのあれ、なんなんですか。」
「それを聞いたら君、もう元の生活には戻れないかもよ。」
「それでも、聞く?」
女は首を傾け、俺に薄く笑みを向ける。
「......さっきの、あのままだったら――多分俺も、死んでましたよね。それに、俺は……あの人を、助けられなかった。だったら、知らないままの方が.....怖いです。」
呼吸がうまくできない。何かを考える前に、涙が溢れていた。
「そっか.....」
その表情が、わずかに柔らぐ。
「それなら――教えてあげる」
全部は無理だけどね、と一言添えて女は話し始めた。涙を拭い、彼女の話を聞く。
「半年前くらいから、さっき君を襲ったみたいな獣―いわゆる霊獣って呼ばれてるやつが、この街にやたら出るようになってるんだ。本来なら、月に一回でも多い方なんだけどさ、ここ最近はほぼ毎日」。
「それを片付けてるのが、私。」
女は、じっとこちらを見つめ俺は思わず息を呑む。
その瞳から、目が離せなかった。
「それに、普通の人にはねあれ——見えないんだよ。見えるとしても、さっきみたいに命の危機に晒されている時くらい。」
一拍、置いて女は言葉を続ける。
「……でも、君は最初から見えてた。」
「もし、覚悟があるなら――1週間後ぐらいにここに来て。でも、来てもらう以上は、この案件に関わってもらうからね。それと、この後のことは大丈夫だよ、私が何とかしておくから。」
そう言って、見慣れない住所が書かれた紙を差し出した。
「……」
一瞬手が止まる。それでも、俺はその紙を受け取った。
「……わかりました。」
「それじゃあ、また今度会おうか。少年」
女は背を向け軽くてを振りながら去っていく。
後悔を抱え、いつもの道を辿っていく。程なくして家族の居ない家にたどり着いた。
時計の針は、零時を指している。
シャワーを浴び、布団に着き目を閉じる。
瞼の裏に焼き付いて離れないのは、あの獣じゃない。最後に、俺を見たあの目だった。
何も出来なかった無力感、 逃げ出してしまった事への後悔を抱え、眠りに落ちていく。
次の日も、その次の日も、いつも通り起きて寝ての繰り返し。たまに部活に顔を出して家に帰る。
変わらない日常。
その中に生まれた変化。
夜道や物陰、暗い場所まで。何もいない場所のはずなのに目を向けてしまう。
――いるわけがないだろう。
そう思いながらも視線をそらすことは出来なかった。まるで、知ってしまった事への罰のように。
もしかしたら、今もあの獣に襲われている人がいるかもしれない。
そして、あの時の光景を思い出す。見慣れた制服を着ていた。それは、俺と同じ学校の——
そこから先を、考えたくなかった。
いくら過去を悔いたとしても、死んだ者は帰ってこない。
あの時、一歩踏み出せなかった。
その事実だけが、ずっと喉の奥に引っかかっている。
俺の覚悟……考えても答えは出ない。
ただ一つ、確かなことがあるとすれば、知らなければよかったとは、思えなかった。
気付けば、一週間が経っていた。
俺は、彼女が指定した住所へ赴いた。
そこは、西区の一番端。
聞いた事のない廃ビルだった。壁はひび割れ、窓ガラスは所々砕けている。
不気味な雰囲気を醸し出す廃ビルは、明らかにまともな場所ではなかった。
それでも、俺はドアを開け、足を踏み入れた。
「来たんだ、ちゃんと。」
「わっ」
背後から声が聞こえ思わず身を反らす。
「驚きすぎ、そんな警戒しなくても取って食ったりなんかしないよ」
彼女はクスリと笑う。
「でも、正直来るとは思ってなかったよ。」
少し間を空け、彼女は話を続ける。
「それで、覚悟は決まった?」
思わず視線を逸らしてしまう。
「覚悟とか、そういうのはよく分かりません。……でももう、あんなの見て何もできないままなのは嫌なんです。」
顔を上げ、彼女の目を見る。
「あれを見て、今まで通りに過ごすなんてできない。俺も、この件に関わらせてください!」
一瞬の沈黙が流れ、彼女は口を開けた。
「合格。君、もう一般人には戻れないからね。」
「構いません。」
寂れたビルに決意が刻まれる。
「君、名前は」
「俺の名前は、東雲 楓です。」
僅かに笑みを浮かべ、彼女は告げる。
「いい名前だ、私は御門 玲奈。君が関わることになる魔術師だ。」
こちらの作品は、現在公開されている
『【通常版】アカシックテイル〜正義と魔術が交錯する現代魔導戦記〜』のエピソードを分割して公開している作品です。
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