#10 女体育教師
☆広島紀子
凡人族で三十路で学園教師で自警会副顧問の広島紀子が、職員室の自分の机で目を覚ますといつもよりも重力を感じた。
紀子の担当科目は武術体育。上下真っ赤なジャージ姿で短いショートヘアーがトレードマーク。
口元から垂れるヨダレを拭ってから、重くなった自分の胸を乱暴に掴んでこう叫ぶ。
「なんじゃこりゃぁぁぁ!!!」
なんと、先まで装着していたはずのサイズ大きめのブラジャーが跡形もなく‥‥いや、余分の贅肉についたブラの肉跡は三十路になると簡単には消えないのだが、とにもかくブラジャーが消えていた。
プニプニとやや垂れだした自分の胸を自家発電で揉んでいると、遠くに座るハゲ頭の教頭がわざとらしく「ゴホンッ」と咳き込み、こちらを睨んでいた。
紀子は「あー、すんません。悪夢見ちゃったけん‥‥あはは」と両手のひらを仰いで誤魔化した。
ふぅー、と一息ついて職員室の机で自分の置かれた状況を整理する。時計を確認すると、もうすぐ6限目が終わる時刻だ。
(こりゃあれかい? ブラジャーがつけられなくなるっていう、官能乙一の呪い。わしゃあ学園を卒業してから、もう10年近く経つんじゃがな‥‥まさか、うたた寝しとる隙にかかってしまうとは)
紀子は頭を抱えて「うぬぬ‥‥」と低い声で唸った。
今回の官能乙一の奇行に対して、【保護者会】は中立という不干渉を決め込んだ。
そのため、学園生徒で組織される【自警会】の副顧問としても事件には直接、手をだすことは禁止されている。
少し前に高校2年で妖精族と凡人族のハーフの平良ミントから相談を受けたが、学園の教師は例外なく保護者会に所属しているため協力してやれないと断ったばかりだ。
もちろん、本音を隠さなくていいなら助けてやりたかったし、副顧問権限で自警会を出動させてやりたかった。
しかし、保護者会の決定に逆らうには紀子はあまりにも歳をとり過ぎてしまった。
(昔は学園そのものが嫌いで夜の校舎の窓ガラス割ったりもしたけん‥‥じゃが、わしも大人じゃ。保護者会が気まぐれで動いてるわけじゃないことぐらい嫌になるほどわかっとる)
紀子は立ち上がり、職員室を後にした。
(せめて、自分のケツぐらい自分で拭いちゃる!)
そう自分に言い聞かせて、紀子はなるべく人目のつかない場所を目指して廊下に足音を刻んだ。
ちょうど、6限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。高等部校舎の廊下に、生徒が溢れ出し「のりぴ、バイバイー」と気さくな生徒に声をかけられる。
「おう、気ぃつけて帰れやあ」
そんなやりとりを交わしながら紀子はこの後、必ず邂逅するであろう官能乙一について思考を巡らせる。
教師から見た官能乙一は超を超越した真面目な青年で、授業中どころか休み時間でさえ言葉を発している場面を見たことがない。
成績は全てトップ‥‥というか、テストで百点以外をとったことがない。
選択武術ももちろん最高評価。もし、呪術や魔法を選択していても教師が有無言えないような満点なる振る舞いを見せるのだろう。
(ありゃ、天才ちゅーよりは魔王とか魔神とか。そういう次元の存在じゃけん)
現に保護者会では官能乙一は異星人の使者だと主張する者も少なくない。
もし、官能乙一が感情に任せて学園を崩壊に導くような人間性をしていたら、学園内はとっくに戦争になっている。なっていないのは、官能乙一がたまに奇行を見せるがそれ以外の生活態度は、学園で模範的な生徒であり、触れなければ害がないからだ。
(触れなければ害のない奴が女の下着をひっぺはがして回るか‥‥ま、官能乙一と“奴ら“のやることなすこと、大人はいつも理解不能じゃ。わしらの時代も奴らに終わらされたようなもんじゃ)
紀子が学園生徒だった時代、学園は荒れに荒れており学園序列こそが正義と言わんばかりに、都市中で戦闘行為が行われていた。
壁の外側を目指した時代があり、外側に向かうために準備をした世代があり、その次の紀子たちの世代は外側と戦うための力こそ全てだった。
当時、紀子の最高学園序列は6位。
大人になり校則違反が使えなくなった今では考えられないが、紀子は恐れ羨まれる序列一桁に君臨していたのだ。
そして、力の時代が収束を迎えて学園都市が壁の外側を攻略するために【総市民選挙】で【校則】を変える直前の時。
攻略派と呼ばれた力こそ正義を理念に掲げた全ての大人と子供が、まだ幼い小学低学年だった官能乙一と“奴ら“にボコボコに敗北した。
ボコボコとはまさにその言葉通りの意味である。
学園序列の上位陣は幼い官能乙一の序列狩りによって重傷を負い壁の外側どころの騒ぎでなくなった。そして、学園に数多ある組織は“奴ら“によって一時期、全て機能停止にまで追い込まれた。
紀子は運がいいのか、悪いのか。官能乙一と対峙する前に卒業し、拳を交えることはなかったが。
力を謳った世代が幼い子供に完膚なきまで敗北していくニュースが流れる学園都市は、まさに暗黒期だった。
暗黒期は小人族の勇者ピロロが登場し、なんとか落ち着いていったが学園都市はそれ以来、穏便派が多数を占めていつ終わるかも知れない夢のような時間をこうして無駄に消費していっている。
(ま、わしらは世代ごと負けたんじゃ。まだ餓鬼だった官能乙一と“奴ら“にの)
今さら、とやかく愚痴るつもりはない。
しかし、売られた喧嘩に愛想笑いを返すほど大人になったつもりもない。
紀子は拳の乳酸をパキポキ鳴らした。
☆ ☆ ☆
日が傾き始めた学園高等部の校舎裏に足を踏むと、そこにはすでに官能乙一が待っていた。
官能乙一は色気のないスポーツブラを片手に持っている。
上下真っ赤なジャージでノーブラの紀子が「わしが歩きながら行くと決めた場所まで先回りしちょるんけ?」と呆然と口にした。
「‥‥‥‥」
前髪が長くて表情の見えない乙一は無表情・無反応で返事をした。
「まあええ‥‥餓鬼が大人に勝てんっちゅうこと教えちゃるいい機会じゃけん」
紀子は肩を回して、首を回して、手首を回す。
普段から官能七姉妹の次女で高校1年の官能双樹と訓練をしている。努力した分だけ強くなるというなんとも曖昧な校則違反を持つ双樹となら、まだ打ち合える程度には体も動く。
(まあ、双樹は『兄貴にはどう足掻いても勝てないっす』っていっちょる。三十路のわしにゃあ荷が重すぎるけん。じゃが、可能性があるとすりゃあ‥‥)
放課後の校舎裏には排水溝と焼却炉。
紀子は挑発的に八重歯を尖らせてこう口にする。
「ゆーて、わしはもう現役じゃないけん。やるなりゃ、武術大会ルールじゃ。校則違反・魔法・呪術・武器なしのステゴロで殺ろうや。お前さんも意識を刈り取った女の衣服を剥ぐんは、気がひけるじゃろ? ステゴロで負けたら、おとなしくブラジャーつけさしたるわ!」
紀子のなんとも身勝手な提案を聞いて、乙一は反応を見せずスポーツブラをポケットにしまって右足を前にだした。
「乗ってくれるっちゅーことで! じゃあ、行くけん。気張りやッ!」
紀子は「ふぅ!」を息を吸い込み、間合いの外から拳を一、二、三と音速で放つ。
音速の正拳突きはソニックブームを生み出し、空気の塊となって乙一に襲い掛かる。
「‥‥‥‥」
乙一は右足の親指をかすかに動かしただけだった。
その瞬間、彼の体の周りに闘気がほとばしり、空気の塊を相殺した。
紀子は同時に駆け出し一気に距離を詰める。
「シュッ」と息を吐き出し音を置き去りにした、左ジャブ、右ストレート、左中段蹴りのコンビネーションを放つ。
空気を纏う紀子の攻撃は“空拳“と呼ばれ、学園都市でも使い手の少ない武術派最高峰の拳術だ。
パンッ! パンッ! パーンッ!
空気の弾ける音が響くが、乙一は回避したかどうかも分からない最低限の動作で避けていく。
そして、紀子の中段蹴りを乙一は左手の人差し指で引っ掛けると、そのまま紀子の体を空高く投げ飛ばした。
「なんじゃそりゃ!?」
宙を舞いながら紀子が驚愕に顔を歪ませた。
合気というには強引すぎて、柔術というには動き幅がない。
人差し指を足首に少し引っ掛けられたかと思った瞬間には、もう宙を飛んでいた。
「滅茶苦茶じゃのッ!!!」
紀子が体を捻ってなんとか体勢を整え、右から左キックのソニックブームの衝撃波動を放つ。
しかし、その先に乙一はいなかった。
地面をえぐった攻撃のすぐ後に着地して、砂埃に目を細めると真後ろから死神かと錯覚する殺気に襲われる。
紀子が振り向いた瞬間、ちょうどおでこの位置に官能乙一の指先が視界に入る。
「いけすかんッ!!!」
叫ぶと同時に乙一のデコピンがパスコーンッ! と小気味いい音を弾いて、紀子の顔面が吹っ飛んだ。
青天井‥‥紀子は大の字の仰向けで空を見上げることになる。
(打たれ強さには自信あったんじゃがのお‥‥指先一本でダウンとは笑えんな)
思いとは裏腹、自分の口角が吊り上がり、「ガハハッ!」と大笑いしている。
(納得‥‥こりゃ、納得じゃけん。官能乙一は本物たい‥‥強さこそ正義なら、乙一は正解じゃ)
紀子はグラグラする頭とは真逆の爽快感を得ながら、体を起こしその場にあぐらをかいた。
「ふぅー」と大きく息を吐き出して、「参った、勝てん」と膝を叩いた。なんとも気分のいい様子だった。
「好きにせえ。三十路女の乳はブラなしじゃ垂れてしまってしゃーないんじゃ。とっとと、ブラジャーつけてくれや」
紀子は座ったままで手を広げ乙一に身を委ねる。
「‥‥‥‥」
乙一は無表情・無反応で紀子の元に歩みより、そして真っ赤なジャージのチャックを下ろした。
紀子は呪いのむず痒さを感じながら心地いい疲労を味わっていると、ジャージの下の無地の白シャツが汗で透けていることに気がつく。
戦闘の高揚感のせいか。最近、垂れてきた胸の先の突起物はいつもより尖っており、汗で張り付いたシャツに透けていやらしく自己主張していた。
「ひゃっ!? ちょ、ちょいタンマじゃ!!!」
黒く透けた突起物を隠すように抵抗して見せるが乙一に強引に腕を掴まれて、そのままジャージを脱がされてしまう。
「やめろッ! 着替えさせてくれッ!!!」
贅肉のついた二の腕で胸を隠すが、今度が脇の下が汗で湿って肌色を透けさせていた。
紀子はキリッと睨みつけて、強引に迫ってくる乙一を威嚇する。
「その‥‥わしはこういうの初めてなんじゃ!!! じゃから、もっとこういい感じに‥‥」
「‥‥‥‥」
乙一はまるで興味を示さず紀子の白シャツに手をかけた。
紀子が暴れるものだから、くんずほぐれつしてる間に乙一は紀子を完全に押し倒すような体勢になってしまう。
「なんちゅー力しとるんじゃ‥‥わしは一応、教師じゃけん‥‥生徒と教師でこういうのは‥‥いけん、と思う」
身動きの取れなくなった紀子は頬を赤く染めて、横目に視線を流して恥じらうように言った。
「‥‥‥‥」
一瞬、静止した乙一であったがすぐに動き再開し、紀子のシャツの強引に脱がした。
紀子のだらしなく垂れはじめた大きめの胸が空気にさらされる。
(そういや、強い奴じゃなきゃこの体許せん! なんて、クダ巻いてた時期もあったのお。おかげで、卒業して教師になってからも恋愛経験はなし。初めて見せる裸はだらしないもんになってしもうた)
ふと、スポーツブラを自分につけようと迫ってくる乙一の顔をじっと見つめてしまう。
長い前髪で一切分からない瞳はどんな形をしているんだろうか。
(‥‥官能乙一、本当に強かったけん)
その声を聞いたことのないずっと塞がった唇は何を考えているんだろうか。
ドクンッ、と身に覚えのない心臓の音が耳の奥から響いた。
学園都市でも屈指の空拳使いで三十路の広島紀子はそれが恋に落ちる音だと気付いてから、その3秒後に乙一に抱きついていた。
「責任とってくれやッ!!!」
しかし、その先にはもう乙一の姿をなく、自分で自分を抱きしめる放課後の校舎裏だった。
今晩、紀子の酒の量が増えたことは言うまでもない。
☆チャチャ
どこにでもいる妖精族のエルフで大学1年で特異レベル7のオリジナル型『終末夢』の校則違反を使えるチャチャは、一人暮らしの部屋で夕寝をしていた。
ディアライフアプリで配信するディスティニーの熱狂的なファンのチャチャは、放課後寄り道をせずまっすぐと帰宅して一度寝てから夜の配信に備えるのだった。
ただの夕寝のつもりだった。
途中まではただ寝ていたはずだった。
しかし、終末夢が発動してまた30日後の世界の終わりの絵を見せてくる。
それは学園都市のどこにもないはずの死者の国のような場所。
官能七姉妹が血を流し横たわっている。
その真ん中には返り血を顔に浴びた官能乙一が無表情で立っていた。
「イクイクッ!!!」
チャチャは倒れた姉妹の中に最近推しているディスティニーの官能幾束を見つけて、夢の中で叫んでしまう。
「こんなの嘘よ!!!」
夢の中でチャチャは官能乙一に声を上げる。
「あんたはいっつも英雄的に助けてくれるじゃない!? なんで、こんなことしてるのよ!!!」
官能乙一は何も答えてくれない。
今回の終末夢に巻き戻しは発生しなかった。
つまり、チャチャの能力が本物なら30日後、官能乙一は妹たちに手をかけることになる。