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第二章 冬の便り

「さて、と」


 王宮内の裏庭の隅で、人目につかない木の根元に腰を下ろしたアリーシャは羊皮紙と羽ペンを手にして呟いた。

 正直、こういうときには前世の書きやすいボールペンや上質紙が恋しい。だが、紙もインクも貴重なこの世界でそれを言うのは贅沢な話だ。

 内心のそんな文句はさておき、アリーシャは今後の計画について頭を巡らせる。

 けれどそれ以前に重要なのは、自分たちが置かれている現状の正確な把握だと考え直した。

 アリーシャはアナトール国王太子の一の娘だ。そしてこのアナトールは表立っては露呈してはいないものの、内憂外患の状況にあるといっていい。

 大陸の西寄りに位置するアナトールはその地の利により、幸いにも近年周辺国を襲った冷害による影響を受けるのを免れた。

 だが、逆に言えばそれは、アナトールを取り巻く各国には被害があるということを意味している。

 東の隣国であるオイヴァは収穫が減ったことで貿易による外貨が減少したと聞いた。そして北の連合国ケンティフォリアは民が飢え、暴動を起こすかどうかぎりぎりのところまで来ているのだという。

 アナトールよりもさらに西方にあるサルシは、東や北の国々に比較すればそこまで大きな害を被ったわけではないが、彼の国は契約を重視する風潮が特に強い。ゆえに、かつてのアナトール王太子の婚約破棄については嫌悪感を抱いており、現在における両国の関係はかなり微妙であったりする。

 後は南が残るのだが、そちらは海だ。この方面についてだけは地続きの国は存在しないので、こっちは今のところ棚上げにしておくにせよ……。


「うーん……」


 羽ペンをくるりと回し、アリーシャは空を仰いだ。

 淡い青空を背景に、風が枝葉を揺らしている。降り注ぐ木洩れ日が、光の雨のようにアリーシャの金の髪を撫でていく。

 こんなにあたたかな陽の下にいるというのに、アリーシャの胸の中には薄氷を履んでいるような寒々しさがあった。


(周囲の国々がこんな有様なのに、国内も相当荒れてるし……。というか、お祖父様が国王であるうちはまだ求心力は保てるだろうけど、その次の代になったらどうなるのかしらね)


 アリーシャは青の双眸に、年齢にそぐわぬ冴え冴えとした光を浮かべた。

 はっきり言って、アリーシャの父親である王太子に、人望はない。

 だってそうだ。話もせず一方的に婚約を破棄するような人間を、誰が信頼するというのだろう。国の頂点に位置する国王が定めた結婚の約束を、それに準ずべき立場の王太子が己の独断で反故にしたのだ。現状王太子夫妻を慕っているのは、仕立て上げられた美談を信じている市井の者たちだけである。当時の事情をよく理解している貴族は、彼らを見限っているといってもよい。

 この国には明確な身分制度が存在するので、大概の人間は己より上位の階級に位置する者に敬意を払うよう刷り込まれているところはあるが、それでも程度というものがあるのだ。

 相手の言葉に耳を傾けること、約束を守ることは人としての基本だ。

 それなのに両親は、その最低限の線を踏み越えたことをあまりにも軽々しく考えている。

 だからアリーシャは、周囲が二人に下した評価を不当だとは思っていない。思ってはいないのだが――。しかし、だ。


(分かっていても、親の評価が丸々こちらに下りてくるのはかなり痛い……)


 アリーシャの金の髪は父親から、青の瞳は母親から受け継いだものだ。そして顔はどちらともに似ている。弟はまだ幼いので顔立ちについては断言できないが、髪と瞳の色は父親そっくりだ。

 両親との繋がりが一目瞭然なこの外見は、そういう意味で微妙だった。

 平々凡々だった前世の自分を思えば、比較にもならないような整った容姿に生まれついたというのに、正直全く喜べない。

 王族という身分に加え、かつて生きた記憶という経験値があるとはいえ、文字通り人生を懸けたゲームに挑むにはなかなかに厳しいハンディキャップである。


(今後の人生設計を検討するとしても、この場合私の価値ってどうなるのかしらね?)


 アナトールの王位継承権は男子優先なので、第一位は父である王太子。そしてその次に、弟のアロイスが来る。――ここまでは、問題ない。ただ、更にその後については悩ましいところだった。

 考慮しなければならないのは、祖父の弟のアントナンの扱いだ。アリーシャとアロイスの大叔父にあたる彼は、順当にいけば王位継承権第三位となる位置にある。年齢からいっても祖父とはゆうに十歳以上の年の開きがあるので、その点における不具合はない。

 だがここで問題になるのが、アントナンが側妃の子であるということだった。

 この国では正妻の存在は絶対とされており、妾とは明らかに一線を画している。そして彼女たちの子供も、母親の待遇に準じることになっているのだ。それゆえ、アントナンは間違いなく現王の弟であるものの、正妃の子である王太子とは立ち位置がはっきりと異なっているのである。

 側妃出の王弟も積極的には推し難いが、かといって王太子夫妻の幼い娘をたてるのも悩ましく、現状では第三位の座はなあなあで誤魔化しているようなものだった。


「本当に、どうしたものかしらね……」


 全く、面倒なことこの上ない。

 人目がないのをいいことに、アリーシャはがしがしと髪をかき回した。

 細くて柔らかな髪質は癖がつきやすいので面倒なのだが、正直今はどうでもいいことだ。

 はああああっ、と息を吐き出す。

 生まれ変わってしまったことはすでにどうしようもこうしようもないにしても、何でその先がこんな厄介な身の上だったのか。自分は一平民として慎ましく暮らせれば、それで充分であったというのに。

 とはいえ、ここでそんなことを嘆いていても事態が変わるわけでもない。とりあえず差し当たっての課題は、己の身の振り方をどうするのかということなのだが――。

 頭の中で幾つかの選択肢を挙げながらアリーシャが視線を宙に彷徨わせていると、木々の奥に何かが動くのが見えた。


(あれ……?)


 一瞬後、それが誰なのか気づいたアリーシャは、珍しいと首を傾げた。

 鍛え上げられた長身に、短く刈られた灰色の髪。ぴんと背筋の伸びた姿勢の良い立ち姿は数々の武勲をたてたことで知られるだけのことはある。

 名将であると同時に優れた騎士である彼の名は、ギスカール・ウィズリー。

 現国王が心から信頼を寄せる、数少ない人物の一人だ。


(どうして、わざわざこんなところに?)


 自室の周辺では使用人たちに見つかる可能性があるので、アリーシャはあえてこの裏庭を選択したわけなのだが、ここでギスカールの姿を見かけるとはあまりにも予想外だった。

 王の信任厚い彼が、こうして王宮内の裏庭を歩いていても別に問題はない。ただ、多くの木々が葉を落とし、少し寒々しくも見えるこの秋の庭に、何の用があるのだろう。

 そんなアリーシャの疑問を余所にして、ギスカールは一点を見据え、真っ直ぐに足を進めていく。


(……あ!)


 彼が向かった先に気づき、アリーシャは目を大きくした。

 ギスカールが目指していた花壇。それはひそかにアリーシャが手入れをしていたものだった。

 秋の透明な陽光の下に、白い花が咲いている。数輪だけ花開いたそれは、見る人によっては観賞用には少し物足りないと思うかもしれない。

 けれどアリーシャは、この花が一番好きだった。甘く澄んだ芳香を漂わせる花は、その可憐な姿に反して力強く咲く。

 ギスカールはその場に屈みこみ、褐色の瞳で食い入るように花を見つめている。彼はそっと指を伸ばし、白い花びらに触れる寸前でその手を止めた。

 逡巡するその背に向けて、アリーシャは言葉を掛けた。


「その花が、気になりますか?」


 庭園内に響く幼い声に、ギスカールは弾かれたような勢いでこちらを振り向いた。


「姫、君……」


 わずかに見開かれた褐色の目を見返しながら、アリーシャは静かに彼へと歩み寄る。

 予想外に姿を見せた他者の存在ゆえか、それとも現れたのが自分であったがゆえかは分からないが、ギスカールは戸惑った様子で立ち尽くしているようだった。

 小さな子供の身長では振り仰ぐ程の大きさの体躯に並び、アリーシャは話を続ける。


「こちらはレスターの花ですね。別名〈冬の便り〉とも呼ばれますが、ウィズリー将軍は御存じですか?」


 この国の貴族の爵位は公爵をはじめとし、侯爵・伯爵・子爵・男爵と続く。ウィズリー家は伯爵家で彼はその当主だ。だからウィズリー伯爵というのが正式なのだが、武人であることに重きを置く彼はウィズリー将軍と呼ばれる方を好むので、アリーシャもそちらを選んだ。


「……ええ、妻の故郷で見たときに、そう聞きました」

「奥様ですか?」


 ちょっと驚いた。確かこのレスターは、アナトールの東北のごく一部にしか自生しない筈だ。

 思いがけない発言に、アリーシャはつい顔を仰向けた。けれど、視線の先に見えた硬い面持ちに、思わず体の動きを止める。


「どうか、されたのですか?」


 どこか思い詰めたようなその表情にアリーシャがそう声を掛けると、ギスカールは少し迷った様に唇を動かしてから話しはじめた。


「図々しいことだとは承知ですが……。この花を、頂戴することは、可能でしょうか。お願いするとしたら、どなたに申し上げれば……」


 その言葉に、今度は本気で驚いた。歴戦の勇者のそれとは思えない躊躇いがちな声音だ。


「――いいわよ」


 アリーシャは静かに頷いた。

 色々と疑問は覚えたものの、この将軍のことだ。伊達や酔狂でこんなことを口にするわけがない。

 だが、逆にギスカールは懸念を抱いた様子だった。確かに、こんな五歳児の承諾に何の意味があるのかと思うだろう。

 ゆえに、アリーシャは言葉を重ねて説明した。


「心配しなくていいわ。この花壇は、私の好きな花を植えていいとお祖父様に許可を頂いたものなの。だから、私がここの花をどうしたところで誰も文句を言う者はいないわ。でも、一つ教えてもらいたいことがあるの」

「……それは何でしょうか」

「この花が欲しいのは、それは誰かに見せたいからなの?」


 大事なことなのでそこは確認した。その相手が何処の誰なのかで、これからの話が変わって来るのだ。


「……ええ、領地にいる妻に」

「そう、なら、奥様がいるのは王都ではなくてラポリスなのね?」


 思わず声が低くなってしまった。持ち運ぶ先が王都であるのと、国内でも北に位置する彼の領地なのとでは大違いだ。

 アリーシャはすぐさま踵を返し、裏庭の一画にある小さな小屋に向かった。そこに、庭作業に必要な道具が保管されているのだ。

 目的の物を見つけて花壇に戻ると、ギスカールは困惑顔で立っていた。だが、アリーシャの手にしていた植木鉢と小さなスコップに気が付くと目を丸くする。

 地面にざくりとスコップを突き立てて、アリーシャは再び口を開いた。


「それで、貴方はいつこの花を持って行くつもりなの?」


 さくさくとスコップで掬い取った土を植木鉢に運び入れながら質問するアリーシャに、ギスカールはようやく我に返ったようだった。


「ひ、姫君! お止め下さい。貴女様の手をわずらわせるようなことではございません」

「それはこちらの台詞よ。花の植え替えなんてしたことないんでしょう? 素人が口を出さないで。それより、領地に向かうのは今日? それとも明日?」

「できれば、今日これからすぐにでも……」

「分かったわ。それと、このレスターだけど、今咲いているのはすぐに花びらが落ちてしまうだろうから、こちらの蕾の方にして。元々北の土地の植物だし、多分植え変えても根付くと思うわ。それと、この花はあまり水を与え過ぎても駄目になってしまうから、移動の途中の水やりには注意してね。根元の土の表面が乾いてきたら、湿るくらいに水をあげるくらいで」


 地中の根を傷つけないよう、慎重に周囲の土を掘ってから、アリーシャはレスターをスコップで持ち上げた。

 そしてそれを、小石と土が敷き詰められた植木鉢の中へそっと下ろす。その作業を三回繰り返し、最後に空いていた隙間に土を被せると、スコップを置いた。


「こんなものかしらね」


 器の表面に付いた土を軽く払い、アリーシャは植木鉢を差し出した。この鉢は見た目こそ頑丈で重そうな素焼きの鉢だが、実はとてつもなく軽量な素材でできている。だからこんな子供の体でも持てたりするのだ。

 とはいえ、空の鉢ならまだしも中身が入っている今はそれなりに重い。早く引き取れと目線で訴えると、ギスカールは少し慌てたようにして両手を出した。

 ずしりとした重みから解放され、ほっと息を吐くアリーシャに、ギスカールが深々と頭を下げる。


「本当に、どうもありがとうございます」


 短いが、深い感謝のこもった言葉だった。

 だからアリーシャは簡単に頷くだけにとどめた。用が済んだ以上、彼がここで時間を掛ける必要はない。


「別にたいしたことはしていないわ。いいから、急いで戻りなさい」


 話はこれで終わりと言い切ると、ギスカールは再び深く一礼した。急ぐ気持ちが伝わるような、足早な靴音が徐々に遠ざかっていく。その響きを耳にしつつ、アリーシャは空を見上げた。

 先程言ったように、レスターのもう一つの呼び名は、〈冬の便り〉だ。

 その名のとおりに、もう少しで冬が訪れるだろう。

 高く澄んだ青空の向こうにその気配を感じながら、アリーシャは瞳を閉じた。

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