18疲労がたまっていたようです
外出をしてから数日が過ぎた朝。
「……セレイア様?」
アンネと向かい合って食事をしていたセレイアは、生クリーム仕立てのスープを半分ほど口にしたところで、スプーンを置いた。
「もしかして、残すんですか?どうしたんです?」
セレイアは食べることが大好きだった。
好き嫌いはないし、よっぽどの失敗作や、多過ぎ。または辛すぎたり、甘すぎたり、味が全くしなかったり。よほどおかしくない限りは、出された食事は完食していた。
そんなセレイアがテーブルの上に料理が残っている状態で手を止めたので、アンネは驚いた顔をしていた。
「何だか、昨晩から寒気がして……体が重いのよね……」
「風邪ですか?」
「最近、眠りが浅くて……そのせいかもしれないわ」
寝台に入ると考え事をしてしまい、寝つきが悪い。そのうえ、うつらうつらしていると嫌な、悪い夢を見て、目が覚めるのだ。
「お医者様を呼んでもらうように頼みましょうか?」
「いいわ。そこまで酷くはないし、休んでいたら治るでしょう。……今日は片付けを任せていいかしら」
「そんなの、いいに決まってます。そもそもセレイア様が、掃除なんてする必要ないんですよ。これからは箒なんて持たせませんから!」
「それは、駄目よ。することなくなっちゃう」
「読書したり、刺繍をしたり。貴族令嬢っぽいことをやればいいです」
「……むずかしいわね」
読書は好きでも嫌いではなかったのだが、彼と王女の噂が広まり屋敷に引き篭もっていた頃、暇つぶしによく手に取った。もともと読書家でなかったのもあって、もう今はいいかな、といった感じだ。
刺繍や編み物などは、大の苦手だった。
五年ほど前だろうか。
とある恋愛小説が切っ掛けとなり、夫や婚約者、恋人に、白いハンカチーフを贈るのが流行したことがあった。愛の証しとして、ハンカチーフのすみに、相手の好きな物を一針一針想いを込めて刺繍し、贈るのだ。
セレイアも一応はやっておこうと、ハンカチーフを買い、三日かけて刺繍をした。
刺繍の題材は何にしようか考えて、蛇にした。
ぐるぐると、とぐろを巻いた蛇だ。以前に彼から蛇の置き物を貰ったことがあったし、東方の民族の間で、蛇は悪いものから身を守ってくれるという話も聞かされていた。
魔よけ的な意味でも良いだろうと思い、刺繍をしたのだが……。
置き物の色が黒茶色だったので、黒と茶の糸で刺繍をしたのが失敗だった。
『……セレイア…………俺はこの手の冗談をどう受け止めていいのかわからない。笑えばいいのか?それとも怒った方がいいのか』
『……冗談?何が?』
『これは……排泄物だろう……冗談でなければ……この排泄物に、何か深い、重要な意味合いでもあるのか?』
せっかく、三日もかけて刺繍したものを排泄物扱いされ、セレイアは怒り狂った。しかし冷静になってよく見ると……確かに排泄物に見えなくもなかった。いや、むしろ蛇ではなく排泄物の造形に近かった。
そういうこともあって、ただでさえ下手だった刺繍からは遠ざかった。暇つぶしに挑戦したところで、疲れるだけだ。
「園芸とか習おうかしら。この離れの周りをお花でいっぱいにするの。お母様の庭みたいな感じで……あ、お母様の庭とは違って、一年中、愉しめるように、いろんな種類の花を植えるけれどね。そうね……ああ、家庭菜園もいいわね。野菜を植えて、収穫して食べるって素敵だわ。ディルク様に許可を貰わないといけないけれど、許してくれるかしら」
「……セレイア様。現実逃避っぽいですよ……今日は、もういいですから、寝台に入って、休んでください。あとで果物とか、食べやすいもの貰って、持って行きますから」
セレイアはアンネに私室へと追いやられた。
「何か欲しいもの、ありますか?」
セレイアが寝台に横たわると、アンネが見下ろし、訊いてくる。
セレイアは少しだけ考え、ないわ、と答えた。
しばらくしてアンネが出て行くと、セレイアは起き上がり、寝台の脇に置いてある棚の引出しを開けた。
中には排泄物……ではなく蛇の置き物がある。
セレイアは置き物を取り出し、掌の上に乗せた。
悪いものから身を守ってくれるという蛇の言い伝えが本当ならば、彼にこれを返しておくのだったと思う。
セレイアの下手糞な刺繍付きのハンカチーフは、あげるあげない、と言い合い――セレイアが一人で怒っていただけだけれども――した結果、彼が持ち帰った。
五年も前のことだ。もう捨てているかも知れないし、あんなものにご利益があるとも思えない。
急に背中から首にかけて重くなる。疲労感のようなものが襲ってきて、起き上がっていることが辛くなったセレイアは蛇の置き物を持ったまま、寝台に寝転んだ。
横たわっていると少し楽になる。
整えるように息を吐き、目を閉じた。
熱が出てきたのかもしれない。頬が熱く火照ってくる。
セレイアは蛇の置き物を両手で包んだ。別にそれで体調が改善するわけではないけれど、嫌な、怖い夢を見たくなくて、セレイアはぎゅうと置き物を握り込んだ。
◇
「……セレイア様。セレイア様」
「熱がある。屋敷に運ぶ」
「ちょっと!何するんです!セレイア様に軽々しく触れないでください!」
「邪魔をするな。医者は先ほど呼んだが、屋敷で看た方がよい。お前も着替えなど入り用のものを持って、屋敷に来るのだ」
アンネの騒がしい声と、聞きなれない低い声がする。
誰の声だろうと訝しんでいると、重く痛む体が浮く。
セレイアの脱力した掌から、コトンと。シーツの上に蛇の置き物が転がり落ちた――。




