ささやかな思い出と愛と平穏
Pさんって誰よ!
ボーイは東地宏樹派(敬称略)
王都ハジェ・マリアの東壁の辺に勇者リノの足跡を記念した庭園がある。シャルロンド王が若木を選び、騎士団の手によって植えられた木々に囲まれて彼女の彫像が静かに佇む場所だ。
王は月に何度かこの庭園に一人、何処へ去ったともしれぬ友を懐かしむために訪れる。そう国民は知らされているが、実際には事の次第を知る者たちで情報を共有する会合を開くためだ。
そしてアーランド王太子襲撃事件から3日、この場に本人がやってきた
「良くできてるわね、だけど美化してくれるのならもう少しバストを大きくしてくれても良いんじゃない?ローディ」
この日は国民に偽りなく一人で物思いにふけるつもりだったシャルロンドは思ってもない賓客に驚いた。
「リノ!忍び込んできたのか。サンドラ総長に言っておいてくれればもう少しめかしこんだのに・・・のだぞ」
「やっぱりヒゲは似合わないわよ」
リノは気を抜くと少年のような口ぶりになってしまう王の口ひげを軽く引っ張った。
「ドロシーには姪としての頼みごとしかしないわ、啖呵も切っちゃったし。年頃の女学生が王様なんかに会いたがる?」
「君・・・そなたにはそうであってほしい」「嫌よこの国の王様が少女趣味なんて」「もうよそう、立ち直れなくなりそうだ」
わかっていても年の差を感じてしまうのはやはり辛かった、シャルロンドは気を取り直してリノに言わねばならぬことを切り出した。
「この国に潜む継戦派の情報を流そうとしたサンドラの申し出を断ったそうだな」
それはリノが遠目でしか見たことのなかった王の顔だった。
「ええ、私のためにあの子に危ない橋は渡らせたくはなかったの」
それはシャルロンドが20年前まで目に焼き付け続けた英雄の顔だった
そのうち会えるとは思っていだがと前置きするとシャルロンド王は紙束を取り出した、継戦派の情報を書きつけたものだろう。
「さて・・・どう頼めばそなたはこれを受け取る」
リノは差し出された紙束の端に手をかけた
「お命じください、シャルドンド・ド・フルマルス陛下。王として、私にこの国を守れと。」
「リノ・ミラダティグレ、友として請い願う。皆を守るため力を貸してほしい」
シャルロンドが手を放しても紙束が地に落ちることはなく、リノの懐にそれは収まった。
「〝皆〟には私も入ってるってわけね。任せて、全国民を守ろうっていうのだから、一人増えたくらいどうってこと無いわよ」
「余も入っておるぞ」
「あなたは自分でなんとかしてよ、王様でしょ」
リノが公園を入ったときと同じように音もなく抜け出すと、程なくワイズセル家本家の紋を入れた馬車が滑り込んできた
「ベンジャミン、今日は本物かしら?」「ええ、ご領主様は後ろに」
馬車の中のグラントは見慣れた仏頂面だった。
「ローディは拗ねてなかったか?」「随分と大人になったみたいだわ、小娘一人絆すのは訳無いって感じね」
リノはシャルロンドから託された資料をとりだす、受け取ったグラントは最初の数枚に軽く目を通す。
「最初の何枚かは学生向けの文具店の売上表だな」
「流石!私は読んでもさっぱりだったのに」「そのための教養科だ」
リノは痛いところを突かれて思わず目が泳ぐ。
「口うるさい父親の真似事だけで友達を文机に縛り付けたりはせん」
グラントが続きを読みはじめると馬車も動き始めた。
「なるほど、金の流れが妙だ。羊皮紙に見せかけて麻の漉き紙に大金が支払われている。こちらの鞄職人の工房は聞かない名だ、おそらく実在はしないだろう。この店は継戦派の隠し拠点といったところだな。もう少し読み込めばはっきりするだろうが、お前を当てにして用意された資料ならこの店はオーシェルの出入り業者だろう」「ドロシーが拗ねちゃうんじゃない?」
結局シャルロンドはうまく建前を用意できたというだけのこと、サンドラと思うところは同じというわけだ。
「まぁ、寝起きの私にはちょうどいいか」
リノは書類読みをすっかりグラントに任せて座席に長々と寝そべる
「二度寝か?」「ええ、昨日ベルとチェスで盛り上がっちゃって、あのコ強いのよ。じゃあおやすみ」リノは目を閉じてそれ以上のやり取りを拒否した、グラントは諦めのため息を付くと書類に専念することにした。
その日の深夜、リノは件の学用品店の近くの路地にいた。グラントがあの後〝顧客名簿〟と表題した書類に「商談中」と書かれたオーシェルの生徒の名前を見つけたのだが、何しろ取引品が酒だのタバコだのと似つかわしくない。そこで取り急ぎ調査に向かうことにしたのだ。
「さて、最も警戒すべきは学校の補導員ね」
そんな訳はないのだが、見咎められた場合説明することが多すぎる。
「私ってばシャイガールだから、問い詰められたら困っちゃうもの」
窓のひさし、バルコニー、梁の突き出し、レンガの隙間、器用に伝って屋根まで登ると、店の天窓から中の明かりが漏れていた。
「さて、悪巧みの最中なら良いのだけど。さもなくば細マッチョのイケメンがパンツ一丁で演舞でもしてないかしら」
明かりの元は魔術の光であった。如何にもなフードの人物が杖をかざして、怪しげな光を何人かの少年少女に見せていた。やはりオーシェルの生徒らしく何人かは制服のままだった、そしてあるものは長い耳、あるものは短躯ながら力強い手足、獣の尾、青い肌――
「ナ・ウフレド魔王国からの移住者の子どもや留学生・・・」
杖の光が弱まる、リノは月明かりが影を落とさないように頭を引っ込めた。戸を開け閉めする音がして気配が去る
「恐怖文学だとこっちを見上げてるところよね」リノが再び天窓から覗き込むとフードの魔術師は立ち去って、少年たちが変わらず立ち尽くしていた「面白い驚き方を考えてたのだけど、残念ね」天窓を音もなくこじ開け、そのまま静かに中に降りる。部屋は屋根裏部屋で物置のようだった。
中に入って気付いたのは、少年たちがひどく虚ろな目をしていたことだ。
「何かの精神魔法をかけていたみたいね」幸いにも夜目は効く、一人ひとりの顔を覗き込んでいると見慣れた顔があった。
「カタリナ・・・」騎士科の学生でリノの以前からの友人の一人、思わず顔に手を伸ばすと丸耳がポトリと落ちる。膠を練った作り物の下には指二つほどの幅でスッパリと切り落とされた長耳が現れた。
「兜の氏族ね・・・」エルフの氏族には兜を被るために耳を切り落とす者たちがいる。彼らはエルフの中でも指折りの戦士の一族で、カタリナの人となりを考えれば意外ではないが「どうして今まで隠してたのかしら」
国同士でこそ友好を結ぶことに利益を見出したに過ぎないが、何しろ国王シャルロンドと魔王カルベルは共に両国を救うための旅をし同じ火を囲んだ仲だ。ただ市井に暮らすならともかくシャルロンド王の意向の届くオーシェルのような場所であれば、魔王国の出身であることを隠しても面倒なばかりで利益はない。
「教えてやってもいいが・・・」その声が耳に届く前に、リノには鋼の擦れる音が聞こえていた。突き出されたのは鎧通しの短剣、組打ちに用いる止め刺しの剣だが切っ先以外は刃がついておらず身に着けられる場所が多いので暗器にも使われる。
対処は単純である、リノは刃を掴んで止めた。そしてそのまま折り曲げてしまう
「冥土の土産ならもう少し華のあるものを貰える?カタリナ」
リノは短剣を掴んだら引き寄せて組み伏せるつもりだったが、剣の主―カタリナはあっさり手を離した。実戦慣れしていないはずの学生の動きではなかった。
「ここで死ぬならと思ったがそうもいきそうにないな。エリノラ・ワイズセイル、お前もただの貴族の箱入り娘というわけではなさそうだ、違うか?」
「私も似たようなことを聞きたかったのだけど、せーので教え合わない?」この場のカタリナの〝役割〟はおそらく監視、万が一洗脳が解けたときのために同じく洗脳が解けたふりをして拘束する手順なのだろう。あとはそんなことをやっている事情を聞きたいところではあったが・・・
カタリナは少しずつ距離を開けると、壁伝いにクローゼットまで行きその影から剣を引き抜いた。
「出よう、腑抜けどもとはいえ巻き添えで殺したくはない」「怖いわねー、さっきから死ぬとか殺すとか、もっと上品な言い方はないの?張っ倒すとかしばき回すとか」
リノは予備動作もなく開いた距離を詰めて手刀を打ち込む、カタリナは剣を切り返す動きで容赦なくその腕を払い除けた。リノのシャツとジャケットが裂けて仕込んだ手甲が火花を散らす。
「用意が良いな」「アナタもね」
体勢が整いきる前にリノは蹴りを繰り出す、カタリナは敢えて受けて後ろに飛んだ。そのまま壁を破って隣の部屋に移る。
「やっちゃったわね、敷金返ってこないわよ」
フードの人物は何処にいったのか、この物音を聞きつけた気配はない。しかしリノ達に探りを入れられていることを察するのは防げないだろう。リノも瓦礫を踏み越えてカタリナを追う、カタリナはその隙を狙わなかった。同胞を巻き添えにしたくないと言うのは心の底からの言葉なのだろう。
「カタリナ、あなたには一緒に来てもらうわ、それとここにいる全員ね」土埃が収まると剣を構えたカタリナが星あかりに浮かび上がった
「だったら剣を抜け、リノ・ミラダティグレ」
何もかもバレていては仕方ない、カタリナは失言だった。リノの命に直結したティグレバストーレは威力自在、体を傷つけずに気を失わせることなどわけなかった。
つまりリノは撃った。
「率直に聞くわね、あなたは記憶を弄られてるんじゃない?」
翌日の夕刻、拐かされていた生徒たちを騎士団の運営する医院に送り届けたリノは、目を覚ましたカタリナを椅子に縛り付けて聞き取りを始めた。
「家族を誰か殺されてない?手をかけたのは王国の人間といったところかしら」
捕まった生徒たちは皆忘却の魔法の「しこみ」が施されていたという、幸いにも極めて初期段階のため適切に解呪すれば失うものは出席日数だけだと言う話だった。
カタリナは顔を背けて会話を拒否していたが、グラントがその前に机を持ってきて、リノが一幅の書簡をその上に広げた。
「知ってると思うけど魔王国の偉い人に伝手があってね、調べてもらったら10年前に行方不明になった兜の氏族の娘がいるらしいわ・・・一人娘で両親は今も健在」「嘘だ!いや、両親を貴様らの手にかけられた私と何の関係がある!!」
思わずカタリナは否定した、彼女自身違和感を覚えていたのだ。
「ここに写し取ってあるのがその家に伝来する紋様、一族の成人の儀として耳を切り落としたときに焼印にして血止めに使うそうよ。あなたの耳にも同じものが残っている。」
カタリナは答えない、だがその胸中の違和感はさらに膨らんだようだった。
「君が継戦派の手先として何をしてきたのか、王国はあえて不問とするそうだ」グラントが交代した「これから君はナ・ウフレド魔王国へ送還され、忘却魔法の解呪を施された後、ご両親と対面させられる。偽りの記憶との齟齬は君の行いへの罰としては過分な苦しみとなるだろうと言うことだ」
「書き換えられた記憶を消すことはできないのか」
カタリナが口を開いた
「手段が無いわけではないが、10年分の記憶を消せば君の心が魂もろとも壊れる可能性が高い。だからこそ検討されはしたがな」「生きて苦しめと?」
そういう理屈でなければ納得しない者はいただろう、しかしリノの見立ては違う
「死に安寧を求めるなかれ、死に誉れを見出すなかれ、生き恥を恐るることこそ最も恥と知れ」
それは多くが俊敏を最良とするエルフ氏族たちの中にあって、重い鎧を身に纏うことを良しとした兜の氏族のモットーだった
「ルル・・・カルベル五世陛下が教えてくれたわ、私とは追試友達でもあるあなたが覚えているかどうかは知らないけれど」「そうだな、この耳の謂れも知らなかった私が覚えているはずも無かろう・・・だが」思えば舌を噛み切ってしまうこともできた、しかしそれは彼女の中の何かが許さなかった。
「私の名前は本当の名なのか?違うのなら教えてほしい」
「タリア・カカリンド、何を背負っても生き延びる戦士の名よ」
数日後、カタリナ、いやタリアの送還は極秘裏に行われた。病にかかりひどく悪化したので故郷に静養することになったとカタリナを知るものには伝えられた。
一方、件の学用品店。時は遡りリノが忍び込んだ日の翌朝、店主は慌ただしくしていた。無理もない、時が来ればフルマルス王国の民に再び魔王国への憎悪を植え付けるための、様々な凶行に手を染めさせるべく捕らえた魔王国出身者たちがごっそりと消えていたのだ。
時間はない、次に何か起きるとすれば彼自身に降りかかる災いであることは、よほどの愚鈍でなければわかることだろう。そして誰がその災いをもたらすか、それも見当がついていた。
「何処へ行く?」
低い男の声がした、店主のものではない。それは生徒たちに洗脳魔法をかけていたフードの人物の声だった。
青ざめた店主の顔がゆっくりと声の方に向く「ま、マルーン卿・・・」それがフードの人物の名前である。
「人手不足は嫌なものだな、魔術の心得があるというだけで私のような衛生係まで駆り出される」「今日は本業で来たのか?」朝日に晒されたマルーン卿の腕がギラリと光る、その腕は黄金の鱗で覆われていた。
「そうだ、賢いゴミだなお前は」
金の指から伸びた長い水晶の鉤爪が店主の顔面を掴み、そしてそのまま切り裂いた
ドレイク・マルーン子爵、継戦派の中枢に属する殺し屋。全身を竜の骨や鱗で強化した竜装兵だが元の種族は不明、彼の代名詞は水晶龍の鉤爪を研ぎ上げて移植した右腕である。いくつかの幻惑系の魔法と転移魔法を駆使して、組織の敵味方を問わず多くの命をその鉤爪にかけてきた。
マルーン卿は文具店の店主の亡骸をそのままにして、まず彼の荷物や店舗内の文書を探った。荷物の中身は逃走資金なのか金目の物ばかり、そして店の書類はいくつか抜けがあった。
「・・・見立て違いか、間抜けめ」この店に探りが入ったのが昨日今日の話ではない事にマルーン卿は気付いた。「店主は証拠隠滅もそこそこに蒸発、そう思わせたほうが無難か」水晶の爪を振ると転移魔法が発動し、店主の亡骸はそこに飲み込まれて消えていった。
「この都では勝手にゴミを捨てると罪に問われるらしいな、ククク・・・まぁ良かろう、人殺しに比べれば些細なことだ」続いて自分自身も転移魔法にかけて消えた。
「以上が清掃活動の報告だ」「ご苦労、マルーン卿」数日後、ハジェ・マリアを遠くに見る丘の廃屋で、継戦派の貴族とマルーン卿が過日の店主殺しについて会合していた。相変わらずマルーン卿はフードを目深に被り、時折水晶の爪でグラスを口に運び陶器の唇を酒で洗っていた。
「嫌味で出したつもりでは無かったが、しかし飲めるのか?」貴族は自分のグラスに酒を注ぎながら、率直な疑問を口にした
大気の魔力を取り込んで生きる竜の組織を体に埋め込んでいる竜装兵は通常の食事を摂る必要はない。舌や胃の腑を残し娯楽として食事する者も多いが、顔面さえも冷え切った釉薬に均された作り物に過ぎないマルーン卿はただ酒の香りを嗅ぐばかりだった。
「確認作業のようなものさ、まだ私が生きた人間であるという、な」満足したのかグラスを傾けて中身を大地に返すと、マルーン卿は立ち上がった。
「良ければ送ろう、来客があるようだ」
「・・・気づかれたかしら」タリアの置土産で継戦派の会合場所と日時を知ったリノはグラントとともに、廃屋から少し離れた茂みに伏せていた。
「そのようだ」グラントが言い終わらない内に、ドアが勢いよく開いて豪奢な装いの小男があらわれた。マルーン卿と会合していた貴族である。
「出てこい!時代遅れの寝ぼけた小娘め!!私が返り討ちにしてくれる!」剣を振り回し喚き散らす。
「言ってくれちゃって・・・そのマントの留め緒、去年の流行りよ!」リノは立ち上がって言い返す。
「そこか!まぬけ!!」小男は隠し持っていた短銃を抜くと撃った。「バカ!」グラントがリノの襟首を掴んで座らせると後ろの木に弾丸がめり込んだ。
「この距離なら当たったって死んだりしないわよ」なんならもっと至近距離で撃たれたり刺されたり切られたりしてきたのだ、それを知らないグラントではないが「俺の寿命が縮むんだ!」心配性の伯父様がすっかり板についてしまったのだ。
「知らないわよ、まったくもうお尻が四つになる方が一大事でしょ・・・」貴族の銃の腕は上々のようだった。生け捕りにするには射程内に飛び込んだ上で、再装填が済むまで拳骨の届く距離までたどり着かないといけない。リノは駆け出した、グラントが援護のために半弓を引く。
「顔を見られた以上死んでもらうぞ!!」貴族は装填も早かった、しかしその指が引き金を引くことはなかった。短銃が地面に落ちる、はずみで撃鉄が火蓋を弾くが足元の血溜まりに沈んだ口火は燃え上がることはなかった。
「無闇に顔を晒す間抜けには口封じが必要だと思わないか?」マルーン卿が水晶の爪を背中に突き立て、その切っ先は胸から飛び出して血に濡れていた。
リノは思わぬことに足を止めて剣を抜いた、貴族は背後に恨みがましい眼を向けた。
「私に言えたことかだと?構わないさ、もう顔見知りだ。」
「ドレイク・マルーン!」リノが左腕から魔法を放つ、マルーン卿は躱さなかった。ディグレバストーレが直撃し、直立したまま燃え上がった。
「黄金竜の鱗は魔力の指向を歪める、何度このやり取りをしたかな?」フードが焼け落ちて全身が顕わになる、その姿は――
「相変わらす悪趣味ね・・・」金と陶器で出来た少女像といったところだろうか「不快にさせて申し訳ない、見た目に金をかける趣味がなくてな」低い男の声色だけが気味の悪い不協和音を響かせる。「案外乙女の形の方が手垢の付いていない物が安く出回っているものなのだよ」じゃあ何の形なら―リノはそう聞きかけて止めにした、聞いたらトラウマになりそうだ。
「前は弩級の射線におびき寄せられてしまったが」今日はそんな都合の良いものはない「時間をくれたら振り子杭を作るけど?」「遠慮しておこう」リノが少しずつ距離を詰めている間にグラントが半弓を放ったが、金の鱗にわけもなく阻まれた。
「そんな距離からそんな短い矢が効くものか」マルーン卿の注意がグラントに逸れる「じゃあ剣はどうかしら」その隙を付いてリノが打ち込む、マルーン卿の胸から鱗が弾け飛んだ。
「ッ!」手応えは固い、鋼の鎧でもこれほどでは無い。「相変わらず対した太刀筋だな、並の者なら剣を駄目にしてしまうところだぞ」「ムカつくわね、ちょっとは痛そうな顔くらいしなさいっての!」自分の剣がわずかに刃毀れした感触が忌々しい、嫌味な奴め!
グラントが援護射撃を継続する、有効打にはならないがマルーン卿の苛立ちを募らせられれば十分だ、しかし「あちらも変わらず鬱陶しい男だ」マルーン卿が水晶の爪を振る。地面にあらわれた転移魔法のサークルは二つ「デートは申し込まれてないけど」「まぁ分断作戦というやつだ、付き合ってもらうぞ」「だから嫌だって言って――」
リノが言い終わる前に、何処かの崖際に飛ばされた。
「先月お芝居で見たわよ、殺人犯がこういうところで探偵に追い詰められるの」リノの金髪が風で渦巻く。「火山にでも落としてやれば楽なのだが、地脈を使った転移魔法なのでね」激しい風だがマルーン卿の作り物の髪はわずかに揺れるだけだ「良いわねそれ、セットの仕方教えてくれる?」崖下から波の砕ける音が聞こえたが風に潮の香りは混じっていない、下は湖だろうか。
「君を仕留めたら頭の皮でもいただこう、地毛の鬱陶しさというものをしばらく味わっていない」マルーン卿が右腕を構えた「残りの部分は打ち捨てておこう、王都からはほど近い。腐る前に誰かに見つけて貰えるさ」
リノも剣を構えた「困ったわね、か弱い女性に一人で歩いて帰れっていうの?」負けるつもりは毛頭ない、明日は騎士科の小試験だってあるのだ。
「まぁアナタほどの殺し屋ならちょっとぐらい怪我しちゃうかもね?」「ククク急にどうした」「いやちょっとね」マルーン卿の右腕が急に伸びた、手首から先が外れて飛んだのだ。リノはどうにか躱すが、鎖につながった水晶の爪は波打つように行き戻り何度も襲いかかる、その内に崖の端まで追い詰められてしまった。
「ちょっとちょっと、下に落としたら頭の皮は剥げないわよ?」鎖を踏みつけて動きを封じると、綱渡りのように駆け寄って剣を打ち込む。また弾かれるが、立ち位置を入れ替えて崖から遠ざかることが出来た。
「あの伯爵殿の相手もしなければならないからな」鎖が右腕にあっという間に吸い込まれ、元に戻った爪がリノに襲いかかる。剣で受けるには間合いが近すぎる、剣を握ったまま金の手が開いたところに拳骨を打ち込んで止める。トラバサミのように爪が閉じるが、鍔と柄尻が邪魔をしてリノの手首に届くことはない。
「賢い手だ」「足もあるわよ」爪から手を引き抜くと足払いを仕掛ける、だが
「痛ったい!何で出来てるのよ」思わず膝を抱えて飛び下がる。マルーン卿の脚はびくともしなかった「龍の骨、鱗、それから土くれと釉薬、一欠片の人肉」金の蹴爪がゆっくりと歩み寄る、リノが腹に突きを入れるがまるで堪える様子はない。
「そろそろ手が無いんじゃないか?」「まだ両方揃ってるけど?」「手も口も減らんな」リノの乱れ打ちを掻い潜ってマルーン卿が爪を突き込む、右肩を掠っただけだがジャケットが裂け血が吹き出した。手傷を負わされ回避が鈍る、今度は左腕にフェイントを入れてから脇腹、致命傷だけは避けられるギリギリのところに打ち込んでくる。弄ばれている
「ダンスは得意だったかな?」「イケメンとならね」このままではいずれ血を失って立つこともままならなくなるだろう、だがリノにはまだ手が残っていた。両の腕とティグレバストーレ、左手の刻印魔法にはもう一つ使い方がある、生命力を魔力に変換せずに直接打ち込む事もできるのだ。ただし純然な破壊エネルギーは黄金竜の鱗に逸らされることはないが、どれだけの力を絞り出してもまつげほどの距離も進まない内に雲散する欠点がある。それを補うには
「これが奥の手よ・・・!」
リノは左手を握りしめて、マルーン卿の胸に叩き込んだ。渾身の一撃は竜の鱗を砕き、胴を貫通して背中まで拳を突き通した。
振り上げた水晶の爪がそのまま力なく垂れ下がる、リノの腕を引き抜いたマルーン卿はよろめきながら後ずさり
「ク、クク・・・大した手だ」そして崖下に消えた。
ドレイク・マルーンを倒したリノだったがその後も命がけだった、命がけで近くの農家を探し、命がけでロバを一頭借り受け、命がけでそのロバにまたがって元の廃屋まで戻ってきた。グラントは腕組みをして丘の上に立ってただ待っていた、リノの生還を塵ほども疑うことなく。
そして血だらけの泥まみれのリノを見つけると、駆け寄って強く抱きしめた。「馬鹿者・・・またこんなに傷だらけになって」「今月に入って二度目よ、親友に絞め殺されそうになるのは」
勇者は帰還した




