第1話 隣の席でもないのに、なんでそんなに近いんだ
新学期というものは、どうしてこうも人を浮つかせるのだろう。
廊下にはまだ固い新品の上履きがこすれる音が響き、教室の中には、昨年度のクラス替えで泣いたとか笑ったとかいう噂が、春の風に乗るみたいにふわふわ漂っていた。窓の外では桜がまだ少し残っていて、校庭の端の方を薄い桃色で染めている。
そんな景色を横目に、白石透は静かに席へ座り、心の中でだけ深く息を吐いた。
今年こそは、平穏に。
それが透の、ささやかで切実な目標だった。
別に去年、何か大きなトラブルがあったわけじゃない。目立つ失敗をしたわけでも、黒歴史を量産したわけでもない。ただ、教室の中心で騒ぐようなタイプではない透にとって、新学期の「新しい関係を築きましょう」みたいな空気は、それだけで少し疲れるのだ。
だからこそ、今年はほどほどに。友達はちゃんといて、でも変に目立たず、できれば穏やかに一学期を終えたい。
そう思っていたのに。
「白石」
朝一番、教室に入って鞄を机の横に掛けた瞬間、背後から自分の名字を呼ばれて、透は肩を揺らした。
「……え」
振り返る。
そこで一瞬、教室の空気が変わった気がした。
いや、正確には、変わったのは透の方だけだったのかもしれない。
そこにいたのは、榊原玲央だった。
同じ学年で、知らない人の方が少ない。成績がいいとか、顔がいいとか、運動ができるとか、そういう噂がまとめて人型になったみたいな男子。しかも、やたらと目立つくせに本人はそれを気にしていない感じが、なおさらずるい。
黒髪は寝癖一つなく整っていて、ブレザーの着方まで妙にきちんとしている。なのに堅苦しさはなくて、ただ自然に様になる。教室の後ろで女子が小さく何か囁いたのが聞こえた。たぶん、榊原がこっちに来たからだ。
どうしてその本人が、よりによって自分の机の前に立っているのか。
「今年も同じクラスなんだな」
玲央はそんな周囲の視線なんてまるで存在しないみたいに、静かな声で言った。
「……あ、うん。そう、だね」
透の返事は、我ながら少し情けない。
去年、同じ学年だったから顔くらいは知っている。知っているどころか、同じ校舎にいる以上、榊原玲央という存在を見ない日はなかった。でも、話した回数なんて片手で足りるはずだ。
いや、足りるどころか、両手でも余るかもしれない。
「春休み、課題終わった?」
玲央が続ける。
あまりにも普通の、雑談の入り方だった。
「終わったけど……」
「数学、最後のページ面倒じゃなかった?」
「え、あ、あそこ? 面倒だった」
「やっぱり」
玲央がほんの少し口元を緩める。
それだけで教室の温度が一度上がった気がして、透は意味もなく自分の机の端を指先でなぞった。
なんだこれ。
なんで榊原が、普通に話してくるんだ。
しかも、何というか——近い。
別に顔が数センチの距離にあるとか、そういう意味じゃない。ただ、会話の入り方に妙な遠慮のなさがある。気安い、というほど砕けてはいないのに、最初からそこそこ親しい相手に向けるみたいな温度だ。
透が返答に困っている間に、玲央は透の机の上に置いてあった筆箱を見て、「それ新しくした?」とまで聞いてきた。
「え、ああ……うん」
「前、紺だったよな」
「……よく覚えてるね」
思わずそのまま口に出してしまった。
すると玲央は一瞬だけまばたきをして、それから当たり前みたいな顔で言った。
「見れば分かるだろ」
その返し方は少しそっけないのに、内容は全然そっけなくない。
見れば分かる、で済ませるには、去年の筆箱の色まで覚えているのは変じゃないだろうか。
透が言葉を失っていると、ちょうど担任が教室に入ってきた。玲央は「じゃあまた」とだけ言って、自分の席へ戻っていく。
その背中が遠ざかるのを見送りながら、透は自分の鼓動が妙に速いことに気づいた。
いや、違う。別に変な意味ではない。ただ、予想外すぎただけだ。
そう、自分に言い聞かせる。
だって榊原玲央だ。女子に騒がれて、男子からも一目置かれて、でも本人は特別誰かと群れるわけでもない、あの榊原だ。その彼が、何の前触れもなく話しかけてきたら、そりゃ多少はびっくりもする。
ただ、それだけ。
それだけのはずなのに。
「白石、おまえ榊原と仲良かったっけ?」
一時間目の休み時間、斜め前の席から身を乗り出してきたのは水城直だった。去年も同じクラスだった気安い友人で、こういう変化を嗅ぎつけるのが異様に早い。
「いや、別に」
「今めっちゃ普通に喋ってたじゃん」
「普通に喋ってただけだろ」
「いやあ、榊原があの感じで行くの珍しくない?」
直は面白そうに目を細める。
透は反射的に否定しようとして、それをやめた。強く否定すると、逆に意識しているみたいで嫌だったからだ。
「たまたまだって」
「ふーん」
その「ふーん」は絶対に納得していない声だった。
透が露骨に嫌そうな顔をすると、直は肩をすくめて笑う。
「まあいいけど。なんか朝から女子ざわついてたぞ」
「やめてくれ」
「だって実際目立つし。榊原、ああいうの自分からあんまり行かないじゃん」
その言い方に、透は少しだけ引っかかった。
自分からあまり行かない。
確かにそうだ。玲央は誰に対しても感じが悪いわけじゃない。必要な会話はきちんとする。でも、自分から距離を詰めていくタイプには見えない。
なのに、今朝は——。
「白石」
また、後ろから呼ばれた。
今日はやけにその声を聞く日だ。
振り向けば、やっぱり玲央が立っていた。今度は透の机の横。しかも、さっきより自然な顔で。
「次の英語、ノート出すんだっけ」
「え?」
「宿題のとこ」
「あ、たしか……出す、はず」
透が答えると、玲央は「そっか」と頷いた。そのまま離れるのかと思いきや、透の机に軽く手をついて、教科書の端を見やる。
「白石、字きれいだよな」
「……は?」
なんでそんなことまで知っているんだ。
「前、プリント回ってきたとき見えた」
「見てたの?」
「見える位置だっただけ」
またその言い方だ。
淡々としているのに、内容だけ聞くとかなり変だ。
透が何も返せずにいるうちに、チャイムが鳴った。玲央は手を離し、今度こそ自席へ戻っていく。すれ違いざま、直がにやにやしながら「何それ」と口パクしたのが見えて、透は机に突っ伏したくなった。
昼休みになっても、朝の違和感は消えなかった。
購買で買ってきた焼きそばパンと牛乳を持って自分の席へ戻る。教室のあちこちで机を寄せる音がして、グループごとに昼食の輪ができはじめる。透も直と適当に食べるかと思っていたら、その直が開口一番こう言った。
「今日は観察しようぜ」
「何を」
「榊原がおまえんとこ来るかどうか」
「来ないだろ」
「朝だけで二回だぞ?」
来ない。たぶん来ない。そんなことがあってたまるか。
透はそう思いながら焼きそばパンの袋を開けた。半分ほど食べたところで、「白石、それ好きなの?」とまた横から声が降ってくる。
心臓が、変な跳ね方をした。
見上げると、玲央が立っていた。
今度は手に紙パックのコーヒー牛乳を持っている。
「……焼きそばパンのこと?」
「うん」
「まあ、好きだけど」
「購買でよく買ってるよな」
「え?」
今日何回目だろう、この「え?」は。
玲央は透の返事を待たずに、空いていた隣の席を少し引いた。そして本当に当然みたいな顔で、そこに座る。
直が、露骨に目を輝かせた。
「榊原くん、珍しいね」
「そう?」
「白石の隣座るの」
「空いてたから」
あまりにもさらりと言う。
だが、その空いてたから理論で座る相手が、どうして自分なんだ。
透は牛乳のストローをくわえたまま言葉を失った。玲央はそんな透を横目でちらっと見て、「それ、こぼすなよ」とだけ言う。
「……こぼさないけど」
「ならいい」
短いやり取り。なのに、直は完全に面白がっているし、近くの席の女子がまたちらちらこちらを見ている。
落ち着かない。
物理的に距離が近いだけじゃなく、玲央は透の食べかけのパンを見て「それうまい?」だの、「今日の購買混んでた?」だの、どうでもいいようでいて無視しづらい話を振ってくる。
しかもそれが、一問一答で終わらない。
ちゃんと返事を待って、短くても会話として成立させてくるのだ。
「おまえら最近仲いいの?」
とうとう直が、笑いを堪えきれなくなった声でそう言った。
透は思い切りむせた。
「げほっ、な、何言って」
「だってさっきから——」
「別に」
「別に、ねえ」
直が言いかけたところで、玲央がその会話を引き取るみたいに言った。
「白石、牛乳」
「え」
「口元」
透は反射的に自分の口元を押さえた。何もついていない。ほんの一瞬、からかわれたのだと気づく。直が吹き出す。
「何それ、榊原おまえ」
「何」
「いや、何って……」
玲央は本気で分かっていなさそうな顔をしていた。
透だけが、無駄にどきどきしている。
昼休みの終わりが近づいて、玲央はようやく席を立った。立ち上がる前に、「白石、次移動だっけ」と聞いてくる。
「理科室だから移動」
「じゃあ先行ってて。あとで行く」
「……うん」
どうしてそんな会話をしているのか、自分でも分からない。
分からないまま、その日の授業は過ぎていった。
そして放課後。
掃除当番は昨日までの名簿の関係で今日は免除。直は部活の先輩に呼ばれてさっさといなくなり、透も帰ろうとしたところで、机の中に入れっぱなしだった現代文のノートを思い出した。
「うわ、忘れた」
提出は明日だ。家に持ち帰らないと困る。
面倒だなと思いながら、昇降口まで下りた足を引き返す。放課後の校舎は、日中のざわめきが少しずつ消えていく時間帯の独特な静けさに包まれていた。窓から差し込む西日が廊下を長く照らし、床に伸びた影がやけに濃い。
教室の前まで来て、透は足を止めた。
中に、人がいたからだ。
夕方の光を背にして窓際に立っていたのは、玲央だった。
まだ帰っていなかったらしい。ブレザーの袖を少しまくって、手元のプリントか何かを見ている。その横顔は朝や昼よりさらに静かで、教室の薄い橙色の空気に妙に馴染んでいた。
透が戸口で立ち尽くしていると、玲央が顔を上げる。
「……白石」
「あ、ごめん。まだいたんだ」
「そっちこそ」
「ノート忘れて」
それだけ言って、自分の席へ向かう。
教室には他に誰もいない。机を引く音が、妙に大きく響いた。
透は目的のノートを見つけて鞄に入れようとしたが、さっきから背中に視線を感じて落ち着かない。気のせいではなく、本当に玲央がこちらを見ているのだと分かる。
なんだろう。
また何か言うのだろうか。
だが玲央はすぐには何も言わなかった。
ただ数秒、じっと見ていた。
その沈黙に耐えきれなくなって、透が振り返る。
「……なに?」
西日が差し込む教室の中で、玲央は少しだけ目を細めた。
「白石ってさ」
「うん」
「結構、無防備だよな」
一瞬、意味が分からなかった。
「……は?」
「いや」
玲央はそこで言葉を切る。言い過ぎたと思ったのかもしれない。あるいは、言うつもりだったことを飲み込んだのか。
だが、飲み込まれた方の言葉の気配だけが、確かに残った。
「なんでもない」
なんでもない、という声音ではなかった。
透はノートを持ったまま、その場で固まる。
「いや、なんでもなくないだろ」
「そう?」
「そうだよ。急に何」
「……別に。気をつけろってだけ」
「何を?」
「色々」
曖昧すぎる。
けれど、その曖昧さのくせに、玲央の目は妙に真剣だった。
透は言い返す言葉を探した。しかし何をどう返せばいいのか分からない。無防備ってなんだ。自分が何に対してどう無防備だというのか。
玲央はそれ以上説明しなかった。プリントを机に置き、鞄を肩に掛ける。
「帰る?」
「……帰るけど」
「じゃあ、気をつけて」
それだけ言って、玲央は透の横を通り過ぎた。
すれ違う瞬間、柔らかい石鹸みたいな匂いがかすかにした。整った横顔が近くを通る。それだけで、なぜか体温が上がる。
教室の後ろの扉が開いて、閉まる。
一人になった教室で、透はしばらく動けなかった。
無防備。
その言葉が、耳の奥にずっと残っている。
何のことだよ、と一人で呟いてみても、答えは返ってこない。
ただ分かるのは、今日一日だけで榊原玲央の距離感に何度も振り回されて、そのたびに心臓が妙な動きをしたということだけだった。
たまたま同じクラスになって、たまたま少し話しただけ。
本当なら、それで終わるはずだった。
なのにどうしてか、透はもう分かってしまっていた。
明日、教室に入った瞬間、自分はたぶん無意識に榊原玲央の姿を探してしまう。
そんな予感が、やけにはっきり胸の中にあった。




