第11話 雷が落ちる
宿の外に出てくるタマ。
夜気は冷えているはずなのに、胸の奥だけが落ち着かない。
心臓の裏側を何かが爪でなぞっているような感覚が、ずっと消えずに残っている。
腕の中には重さがあった。
布に包まれた太刀《終座》。
そして見慣れた手拭い。
置いていった。
「抜くつもりがないということ……それとも……」
抜かせたくない剣をあの人は置いていった。
それを今は自分が抱えている。
タマは唇を結び足を止めなかった。
アウレオンから聞いた話は断片的だ。
リラが武装していたこと。
ゲドーマルがそれに同行したこと。
それ以上は分からない。
危険かどうかも正確な状況も、何一つ。
それでも。
「嫌だ」
胸の奥ではっきりとした拒絶があった。理屈ではない。推測でもない。ただ、嫌な予感だけが確信に近い形で居座っている。
城門は夜の警戒態勢に入っていた。
門番がすぐにタマの前に立つ。
「夜間の外出は控えてもらう。街の外は__」
「分かってます」
声は静かだった。
だが、急いでいることだけは隠せていなかった。
「それでも行きます」
門番は言葉を詰まらせる。
相手は冒険者だ。だが、今は一人。
「一人で行くつもりか?」
タマはほんの一瞬だけ視線を落とした。
「……はい」
「待て」
低い声が背後からかかる。
振り返るとそこにいたのはレオンだった。
鎧にはまだ戦いの名残があり、報告を終えたばかりだと分かる。
「ゲドーマルか?」
短いやり取りで状況を察したのだろう。
レオンは城門とタマ、そして腕の中の《終座》を見て眉をわずかに寄せた。
「外に出るなら……俺も一緒に行く」
それは命令でも制止でもない……まして守ってやるという響きでもない。
”条件”だった。
「……」
タマはすぐに答えなかった。
ずっと一人で動いてきた。
誰にも追われないために、誰にも縋らないために。
だからこそ、その言葉が思いのほか胸に響いた。
一緒に行く。
並んで進む。
タマは小さく息を吸い、頷いた。
「……お願いします」
城門が開く。
夜の街外れへと続く道に二人は足を踏み出した。
タマは《終座》を抱えたまま、前を見る。
まだ何も知らない。
けれどもう引き返さない。
胸騒ぎは消えないままだった。
*
夜の街外れの平原でリラが一歩前に出た。
舗装も灯りもなく、代わりに月の明かりが辺りを照らす。
冷たい夜風が草の匂いを運ぶ。
それでも、この場に立った瞬間空気が止まったように感じる。
リラは剣を構えたまま、ほんの一瞬だけ視線を揺らす。
「……ごめんね、ゲドー」
それは小さくほとんど独り言に近い声だった。
けれど、確かにそこには、個人としての感情があった。
そして大きくゆっくりと息を吸い、吐く。
背筋が伸び顔つきが変わり、声の温度も切り替わる。
「王都近衛騎士団第3団隊長、リラ・ヴァン・ストライゼン」
もう目に迷いはない。
「王女殿下の命により、ここに宣告する」
剣先が真っ直ぐにゲドーマルを指す。
「汝を、王都の脅威と認定する」
平原の夜気が張り詰めた。
「抵抗を認めず、退路を与えず、これより行使されるは、近衛騎士の権限に基づく処刑__」
そして、はっきりと。
「汝を、斬る」
近衛騎士3人が一斉に殺気を解放する。
「これは決闘ではない。私1人でもあなたには勝てる。でも、3人でいかせてもらう」
詠唱が始まる。
名が告げられた瞬間、夜の空気が変質する。
魔力が風に乗って平原へと広がっていく。
空が低く鳴り、開けたはずの平原が、囲いに変わる。
逃がさないための配置。
撃ち抜くために選ばれた地形。
あまりいい状況じゃないな。
「すまないタマ、すぐには宿に戻れそうにない」
リラの詠唱は長い。
だが、詠唱が完成すれば勝敗はつく。
金棒を握ったままわずかに踏み出す。
狙いはリラ。
倒すためじゃなく詠唱を止めるため。
だが、その動きは即座に潰された。
重装のガルムが割り込み槍が低く鋭く振るわれる。
守るための動き。
命令に忠実な”防御の型”。
金棒が槍を受け止める。
激しい金属音が鳴り響き火花が飛び散る。
押し返せない。
力の問題じゃなく位置と人数、役割の問題だ。
リラの詠唱は止まらない。
魔力がさらに濃くなり空間が痺れる。
魔道士エルネストが前に出てきて、結界と補助詠唱が展開される。
魔力は雷となり制御され安定する。
止められない。
すべてが噛み合ってしまっている。
それでも俺は金棒を、強く握り直す。
*
王都を抜けた先の夜は思っていたよりも広かった。
灯りは途切れ、道は闇に溶け前方も見づらい。
足音も、息遣いも、少し離れればすぐに消えてしまう。
タマは、思わず足を止めた。
どちらへ向かえばいいのか、もうどこまで来たのかわからない。胸の奥だけが嫌な速さで脈打っている。考えようとすると余計に焦りが募った。
その隣でレオンが周囲を見回す。
闇に目を凝らし短く言った。
「焦ってもしょうがない」
責める調子ではなく、慰めでもない。
「出来ることをやるだけだ」
その言葉にタマは小さく息を呑む。
「……出来ること」
思わず呟いていた。
それはずっと避けてきた言葉だった。
出来ることをやらないために、出来ない理由を探して生きてきた。
一人で生きてきた時間。
追われ、隠し、正体を伏せ続けた日々。
今はどうしても守りたいものがある。
タマは目を瞑り静かに深呼吸をする。
右手の魔道具、金の指輪と水色のブレスレットを外す。
「もう隠さない」
人の姿がほどける。
まず服が変わった。
冒険者として身に着けていた軽装は、夜気に溶けるように消え、代わりにどこか懐かしい装いが現れる。
和服に近い静かな衣。
白と淡い灰を基調にした布が身体に沿って重なり、動きを妨げないよう袖は短く裾は割れている。
装飾は少ないが無駄もない。
それは戦うための衣であると同時に、“在り方”を示す衣だった。
帯の位置、布の重ね、留め紐の結び方。
その一つ一つが、あっちの世界で過ごした時間を思い出させる。
ほんの短い間だった。
けれど、確かにそこにあった。
幾人もの鬼たちと、茨木と、そして外道丸と肩を並べ、言葉を交わし、盃を分け合った時間。
追われる必要も、隠れる必要もなかった日々。
「外道丸を絶対見つける」
白銀の髪が夜に揺れ、人族の耳だった形が、静かに変わる。
頭の上に現れたのは狐の耳。
風を拾い、音を聞き分ける、本来の感覚。
そして、
背後の闇が揺れた。
一本ではない。
二本でも、三本でもない。
夜の風を押し分けるように、九本の尾がゆっくりと、その姿を表す。
白銀の尾は淡く光を帯び互いに触れ合わぬ距離を保ったまま、静かに広がった。
力を持つがために追われ、生き延びるためにしまい込んでいたもの。
今はもう隠さない。
”九尾の妖狐”がそこにいた。
これは逃げるための姿じゃない。守るために、選んだ姿だ。
レオンは言葉を失った。
だが、剣に手を掛けることはしなかった。
視線を逸らさず小さく、だがはっきりと言う。
「……分かった」
それだけで十分だった。
タマは目を閉じ魔力を解き放つ。
地を這い空を渡り見えない境界に、そっと触れる。
二度と使うまいと決めた感覚。
それでも今は、逃げるためじゃない。
「……いた」
遠くにある確かな気配、胸騒ぎの正体。
タマは顔を上げた。
もう迷いはなかった。
*
詠唱が終わった。
《近衛迅雷・ストライゼン》。
最後の句が刻まれ雷がリラと剣へ収束する。
空気が激しい音を上げる。
振動が遅れて届く。
距離は消えていた。
音速。
踏み込みと同時に雷魔法を纏った剣閃が夜の風を裂く。
斬撃ではなく、到達そのものが攻撃だった。
金棒を振り上げる。
衝突。
雷と金属がぶつかり合い白光が弾ける。
その刹那、右手親指の指輪が淡く光った。
雷の流れが、強引に捻じ曲げられる。
散った。
リラを覆っていた雷魔法が霧のように霧散し暗闇に溶ける。
「……っ」
リラの目がわずかに見開かれた。
雷が消え剣はただの鋼に戻っている。
俺は親指の指輪を、眼だけ動かし確認する。
ドゥール、助かった。
雷を消したわけではない。
集中していた魔力の流れを強引に広げただけだ。
方向性を失った雷は放電する条件を失い夜に散った。
リラは即座に距離を取る。
驚きは一瞬で次の判断に置き換えられる。
足は止まらず、剣を構え直す。
その間を縫うように、重装騎士ガルムが踏み込み、槍を低く構え一直線に突進してくる。同時に、後方の魔導士エルネストが支援魔法を展開する。
「《加速付与》」
ガルムの踏み込みと反応速度が底上げされる。
三つの役割が、完全に噛み合う。
三対一。
数ではない。連携という圧力だ。
金棒で槍を受け流し体勢を整える。
だが親指の指輪はもう光らない。
昼間の川辺ですでに、ほぼ使い切っていたがタマに充填してもらう暇はなかった。
リラはすでに次の詠唱に入っている。
雷は再び集まる。
攻めに出られず防御に徹するしかない。
金棒を振るい、受け、凌ぐ。
一撃ごとに圧が積み重なる。
限界は確実に近づいていた。
空気が変わった。
「……上か」
夜空の奥で、偏りが生まれているのが視えた。
魔力そのものではない。
魔力によって作られた、溜まりだ。
上から落とす気か。
リラの剣に雷はなく、代わりに空そのものが低く唸っている。
稲妻が夜空を走る。
これは斬撃ではない。
神眼で追う。
上の溜まりから、地へ向かう流れ道。
その先に俺が据えられている。
纏う雷ではなく放つ雷だ。
稲妻が空中で跳ね、枝分かれしながら広場を駆け巡る。
一点を狙う斬撃ではなく、逃げ場そのものを潰す放電。
……極大級だな。
『絶対の力じゃない』
同時に圧が来る。
重装騎士ガルムが槍を突き出し金棒に重さを乗せてくる。
力で押す動きじゃない。
位置を殺すための突進だ。
後方で魔導士エルネストの詠唱が終わる。
魔力の壁が展開され踏み込みの余地が消える。
ガルムが場を離れる。
リラがしっかりとこちらの眼を見る。
「ごめん……もう、手加減できない」
剣を上に持ち上げる、リラ。
「天雷墜撃!!!」
一気に剣を振り下ろす。
逸らすなら。
理屈が浮かぶ。
落ちる理由を崩す。
流れ道を、ほんのわずかだけずらす。
だが、
右手の親指は応えない。
使い切った。
均す力はもう残っていない。
金棒だけじゃ、受けきれん。
身体の奥で、”氣”を起こす。
溜めるのではない。
巡らせ、満たし、限界まで引き上げる。
神眼をさらに深く開いた。
俺の周囲のわずか数歩分の空間、そこにある粒子の一つ一つが視えてくる。
通り道を変えるため、氣を外へ放った。
触れ、揺らし、引き剥がすため。
空気が鳴いた。
粒子が光を帯びる。
互いを離れ結びを失う。
周囲の空気が鳴き、バチバチと光を放つ。
“通りやすい場”へと変わっていく。
雷が来た。
白光が視界を埋める。
だが、それは俺を貫かなかった。
落ちてきた力は俺の周囲で弾かれ、より低く、より通りやすい方へと流れていく。
地面が裂け、空が震える。
金棒で衝撃だけを受け止める。
直撃ではないが、それでも骨に響く。
息が荒れ、視界の端が揺らぐ。
だが、生きている。
雷光が収まり轟音が遅れて追いつく。
広場は、焼け、抉れ、煙を上げていた。
俺は金棒を握り直す。
手のひらは汗で濡れ、指が痺れている。
空気が、まだ鳴いていた。
俺の周囲でほどけた場が微かに揺れている。
光が走り雷が好みそうな道が、いくつも生まれては消える。
それを見てリラが息を呑んだ。
重装騎士も魔導士もわずかに動きを止める。
止まったのは一瞬だけ、戦意は途切れない。
右手の親指は沈黙したまま。
リラは俺のわずかな躊躇を見逃さなかった。
一歩踏み込み、剣を構え短く詠う。
「《近衛迅雷・ストライゼン》」
今度は上ではない。
剣に雷が纏わりつく。
音が遅れて追いかけてきた。
速い。
あれはもう躱せない。
金棒を振り上げる。
受けるしかない。
雷を纏った剣閃が、真正面から叩きつけられた。
衝撃と光が同時に襲ってくる。
身体の芯まで、貫かれる。
金棒が弾かれ、足が地面を離れた。
次に感じたのは、冷たい地面だった。
視界が揺れ音が遠のく。
……ああ、ここまで、か。
それでも不思議と後悔はなかった。
斬らずにここまで来た。
それだけで十分だと思えた。
そのとき、
少し離れた場所で空間が歪んだ。
地面に光の円が描かれる。
見たことのある、だが二度と使うまいと聞いていた……”転移の陣”。
そこから二つの影が現れる。
夜に溶けない白銀の九つの尾。
そして、その横に槍を持った男。
「……これは、一体どう__」
レオンの声が、聞こえた。
タマは、俺を見る。
迷いのない目だった。
逃げるためでも、隠すためでもない。
覚悟を決めた者の目だ。
……来たの、か。
肺がうまく動かず、息を吸うたび内側が軋む。
「……ゲドーマル!」
視界の端に白銀の尾が入ってくる。
タマが俺の傍に膝をつく。
両手が触れた瞬間、砕けかけていた内側に別の流れが巡り始めた。
回復魔法か。
生きている状態に引き戻される。
だが、意識が遠のいていく感覚がある。
騎士がざわついた。
ガルムが息を呑み、エルネストが一歩退く。
「……状況を説明してもらえますか、リラ隊長」
レオンの声は低く冷静だが槍を持つ手には力が入っている。
「命令は継続中よ、レオン殿」
声は揺れていない。
「これ以上ここに留まればあなた達2人も対象になるわよ」
それは警告であり、そして最後の譲歩でもある。
レオンは何も言わずに俺とタマの前に立つ。
「レオンさん、行って」
タマが顔をこちらに向けたまま、レオンに伝える。
だが、レオンは頷き位置を変えない。
段々と瞼の重さに逆らえなくなる。
声も聞こえづらくなってくる。
眠い。
遠い記憶が蘇ってくる。
俺の手を濡れた手拭いで拭いてくれる、ちょっと困った顔をする女……。
緑の匂いのする女……。
『手、洗おうよ』
「……会いたい」
「今は……だめ!」
タマが短く言う。
「サエさんには会わせられない。死なせない!」
回復は止まらない。
全力だ。
少しずつ意識がこちらに帰ってくる。
そのとき、場が変わった。
「そこまでだ」
風が、森の匂いを帯びる。
地面の奥から、何かが応える感触。
アウレオンが現れ、その隣にドゥールが駆け寄ってくる。
リラの剣が、即座にアウレオンに向けられる。
「冒険者アウレオン、何しに来た?」
だが、アウレオンはリラの質問には答えず、代わりにタマに言う。
「遅くなった。ドゥールを呼びに行ったあと、ここを見つけるのに時間がかかった」
アウレオンは手を掲げる。
詠唱も、命令もない。
光が集まり、葉の粒のようなものが舞い……”鹿の姿”が、そこにあった。
静かで、揺るがない。
世界の一部が、そのまま立ち上がったような存在。
「あれは……森精霊、”シルヴァン・ブラン”?」
リラが驚きとともに呟く。
「馬鹿な……精霊が、応えたのか……?」
魔道士エルネストが驚きを隠せない。
空気の巡りが変わる。
自然の力が場に満ちアウレオンの魔力が……跳ね上がったように見えた。
だが、それは増えたのではない。
自然魔法が最初から“成立している”状態。
リラの剣が僅かに下がる。
明らかに顔色が悪くなっている。
「……明日までです」
タマを見て、静かに告げる。
「明日中に、王国を去りなさい」
命令、そして最大限の譲歩。
近衛騎士二名が、無言で後退する。
リラは最後に一度だけこちらを見た。
唇を噛み締めている。
踵を返し夜の中へ消えていく。
夜の静けさが戻った。
ドゥールが駆け寄り、俺の口に苦い液体を流し込む。
「大将、生きてるな?」
どうやらタマの回復と噛み合い、意識が、はっきりしてくる。
俺はまだ地面に横たわったまま、息をついた。
また、死に損なった……な。




