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無意識の恐怖

 かつて空手を始めて僅か一か月、腰には白帯を巻いた未惟奈が、天才高校生有栖天牙を秒殺した衝撃を思い出していた。


 あまりに親しい関係になっていたからか、忘れていた。未惟奈の才能とはそういうものだということを。


 全日本チャンピオンで、おそらくその実力は日本テコンドー界では、最高峰にいる山中彰相手でも、未惟奈は「20分の観察」だけで並び立ってしまう。


 だから一か月あれば有栖が秒殺されるなんて、今にして思えば当たり前の話だった。


 確かに俺は「空手」と言う土俵であれば、未惟奈に負けることはなかった。しかし、俺にそんな他流武道を一瞬でマスターするなんて芸当なんか出来るはずもない。俺の空手の実力はあくまで長い時間をかけてようやくたどり着いた努力の賜物だからだ。


 信じられないことだが、今の山中との組手で、未惟奈がここに来た目的は既に達成されてしまったといっていい。


 だから、未惟奈はもうこんな事を言い始めてしまった。


「春崎さん、もういいよね?私東京で少し遊んで帰りたいから」


 さすがに黄師範やほかの道場生に聞こえないようなヒソヒソ声だったのだが。


 いや、確かにそうだけど……あれだけの真剣勝負をしておいてもう「遊びモード」に頭の中が切り替わっている未惟奈の才能?に驚嘆してしまう。


「おい、未惟奈……さすがにこれで”はい、さよなら”なんて失礼だろ?」


 俺は未惟奈の同じように小声で、忠告した。


「いいでしょ?ちょっと遊んで行こうよ」


 駄々っ子のように未惟奈は眉をハの字にして、しかも俺の手を両腕で掴みながら言った。


 そんな未惟奈の話が聞こえたのか、聞こえないのか……黄師範から提案があった。


「もう未惟奈さんには、これ以上説明は必要なさそうだね。今日は日帰りで岩手に帰るんだよね。あまり長居させても申し訳ないから」


 黄師範はそう前置きして、さらに想像だにしていなかったこと口にした。


「最後にせっかくだから、翔君……私とちょっと手合わせしてみないか?」


「え!?」


 今日は流石に俺の出番はないと思って、完全リラックスモードでいたはずなのにいきなりのその申し出に俺は必要以上に動揺してしまった。


 この時、俺の頭の中では色々なことが飛来していた。


 果たして、黄師範は俺のことをどこまで知っているのか?つまり春崎須美からどういった話が伝わっているのか?


 また、対戦相手が、道場生の誰かではなくて黄師範ということに意味があるのか?


 しかしそんなことを思いながら、俺は咄嗟に口をついた「らしくない」言葉で、自分自身が動揺する。


「いや、俺は……そのテコンドーのポイントルールとか、未惟奈のようにすぐマスターすることはできないので……」


 過去の俺ならするはずもない「逃げの言い訳」が口をついていた。俺はいたって普通の高校生と思っているが、こと空手に関しては確固たる自信がある。だから、このような対戦の申し入れに過去「逃げ」の態度をとったことはなかった。


 それなのに、不意に口をついた言葉がなんとも情けない逃げ口上だった。


「翔?どうしたの?らしくないじゃない?」


 俺のことをよく知る未惟奈も、明らかに不満の表情で口を出した。


 さらに気になったことがある。春崎須美だ。彼女が、今まで見せたことがないような緊張と不安の面持ちで口をつぐんでいたことだ。


 また、未惟奈と山中の対戦が無事終わりリラックスムードだった道場生らが、そんな黄師範の提案を聞いてから「これはやばいぞ」とでも言いたげな緊迫感を漂わせた。


春崎の異様な緊張。道場生の動揺。


 俺はこれらの状況から一つの結論を得た。


 俺は「無意識に」この黄師範の存在を恐れている。先に春崎から黄師範が只者ではないことを聞かせれていたが、実感はなかった。ただ、具体的に黄師範の動きを見たわけではないが、実際に目の前でこの道場での師範の立ち振る舞いを見て、きっと俺の武道家としての本能が「恐怖」を感じ取った。


 きっと、春崎も道場生も黄厳勇という武道家の恐ろしさを知っている。


 だからだろう。皆の関心が俺の次の一言に注がれているのが、場の雰囲気から感じられた。


 黄師範は変わらず涼しげな笑顔で俺の次の句を待っている。


 俺はすでに気付いてしまった恐怖を追いやるように、眼を閉じて天を仰いだ。それから息を静かに吸って……大きく、そして長く吐いた。


 まずは気を整えよう。いつも通りの俺に戻らねばならない。


 吐く息に集中して、下腹の丹田に意識の根を下ろす。芹沢薫子から習った大成拳で使う気のコントロール法がこんな時に役にたつ。


 俺が感じてた「恐怖」と「緊張感」がピリピリと全身の気に乗って剥がれていくのが分かった。


 俺はその感覚を丁寧に吐く息に乗せ体外へ放散させた。



 俺は目を開けた。


 すると黄師範と目が合った。その目は、さっきまで見せていた「涼しげ」なものでなく、鋭い剣の切っ先の如くに光っていた。


 俺の身体から恐怖は去った。だから俺は口を開いた。


「俺は未惟奈のようにはできないと思いますが……是非、ご教授頂けると幸いです」


 俺がそう言うと、黄師範は満面の笑みで答えた。


「無理言って、悪いね、翔君」


「そうこなくっちゃ!!翔!!」


 人の気も知らない未惟奈はテンション上げ上げになっている。暢気なものだ……


 しかし、未惟奈のテンションとは裏腹に春崎の様子は変わらず不安げに俺を見つめていた。まったく、そんな不安な顔して……どうせこの話だって自分が考えて黄師範にお願いしたんだろうに。いや、言い出したからこそ責任を感じているのか。それだけ「危険な相手」だから。


 でもなあ……正直未惟奈のようにテコンドーらしく戦うなんて芸当俺には無理なんだよな。実際問題として、これに関しては一抹の不安が残った。しかし、そんな不安は直ぐに杞憂となった。


「翔くんはテコンドールールで戦う理由はないだろうから、空手ルールでやろうか」


 黄師範からそんな提案があったのだ。


 なるほど、それならば……まったくの無問題だ。


 逆にそうなれば例え相手が黄師範と言えども俺が無様な戦いをする訳にはいかない。むしろ俺へのプレッシャーは増すのだか、嫌なプレッシャーではない。


 ……フフフ、面白くなってきたな。


「じゃあ、早速はじめようか」


 その言葉に、呼応して……俺は静かに立ち上がった。


 さて、自分でも全く想像ができないこの対戦。


 全身が武者震いで打ち震えた。


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