静かなる訪問者
埼玉スペシャルアリーナの裏口。
未惟奈と伊波紗弥子の激戦の余韻を残した会場は、なお空気を震わせていた。
そしてメインイベントを控えたその時間、選手もスタッフも慌ただしく動く中、ただ一組――静かに歩く二人がいた。
先を行くのはウィリス未惟奈。
試合を終えた直後とは思えない、軽快でしなやかな足取り。
それはまるで学校の廊下を歩くかのようだった。
その後ろに続くのは、一人の老人。
空気の上を歩くような音が存在しないかのような歩き。
一歩ごとに空気だけが動く。
「ねえ、おじいさん。こうして一緒に歩くの、ちょっと不思議な感じよね?」と未惟奈が振り返った。
「フフ、そうじゃな」と老人は目を細める。
そう答えたのは他でもない。翔の祖父であり、師でもある鵜飼貞夫、その人だ。
「伝説の空手家“鵜飼貞夫”がこの“試合会場に足を運ぶ”なんて、誰も想像してないよね?」と未惟奈は嬉しそうだ。
鵜飼は歩を緩めずに、
「お前さんが強引でなければ、今頃ラーメンの仕込みをしていたさ」
と静かに返した。
「まあ、可愛い孫の可愛すぎる彼女の頼みとあったらね」
言葉こそおどけているが、その目の奥には真剣な光が見て取れた。
「全く、翔は甘いの」
鵜飼は少し呆れたように呟いた。
「え? なんで?」
「未惟奈さんは、翔が勝つということに、ほんの少し不安があったんだろ?」
と続けた。
未惟奈は図星を突かれ、可憐にもなく赤面した。
その頬のわずかな朱を見て、鵜飼は静かに目を細めた。
二人はアリーナの通路を抜け、主催者室の前で足を止めた。
未惟奈はノックもせずドアを開ける。
「高野さん。ちょっといい?」
相手の都合も考えず、しかもメインイベント直前という大事なタイミングだ。
こんなことが許されるのは、この会場で未惟奈以外にはありえない。
デスクに向かっていた高野CEOが顔を上げる。
RYUZINの代表、格闘界の演出家。
だがその目が鵜飼の姿を捉えた瞬間、驚きに替わる。
高野の敬意を込めた沈黙が、部屋の空気を引き締めた。
「……これは、まさか。鵜飼先生。お越しいただけるとは思いませんでした」
言葉を絞り出すように高野が言う。
一瞬の驚きのあとに訪れた静けさ――それは本能的な畏敬の表れだった。
「高野、久しいな。変わらず忙しそうだ」
鵜飼の声は低く、しかし柔らかい響きを帯びていた。
その一言で、高野の肩の力が抜けたように見えた。
「はい。ですが、この興行だけは、いつも以上に震えてますよ。なにせあなたのお孫さんがメインイベントだから」
高野は笑みを作りながらも、わずかに喉が鳴った。
それほどまでに、この老人の存在感は圧を持っていた。
「お前が震えるなどあろうものか。相変わらず芝居がうまい」
と鵜飼は表情を変えずに言った。
淡々としたその言葉には、懐かしさとわずかな皮肉が同居していた。
「褒め言葉として受け取ります」
高野が苦笑する。
だがその笑みの奥に、かつて同じ道を歩んだ者への尊敬が確かに宿っていた。
さすがの高野も緊張の面持ちで続けた。
「それにしても翔くんがあなたの指導を受けていたとは。でも彼を見ても不思議と驚かなかった。
彼の動きを見て、すべてに合点がいきましたから。ああ、鵜飼先生が翔くんの中にいると」
高野は翔への思いを興奮ぎみに語ったが、鵜飼の顔は晴れない。
「それでは翔、まだまだだな。自分だけの空手になりきれていない」
鵜飼の声は静かだったが、その言葉には容赦がなかった。
「相変わらず厳しいですね。でもそんな翔君に私は一撃で沈められました」
高野は思わず笑い、だがその笑みはどこか苦い。
その言葉を聞いた鵜飼は、わずかに目を細めた。
未惟奈は、そんな二人を嬉しそうに見守っていた。
「やっぱり、高野さんのところに寄って正解だったね」
「確かに。未惟奈には感謝だな。それに鵜飼先生には謝らなければと思っていました」
「え? なんで?」
高野の言葉に、鵜飼より先に未惟奈が答えた。
「今日の試合、プロのムエタイチャンピオンに高校生の翔くんが挑むことは、普通に考えて危険を伴うということ」
鵜飼がフフと笑いながら続けた。
「そう言いながらも、強引にお前が決めたのなら、そうならない確信があったのだろう?」
すべてを見透かされた高野が、思わず頭を下げる。
「鵜飼さん、どうか――翔くんの試合を見届けてやってください」
「まあ、未惟奈さんにも懇願されたしな。そうすることにしたよ」
「……ありがとうございます」
未惟奈は満足げに、長居は無用とばかりに軽やかに踵を返した。
その背中に高野が言った。
「未惟奈……ありがとう」
未惟奈は、振り返ることなく手をひらりと振り上げた。
目上の相手には失礼な所作だったが、未惟奈にはそれが許された。
そして彼女は、まるで舞台の幕が上がるのを感じ取ったかのように、ほんの一瞬、足を止めて振り向くことなく笑った。
その横顔に、いつもの勝ち気な笑みが戻っていた。
どこまでも自由で、どこまでも信じる者の顔だった。




