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武者修行での奇跡

「ちょっといいかしら?」


 神沼翔との対戦を控えたチャンプアのもとを、一人の女性が訪ねてきた。


 試合直前の控室は独特の緊張感に包まれている。スタッフやトレーナーたちは試合の準備に余念がなく、チャンプアの筋肉を解す者、スポーツドリンクを差し出す者、戦略を囁く者、それぞれが持ち場の役割を果たしていた。


 そんな中、この女性は何の躊躇もなく控室の敷居をまたいだ。


 試合直前の控室への侵入に神経を尖らせているスタッフたちを、すり抜けることができた異常さに、誰も疑問を抱かない。


しかし、チャンプアだけは違った。


「あなたは有栖選手のセコンドにいた方ですね?」


 目の前に立つ女性を一瞥し、チャンプアは流暢な日本語で問いかける。


「突然ごめんなさい。有栖君の学校の空手部顧問の芹沢薫子です」


 芹沢薫子――肩まで伸びた黒髪は綺麗に整えられており、制服を着ていれば高校生と見間違うほど若々しい。しかし、その瞳は鋭く、獲物を見据える猛禽のようにチャンプアを捉えていた。


「ずっと思ってましたが、あなたは空手の顧問らしくないですよね?」


 チャンプアは少し揶揄するように口元を歪める。彼の視線は芹沢の佇まい、微細な動作に注がれていた。彼の言葉の意味することは「幼い女性に見える」ということことではない。ただの空手指導者ではない——。空手とは違う「何か」がベースになる武道家であるという意味だ。


「あら、よく気づいたわね? さすがね」


 芹沢の唇が微かに釣り上がる。まるでゲームの駒をひとつ進めたかのような余裕の笑み。


「だから俺を訪ねてきたんでしょ?」


 チャンプアは不敵な笑みを浮かべた。


「ふふふ、やはりそうなのね」


 芹沢は驚いた様子も見せず、チャンプアの言葉を受け止める。それどころか、まるで核心に迫ることを楽しんでいるかのようだった。


 彼女はこの会場に入ったときからずっと感じていた、チャンプアの異様な気の波動の正体を探ていた。ムエタイ戦士らしからぬその「気」の扱いの正体を。


 それは神沼翔や未惟奈、そして超能力マニアの美影惣一までもが感じ取っていた。しかし、それを最も正確に感じ取っていたのは、他ならぬ芹沢薫子だった。なぜなら、彼女自身が「大成拳」の伝承者だからだ。


「あなたはそれをどこで学んだの?」


 まっすぐに問いかける芹沢。


「あなたの想像通りですよ」


 チャンプアは余裕の笑みを浮かべたまま、まるで相手の思考を見透かすように答える。


「どういうこと?」


 芹沢の表情がわずかに強張る。彼女の中には、すでに「ある予感」があった。しかし、それが事実とは到底思えなかった。


チャンプアは躊躇せずに話した。


「俺が気を扱える理由は、神沼翔と同じということだ」


 その瞬間、芹沢の顔が引きつった。


 やはり——。


 彼の言葉は明確な答えだった。まちがいない。チャンプアに「気」を教えたのは、神沼翔の祖父・鵜飼貞夫に他ならない。芹沢は咄嗟にそう思った。


「な、なんであなたが鵜飼貞夫と接点があるの?」


 芹沢は最も知りたかったことをストレートに聞いた。


 その声がわずかに震えた。チャンプアほどの戦士が、日本の空手、それも「気」を使う鵜飼貞夫と交わったという事実は、さすがに彼女にとって想定外のものだった。ムエタイは立ち技最強と謳われる格闘技であり、その頂点に立つチャンプアが、なぜ日本の伝説の空手家と繋がりを持っているのか――。


 「フフフ」


 チャンプアは静かに、微笑んだ。彼は芹沢との会話を楽しんでいるようにも見えた。


 「あなたが、空手を学んだっていうの?」


 「違うな」


 チャンプアは首を横に振る。


 「俺はムエタイの戦士だ。空手を学ぶはずがなかろう」


 「ではどうして?」


「奴が来たんだよ。俺たちの国へな」


 「鵜飼貞夫が……タイに?」 


 芹沢は信じられないという顔をした。


 チャンプアは薄く笑い、椅子の背もたれに体を預けた。控室の蛍光灯が彼の褐色の肌に影を落とす。


 「あれは……もう十年以上前か。あのじいさんが一人でタイにやってきた。立ち技最強のムエタイに自身の空手がどもまで通用するか?ようは『武者修行』だとさ。俺はその時、まだ十代だった」


「あなたは鵜飼貞夫と立ち会ったの?」


「ああ。衝撃だったよ。すでにムエタイの舞台で名を馳せていたが、あのじいさんと出会って初めて、本当の敗北を味わった」


芹沢の友人でもある格闘技記者の春崎須美が効いたら卒倒しそうなネタだ。芹沢も改めてその事実に鵜飼貞夫という空手家の底知れない実力に驚愕した。


 「……それほどの人物だった?」


 チャンプアは芹沢の問いに少し驚いた顔をしたが、すぐに鼻で笑った。


 「お前は知ってるだろ? それを聞くまでもなく」


 芹沢は言葉に詰まった。確かに、彼女自身も大成拳を習得する身として、鵜飼貞夫が只者ではないことはよく知っている。事実彼の店では気のボール投げられその脅威を身をもって体験した。しかし、それでもなお、ムエタイのトップに君臨するチャンプアが「本当の戦いを知らなかった」とまで言うとは――。


 「……あのじいさんは、化け物だったよ」


 チャンプアは懐かしむように、少し遠くを見る。


 「すべてのタイの戦士たちは立ち技最強を自負している。俺たちのムエタイに勝てる格闘技なんて存在しないと。でもな、あのじいさんは、そんな俺たちの誇りをいとも簡単に打ち砕いた。力ではない、速さでもない、まるで重力そのものを操るかのような戦い方だった」


 芹沢の呼吸が浅くなる。大成拳を深く知る彼女だからこそ、鵜飼のその戦い様がリアルに想像できて身震いした。


チャンプアは芹沢の様子を見て笑みを深めた。「俺はそれを目の当たりにして、血が騒いだ。あのじいさんと戦いたい、と心の底から思った。……そして、俺は手も足も出ずに負けた」


 「……!」


 芹沢は言葉を失った。


 「若くて無鉄砲な俺は全力で打ち込んだ。けど、気づけば宙を舞い、地面に叩きつけられていた。どこから攻撃が来たのかも分からなかった。ただ分かったのは――俺は何回戦おうと、現時点でこの爺さんに勝つことは決してできないということだ」


 チャンプアの拳が、軽く震えていた。これは屈辱ではなく、かつて味わった本物の戦いの興奮――そして、そこから得たものへの敬意だった。


 「あなたは鵜飼貞夫に師事したの?」


 「そんな訳ないさ。そんな時間もない。じいさんはすぐに日本に帰国してしまったからな。チャンプアは肩をすくめる。「ただ、俺は拳を交えることでたくさんのヒントをもらった。だからそれからは独学だ」


 芹沢は息を呑んだ。


 ――この男は、独学でここまで気を扱える存在になった?


そんな簡単な話ではない。現に芹沢は物心ついてから身を削るような過酷な修練の末に会得した経験がある。見よう見まねで出来ていいはずがない。


 チャンプアがムエタイやキックボクシングで見せる試合に「気」の存在を感じることない。それでも彼はムエタイの頂点に立っている。


しかし認めたくはないが、会場に入ってから感じ続けるこの「気」の感覚はかれの「気」に関するスキルが決して低レベルではないことは一目瞭然だ。


 そして今、彼はその「気」の力を開放して神沼翔と戦おうとしている。


 「なるほどね……だからあなたは翔を指名したのね。彼との対戦理由に伊波紗弥子は関係がなかった」


そうだ、チャンプアにあるのは再度かつて自分を完膚なきまでに敗北させた「鵜飼貞夫」へのリベンジ。だから鵜飼貞夫の空手を体現する神沼翔と戦う必要があるのだ。


 芹沢はチャンプアの目をじっと見つめた。彼は笑った。その目は、これから始まる戦いをただただ待ちどおしくて仕方ない子供のようであった。

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